第92話 生還とサプライズ

 ビッグウッドの森を脱出し、無事にテラリアの街へ戻って来れた頃には深夜を通り越して夜明けを迎えていた。街を照らす朝焼けの光が目に沁み、眩しさの余りに目が潰れてしまいそうだ。

 しかし、門を潜り抜けると早朝にも拘わらず、大通りには大勢の人間が犇めき合っていた。殆どが救出部隊に参加した身内や仲間の出迎えが目的であり、その群衆の中にはキューラの姿も見受けられた。


「みんなー!!」

「あっ、キューラおねーしゃんだ!」


 私達の姿を発見するやキューラは人海を文字通り掻き分け、今にも泣き笑いをしそうなくしゃっとした笑顔をはにかみながら私に大の字で抱き付いた。うん、平常運転で逆に安心しました。


「ああああ、よかったぁ~。ガーシェルちゃんの身に何かあったんじゃないのかって思うだけで満足に眠れなかったよぉ~」

「少しは生身の人間の心配をせぇや」

「ヤクト、こやつに真っ当な神経を求めるのは無謀というものだ」

「せやな、変態に期待したのが大きな間違いやったな」

「いやいや! ヤクトちゃん達の安否もちゃんと気に掛けていたから! というか、匙投げるような感覚で私を雑に扱うのヤメテ!!」


 無事に生還出来たという喜びの後押しもあって私達は無邪気に笑顔を振り撒いているが、必ずしも全員が私達と同じ反応を見せている訳ではない。

 先の救助作戦で命を落とした人間だって当然いる訳であり、故人の速すぎる死にショックを受けて嗚咽を漏らす者も居れば、静かに安息を祈って死者に敬意を払う人々の姿もある。


「お母様ぁー!!」

「シュターゼン!! ああ、良かった!! 本当に良かった!!」


 そして私達以外に救出対象だったドラ息子も母親と感動の再会を果たしている。父親は安堵とも疲労感とも取れる何とも言えない複雑な面持ちで数歩引き下がった場所から二人を見守っており、その距離感と表情が家族内の関係を物語っている。

 アクリル達の救助も済んだし万々歳……と思ったら、ここに来てシュターゼンが爆弾をブチ込みやがった。


「お母様! 聞いて下さい! コイツ、僕の後頭部を鈍器で殴ったんですよ!」

「な、何ですってぇ!?」


 どうやら銃座で殴られた時の出来事を余程根に持っていたのか、自分が被害者だと言わんばかりにヤクトを糾弾したのだ。しかも、公の場という事もあって人々の視線がヤクトとシュターゼンに結び付き、瞬く間に二人の遣り取りは注目の的となる。

 何てヤツだ、自分がした行いを棚に上げて他人を批難するなんて。いや、確かにヤクトがドラ息子を殴ったのは事実なんですけれどね。

 シュターゼンの告発に母親であるキャロラインの目付きが鋭く釣り上がり、人一人を射抜き殺せそうな殺気に塗れた視線をヤクトに向けた。けれどもヤクトは他者から向けられる殺気に慌てるどころか、「はて……」と惚けた振りをして遣り過ごそうと試みた。


「何の事ですかね? 俺っち、全然覚えてませんわー」

「嘘を言うな! ボクが救助された時に殴っただろう!!」

「そうやったかなー? アンタが五才の子供とメイドを見捨てて逃げようと喚いていたのは覚えてるんやけどなー」


 ヤクトも注目が集まっている事実を逆手に取って、ここぞとばかりに敢えて二人――年端もいかない子供と非力な女性――を見捨てようとしていた事実を強調すれば、予想通りに周囲は騒めき出した。

 我儘な貴族のドラ息子を一発殴った事実と、彼が女子供を見捨てて逃げようとしていた事実。真っ当な精神を持つ一般市民に二つの問題を提起すれば、どちらに非があると見るかなんて言わずもがなだ。

 当然の如く周囲の群衆はヤクトに味方し、シュターゼンへは軽蔑と非難を込めた視線が向けられる。まぁ、ドラ息子の振る舞いに嫌気や敵意を抱いていた人間が数多く居たのも理由の一つなんですけどね。

 何はともあれ、これで形勢逆転だ。恐らくシュターゼンは公の場だからこそ相手を乏しめるのに丁度良いと考えていたのだろうが、まさか逆に自分が責められる立場に立たされるとは思いもしなかったようだ。文字通り浅はかな行いと言う他あるまい。

 そして形勢不利となったシュターゼンは助けを求めて母親へと視線を寄越せば、キャロラインはニコリと笑みを携えると一歩前へと踏み出た。とてつもなく不穏な空気が彼女の頭上で渦巻き、それを察したヤクトの頬がヒクリと軽く釣り上がる。


「成程、アナタは子供と女性の命、そして貴族の命を天秤に掛けて前者を取ったのですね」

「まぁ、別に天秤に掛けた訳やあらへんけど……そういう見方をされてもしゃーないかな? 少なくとも、俺っちには子供と女性を見捨てる選択肢は最初からあらへんかった。それは確かや」

「では、アナタが無理に留まったせいで犠牲者の数が増えたのだとも考えられますわよね?」


 その一言を機に周囲の騒めきが地を這うような低いトーンへと落ち込み、シュターゼンを責める眼差しや雰囲気は大幅に薄れた。

 確かにその可能性も十分にあるが、結局それは結果論に過ぎない。しかし、人間というものは『たられば』というIFの可能性に未練がましく執着するのだ。恐らく急にトーンが下がり、それまでの空気が一変したのも少なからずキャロラインの意見にも一理あると一部が認めた証拠だ。


「それはつまりアンタの息子の言う通り、二人を犠牲にしてさっさと逃げ帰れば良かったっちゅー事かいな?」

「ええ、察しが良くて助かります。二人を見捨てれば、犠牲者が膨れ上がらずに済んだ。違いますか?」

「生憎やけど、さっきも言ったように俺っちには子供と女性を見捨てる選択肢は最初からあらへん」

「ならば、アナタが一人だけ残れば良かったではありませんか。そうすれば悲しむ人も居なかった。とどのつまり、この悲劇はアナタの自己満足で生み出された。そういう事なのです」


 何という女性だ。元々は今回の事件はシュターゼンの我儘が原因で始まったと言うのに、最終的な責任をヤクトに押し付けようとしている。しかも、事態の根本に目を向けず、目先の被害に囚われた一部の民衆もキャロラインに味方し始めた。これは良くない流れだ。


「待って下さい!」キューラ女史が咄嗟に口を挟んだ。「そもそも今回の一件はシュターゼン氏の違法な魔術によって起こったものです! 根本的な責任は彼にあります!」

「そうは仰いますが、証拠は何処にあるのですか? 証拠も無いのに勝手なデタラメを言わないで欲しいものですわ。ましてや王国の国家機関に属する人間が口を挟んだ挙句片方の肩を持つなど、平等に欠けるとは思いませんか?」

「く……!」


 相手のスキルや魔術に疑いがあっても、証拠として確定したものでなければ意味が無い。そういった法の事情を知っているからこそキャロラインは強気にキューラの指摘を突っ撥ねた。

 仮に証拠を求めても、彼女は貴族の権力をフルに活用して徹底的に拒むに違ない。結局は何の力もない私達が潰されかねないのだ。


「お分かりですか? アナタの無謀な試みが犠牲者の数を増やし、そして事態を悪化させたのです! 今回の作戦に従事したハンター達も同じ事を考えているに違いありません! アナタのせいで仲間が死んだのだと―――」

「ちがうよー?」


 勢いに乗ってヤクトを断罪しようとしたキャロラインの言葉を堰き止めたのは、アクリルの無垢な呟きだった。その透き通った幼い一言は空気を埋め尽くしていた騒めきを掻い潜り、場に集まっていた人々の鼓膜に届くのと同時に水を打ったかのような静けさを一瞬だけ生み出した。

 自分の言葉を邪魔された挙句、年端もいかない子供に否定された事実にキャロラインの目尻が不機嫌に釣り上がる。が、シュターゼンのように子供の癇癪を引き起こさず、大人の余裕とも言うべき懐の深さを見せ付けるかのように笑顔で塗り固めた鉄面皮をアクリルの方へ振り向けた。


「あら、お嬢さん。一体何が違うのかしら? 彼のせいで多くの人が亡くなったのに、その事実を認めないのは良くないわよ? それとも自分のせいだって言うのかしら?」

「ううん。悪いのはヤー兄じゃなくって、あのヘルスタッグだよー?」

「ええ、そうね。でも、彼が無理をしたせいで大勢の人が犠牲になったのは事実よ?」

「ちがうもん! 急にドラちゃんの命令を無視して暴れて、アクリルやエマおねーしゃんやドラちゃんを攫ったのはヘルスタッグだもん!」


 アクリルが舌足らずに事実を告げた途端、キャロラインの笑顔の鉄面皮に微弱な罅が入り、言葉を詰まらせた。しかし、幼い子供が相手の機微を酌める筈もなく、更に畳み掛けるように言葉を綴った。


「ヘルスタッグが素直にドラちゃんの命令を守っていたら、こんな事にはならなかったし、誰かが傷付いたりもしなかった! だから悪いのはヘルスタッグだよ!」

「それは――」キャロラインは頬をヒクヒクと引き攣らせ、激しい怒りを無理して抑えるような震えた口調で問い質す。「――遠回しに息子の責任だと仰いたいのですか?」

「………そうなのー?」

「な!?」


 コテリとあざとく首を傾げながら聞き返すアクリルに一切の悪気など無い。対するキャロラインは自分の息子の責任があるのかと言及したが為に、周囲から疑念の眼差しを向けられてしまう。完全に自らの手で墓穴を掘ってしまった形だ。

 アクリルとしては純粋に悪いのはヤクトではなく、勝手に暴走したヘルスタッグにあるのだと訴えたつもりだが、キャロラインにしてみれがソレは何としてでも否定したい……いや、話題にするのも避けたい事実であった。

 何故ならばヘルスタッグに責任があると認めれば必然と主人であるシュターゼンの責任と見做され、だからと言って責任を認めなければ最初からシュターゼンにヘルスタッグを御する力が無かったという事実に繋がってしまう。

 とどのつまり、YESだろうがNOだろうが、どちらに転んでもシュターゼンの面子に泥を塗る結果しか待っていないのだ。板挟みに気付くだけの聡明さもあったが、不出来な息子を守りたいという歪んだ母親の愛情がキャロラインの思考を雁字搦めにし、複雑に拗らせた。

 結局キャロラインは板挟みの打開策を見出せず、声帯を封じられたかのように返答に窮してしまう。無垢な子供の前に策士の大人が敗北を喫する姿は、傍から見ていたクロニカルドの目には滑稽に映ったらしく、彼はくつくつと喉を鳴らすような愉悦に滲んだ笑い声を立てていた。


「こ、子供が大人の言う事に盾突くんじゃありません!! 良いですか! 全ての責任はアナタ方にあるのです!! 今回の救出劇で犠牲になった方々も、きっとアナタを恨んで――」

「それは違います」


 遂には大人の身勝手な理屈でアクリルの意見を封じ込めようとしたキャロラインだったが、明確な意思の表れとも呼べる力強い声が彼女の台詞を遮った。

 声に惹かれて振り返ると、そこには私達を救ってくれた三獣士達、そして救出劇に参加した数人――ロブソンとドワーフと若手の弓使い――の姿があった。彼等もまた三獣士に救われたのか、五体の所々に応急処置の包帯が荒々しく巻かれているが、その瞳の奥底にある誇り輝きは健在だった。


「あんたら、無事やったんか!」

「ああ、おかげさま生き延びてしまったよ。ところでキャロライン殿、今の話を小耳に挟みましたが、まるで我々の犠牲は彼等の責任であるように聞こえますが?」

「違うと仰るのですか!?」

「我々はハンターです。命を賭して任務に当たるのは当然の事であり、その最中に起こった死は他でもない自分達の責任です。そんな彼等の死を他者を乏しめる道具として利用するのは、任務に命を懸けた彼等に対する冒涜でもあります。そういった軽率な発言は辞めて頂きたい」

「なっ! ハンターの分際で……誰に向かって口を利いているのですか! ヴァークナー家の名に泥を塗るような真似は許しませんわよ!! 私の力を以てすれば、アナタの肩書からハンターの称号を奪うなんて造作もありませんわ!!」


 子供に言い負かされ、格下の相手に否定される。お嬢様として蝶よ花よとチヤホヤされて育った高飛車なキャロラインにとっては、耐え難い屈辱であったのは容易に想像出来る。

 そして淑女のように取繕う余裕を失った彼女はヒステリックな一面を露わにし、己の権力を武器にロブソンに露骨な脅しを掛けた。大抵の相手なら権力を前にしたら跪くのが当然だがしかし、相手が一領主に匹敵する権力者であるにも拘らずロブソンは臆する様子を見せず、真っ直ぐに彼女を見据えた。


「ご自由にどうぞ。ですが、その力を行使出来ればの話ですがね」

「どういう意味ですか?」

「こういう意味だ。キャロライン・ヴァークナーよ」


 群衆の騒めきを両断するかのように威厳に満ちた男性の声が場を駆け抜けた途端、大気中に静電気にも似た刺激が走り、緊張感が生まれる。そして何処からともなく現れた数人のナイツが大通りを埋め尽くす群衆の群れを体で掻き分け、後ろからやって来る人物の為に道を切り拓く。

 その人物はやや色白な肌が目立つ、金髪碧眼の壮年男性だった。服装を始めとする高貴な身形からして貴族の出身なのだろうが、キャロラインのように権力を笠に着て威張り散らすタイプではなく、権力の重さと責務を自覚している名君と呼ぶに相応しい貫録と威厳を備えている。

 存在感溢れる男性の登場と共に大通りの騒めきは急激にピークへと達し、ある種の興奮と熱気が沸き起こるが、空気の変化を察しながらも状況を呑み込め切れなかった私達は一時的にその場の雰囲気から取り残されたかのような疎外感を味わう羽目になった。


「あ、あの人は……!!」

「む? どうしたのだ、エマよ。あの男を知っているのか?」


 幸いにも傍に居たエマも群衆同様に男性の正体を知っているらしく、メガネの奥底にある瞳を大きく見開いた。クロニカルドがエマに耳打ちするように尋ねると、彼女は目前の男性に視線を固定したまま応えた。


「知っているも何も……! あの方はヴァークナー家の前当主、シュトライド・ヴァークナー様ですよ!!」

「な、何やって!? 前の当主は病床に臥せってたんやないのか!?」


 そう言ってヤクトは不躾と分かっていながらも、シュトライドの全身を遠目からまじまじと眺めずにいられなかった。どう見ても相手は健康体そのもので、噂で耳にした病魔に蝕まれた面影は何処にも見当たらない。寧ろ今にも走って踊って……は流石に言い過ぎかもしれないが、精力的に動けるだけの活力に満たされている。

 信じられないと思っていたのは私達だけではなく、先程までヒステリックを爆発させていたキャロラインも同様だ。とは言え、彼女の場合はシュトライドに向ける眼差しに恐怖も混じっている。それも死人か幽霊を目の当たりにしたかのような、理解不能に近い恐怖だ。


「そ、そんな……! どうしてアナタが!?」

「驚いたか? 当然だな、貴様に盛られ続けた毒のせいで動くことはおろか起きる事も出来なかったのだからな」


 毒という不穏な単語が飛び出した途端、群衆から驚愕の悲鳴が噴出し、次いで憤怒が着色された。

 無理もない、群衆に愛されていた名君がキャロラインの策略によって領主の座を追われ、その後釜に彼女――表向きは夫だが、実際の権限はキャロラインが掌握していたも同然――が収まったのを機に独裁が始まったのだから。

 蓄積された民衆の怒りが自分に向けらえるのを肌身で感じ取ったキャロラインは、すぐさま「濡れ衣だ!!」と薄い銅を切り裂くような金切り声を上げて身の潔白を訴えようとした。

 だが、シュトライドに同行していたナイツ達が次々と証拠を書き記した書類を提示すれば、キャロラインの訴える潔白は忽ちに汚れ、ドス黒いクロとなるのに然程時間は掛からなかった。それに比例して興奮して真っ赤にしていた顔は、みるみると死人のように蒼褪めていく。

 そして年貢の納め時だと言わんばかりに数名のナイツがキャロラインへと歩み寄り、内二名がキャロラインを挟むように立ち並び、彼女の脇に腕を組ませて自由を奪った。あとシュターゼンもキャロライン同様に二人のナイツに捕まった。


「キャロライン・ヴァークナー、貴女を殺人未遂及び違法な統治行為を行った罪、そして賄賂罪と横領罪で逮捕します。シュターゼン・ヴァークナー、貴方は違法に魔獣を使役した従魔法違反と数々の迷惑行為によって逮捕します」


 ナイツが親子の逮捕を宣言した瞬間、ワッと大通りは歓声に溢れた。まるで暗黒の時代が崩壊し、希望の時代が到来したかのようだ。

 人々が歓喜で盛り上がる中、ナイツの手によって連れて行かれる妻子をブダッシュは何とも言えない複雑な面持ちで見送っていた。何か言いたげに唇を開閉させるが結局掛ける言葉は出て来ず、諦念とも無念とも取れる嘆息が零れるだけであった。

 やがてナイツに連れられたまま二人の姿が群衆の波に呑まれて見えなくなると、ブダッシュの下にシュトライドがしっかりとした足取りで歩み寄って来た。


「ブダッシュ、久しいな。最後に出会った時よりも老けて見えるが、大丈夫か?」

「シュトライド……。その……本当にすまない……!」


 シュトライドは自分を殺そうとした女性の夫に対し、怒りをぶつけるどころか久し振りの再会を懐かしむように親し気な笑みを綻ばせた。

 そんな相手の優しさに居た堪れなくなったブダッシュは、本来の年齢――四十代前半――よりも遥かに老け込んだ表情に流れる冷や汗をハンカチで拭い取りながら頭を深々と下げた。


「今回の一件は完全に私の落ち度だ! 家族の暴走を止める事が出来なかった……!」

「仕方あるまい、キミはキャロラインに利用されていた。そしてキミの知らない所で彼女は色々と手を回し、手に入れた権力を活用して私腹を肥やしていた。身内がした事は確かだが、そこにキミの責任は何処にも無い」


 家族間の軋轢に苛まれていたであろうブダッシュの幸薄な表情が悲痛に歪み、遂に彼はその場にガクリと膝を付いて項垂れた。


「いいや、私の責任だ。何故私みたいな取り柄の無い男と結婚したのか、何故キミが急に病魔に倒れた後に私がすんなり後釜に座れたのか。その全ては一つの答えに繋がっていたのは明白だったのに、私には追究する勇気が無かった。その結果、妻の悪事に歯止めを掛けられなかった。全ては私の不徳の致すところだ……!」


 後悔の念を曝け出すとブダッシュは目元に込み上がった熱いモノを袖口で乱暴に拭い取り、徐に立ち上がった。


「だが、これで漸く私は妻子から解放される。今更になってこんな事を言うのはどうかと思うが、アレとの暮らしは苦痛以外の何物でもなかった。夫の威厳なんて存在せず、何をするにしてもキャロラインの掌の上。まるで監獄で暮らしているような日々だったよ」

「ならば……」

「ああ、キミにヴァークナー家の領主の座をお返しするよ。いや、元々アレは借り物だったな。ならば、元の持ち主に戻るべくして戻った……と言うべきかな」


 長年に渡って蓄積された心労はそう簡単に拭い切れないが、それでも憑き物が落ちたかの如く何処かスッキリとした爽やかな表情がそこにはあった。領主としての贅沢な暮らしよりも、それから解放された自由の身を喜んでいるのは一目瞭然だ。


「これからどうするのだ?」

「キャロラインを失った今、私の才で事業を永続させるのは無理だ。これを機に事業を畳み、人気のない田舎へ引っ込む事にするよ。もう貴族として暮らす事にも、嫌気が指してしまったからね……」

「……そうか」


 疲弊の色彩を漂わせながらも思い残す事は無いと断言するブダッシュを見て、シュトライドは一種の安堵を覚えたかのような微笑を携えて軽く頷いた。

 そしてブダッシュと他愛のない会話を一つ二つ交わし、別れの挨拶を済ませた所でシュトライドは私達の方へと振り返った。まさかと思っていたら、案の定、彼は大股で此方に近付いてきた。

 一領主が私達に何の用かと見えない緊張の糸が私達の間を網のように張り巡らされたが、私達の前に躍り出たキューラが彼と親し気に握手を交わした時点で自分達が蚊帳の外だと気付き、緊張の糸はブツリと音を立てて解け落ちた。


「キューラ女史、キャロラインの足止めをしてくれて感謝する。そして嫌な役目を押し付けてしまった事を謝罪したい」

「いえいえ、寧ろ私は感謝したいぐらいですよ。貴方の活躍のおかげもあって、災厄同然であった二人を牢屋にブチ込める証拠が手に入ったのですから。あのままキャロラインの言う様に、証拠不十分で逃げられる恐れもあった訳ですし」

「そう言って頂けると私も救われた気がするよ。だが、何よりも――」シュトライドの優しい眼差しが私達の方へ移る。「私がこうやって復活したのも、全ては彼等のおかげだ」


 え? 私達? 唐突に話題を振り向けられたものだから、殆どの人がキョトンと目を丸くしている。まぁ、アクリルの場合は空気を読み切れていないだけなのだが。

 そしてシュトライドは私達の方へと歩み寄り、握手を求めれて手を差し出す。ヤクトもソレに応じて恐々と手を伸ばすが、身分の違いや初対面という事もあって躊躇いを捨て切れないのか、ぎこちない固さが腕の伸びに現れていた。

 しかし、シュトライドはソレに気を咎めるどころか自分の方から一歩踏み出し、ヤクトの手を一層大きな手で覆い隠すように握り締めた。


「キミ達の活躍が無ければ、今頃私はベッドの中で息絶えていたかもしれない。そしてキャロラインの悪行も未だに蔓延っていたかもしれない。本当に有難う」

「あ、え、えっと……どういたしまして?」

「ははは、そう緊張しなくても良いですよ。私はそこらに居る壮年の男性と何ら変わりありません。気楽に肩の力を抜いて下さいな」

「は、はぁ……」


 キャロラインと向き合っていた時、シュトライドの周囲は君主の覇気で満たされおり、それ故に気高い印象が脳に焼き付いていた。だが、ヤクトと会話すると気さくで物腰柔らかな言葉が織り成され、近寄り難いと思われていた空気はあっという間に四散してしまう。

 そのギャップに言葉を交わしたヤクトだけでなく、数歩下がった場所から見守っていたクロニカルドは毒気を抜かれたかのようにポカンと呆けてしまう。しかし、暫くすると気を取り直したかのようにヤクトは咳払いを一つし、改めて自分達との関係を問い質した。


「あのぉ、そんな感謝されるような働きをした覚えあらへんのですけど……一体どういう事ですか?」

「ん? ああ、そういえば詳しく話していなかったね。私が毒に苦しめられていたのは知っているかい?」

「ええ、まぁ……先程の話は聞いていましたので」

「実はキャロラインが私に盛っていた毒は厄介な部類に入る猛毒でね。一度摂取すると体内に留まり続け、人間の免疫機能を少しずつ破壊し、最終的には機能不全に陥って死に至るというモノだったのだ。しかも、単純な解毒薬では効き目が無いという劇薬でもある」


 何それ怖い、ガチで暗殺を狙った猛毒じゃないですかヤダー。ですが、それと私達とどう関係があるんですかね?


「本来ならば私は成す術もなく毒に蝕まれる筈だった。しかし、ある時幸運にも聖水が手に入ったのだ。入手した人物に話を聞けば、聖鉄に覆われた貝の魔獣が齎してくれた物だとか」


 ………んん? 何か物凄く聞き覚えがありますね。というか、その説明を聞いた途端に全員の視線が私に刺さっているのですが。まぁ、聖鉄で覆われた貝の魔獣なんて私以外に居ませんもんね。うん、つまりはそういう事ですね。


「貝の魔獣って、まるでガーシェルちゃんみたいだね~」

『アクリルさん、“”ではなく十中八九私を指しているのだと思いますが……』


 そんなアクリルの可愛いボケはさて置き、一体誰が私の作った聖水を渡したのだろうか? これを渡したのは貧困通りに住む一部の人々だけだが、彼等と領主とが直接繋がっているとは考え難い。

 私以外にもヤクトやエマも顰め面を浮かべて同様の事を考えていたら、シュトライドはニコニコと楽し気に笑いながら答えを明かしてくれた。


「誰が私に渡したのか気になるようだね? では、その人物を紹介しよう」


 シュトライドが肩越しに「爺や、来てくれ」と呼び掛ければ、軽く猫背になった老人が主人の下へとやって来た。糊の利いた白のワイシャツに紺色の燕尾服という組み合わせからして執事を生業としている人物らしいが、そんな人間とこれまでに出会った記憶は一切無い。


「ええっと……どちら様で――」

「あっ!」


 記憶の棚を引っ繰り返しても思い出せなかったヤクトはギブアップも兼ねて老人に名前を尋ねようとしたが、その寸前で驚きに満ちた一言が彼の質問を遮った。

 ヤクトの言葉を不意に遮ったのはエマだった。ヤクトやクロニカルドを始めとする周囲の視線が彼女に注がれるが、エマは自分に向けられる奇異の視線も無視して目前の老人に円らな目を釘付けている。


「おじいさん!」

「おじいさん? ってか、エマさんの知り合いかいな?」


 ヤクトが尋ねると、そこで漸くエマは老人から視線を外してヤクトに目線を配った。


「こちらの方は両親を亡くした私を色々と援助して下さった恩人です! でも、おじいさんは病気で入院してたんじゃ……」

「エマちゃん……いや、エマさん。今まで黙っていて申し訳ない。実はワシが病気で倒れたというのは嘘じゃ。本当はシュトライド様の看病や世話を始めとする業務に専念しなくてはならず、エマさんに会う時間が無くなってしまったからなんじゃ。騙すつもりは毛頭なかったのだが、この一件に関しては他言無用故に事実を告げれなんだ。本当にすまない」


 そう言って老人が心底申し訳なさそうに頭を下げて謝罪すると、エマは慌てて「頭を上げてください!」と若干狼狽えながらも謝罪する必要はないと訴えた。

 エマの要請を受けて老人は寂しげな頭部をゆっくりと持ち上げたが、無数の皺が刻まれた老齢の顔には依然として彼女を騙し続けた事への後ろめたさが暗い影となって居座っていた。


「実は、エマさんに黙っていたのはコレだけじゃないんじゃよ」

「え?」


 老人が隣に立っている主人ことシュトライドへ意味深な目線を配らせると、彼は許可を下すように重々しく頷いた。それを見計らい爺やは静かに口を開いた。


「今までワシがエマさんを援助していたのは、御両親に恩義があるからと言っていたが……それも嘘なのだ。ワシと両親との間に関係は一切無い。」

「え!? そ、それじゃ……どうして今まで!?」

「ある人に頼まれたのだ。“表立って動けない自分の代わりにエマを助けて欲しい。彼女は大切な人だから……”と」

「……その人は誰なんですか?」


 エマは動揺を押し隠すように胸の前で作った握り拳を自身に押し付け、慎重を塗り重ねたような声色で尋ねた。その問い掛けに対し老人は一言も喋らなかったが、分厚い眉の下に隠された老いた眼差しは隣に立つシュトライドを捉えていた。

 それが彼女の求める答えであるのは一目瞭然だが、質問を投げ掛けた当事者は「信じられない」という本音を表情に刻んだまま領主を凝視してしまう。


「どうして……シュトライド様が?」


 水分の欠いたかのような罅割れた声で問い掛ければ、シュトライドは冗談や嘘の類が入る余地もない真剣な眼差しでエマを直視した。


「エマ、これから言う事はキミにとって信じられないかもしれない。しかし、これは嘘や偽りではないと信じて欲しい。それだけは理解して欲しい」

「は、はい」


 シュトライドの真摯な物言いに、思わずエマは釣られるように返事をした。そして数度の呼吸を経て、緊張した面持ちで彼は告げた。


「キミの名前はエマ・ヴァークナー。私の父から見れば孫娘にあたり、私から見れば姪にあたるんだ。キミもヴァークナー家の血を受け継ぐ一人なんだ」


 その瞬間、エマを始めとする私達を取り巻く空気が大通りを埋め尽くす喧騒をシャットダウンし、耳が痛くなる程の静寂にも似た錯覚を齎した。一方で周囲の人々は未だキャロラインとシュターゼンの逮捕に浮かれて燥いでおり、二人の遣り取りに気付かぬまま御祭り騒ぎは夜遅くまで続くのであった。

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