第68話 ダンジョン? 別荘? いや、半ダンジョンだ

「何や互いの認識にズレが生じとる気がするさかい、ここはいっぺん此処に関する認識や情報を交換し合わへんか?」

「う、うむ。そうだな、その方が良いな」


 完璧と信じ切っていた魔獣除けの結界魔法が発動していないという衝撃の事実を知り、一時は取り乱したクロニカルドだったが、どうにかヤクトの言葉に従うだけの冷静さを取り戻した。

 とは言え、先程までの自信と傲慢に満ち溢れていた己の姿が記憶に焼き付いているせいか、トーンが抑えられた単語の隙間には気まずさと羞恥心の糊が付着していた。


「では、先ずは己から説明しよう。先程も言ったように此処は己の別荘みたいなものだ。己が軍を引退した暁に、ヨハルド大帝から今までの軍功を評してバートン山岳を頂戴したのだ。そして山の一座を魔法で刳り貫き、そこに己の研究所と個人的な私財を持ち込み別荘を作り上げたのだ」

「それは何時頃の話なんや?」

「真暦973年の温暖期の事だ。その後は個人的な研究に没頭し、この体になって眠りに付いたのは新暦998年の事だ。それから今日まで、一度も目覚めなかった」


 そこでクロニカルドが言葉を切ると、ヤクトは「ふぅむ」と呟いて腕を組んだ。


「もう一つ質問、そん時は普通の山やったん?」

「ああ、その通りだ。周りには鋭い剣のような山脈が連なっていたが、己が住んでいた山も負けず劣らず立派な山であったぞ」

「成程なぁ」胸元で組んだ腕を解き、胡坐を掻いた両膝の上にポンと手を置いた。「多分やけど……どうして俺っちとアンタの話に齟齬が生まれたのか、段々分かって来たわ」

「本当か! して、何故なのだ!?」


 クロニカルドが興奮気味に前へ飛び出し、ヤクトの鼻先にまで髑髏の顔を近付ける。その近さに慣れていないヤクトは自分と相手の間に手を滑り込ませ、ゆっくりと腕一本分の距離を作って引き離した。


「ち、近いわ!! もうちっと離れへんか!」

「あ、ああ。すまない」申し訳なさそうに眉を下げて反省を示すクロニカルド。「で、その原因とは何なのだ?」

「実は今から百年程前の事なんやけど……」


 そう切り出してヤクトが語ったのは、今から百年前にバートン山岳を襲った大地震の話だ。地滑りや地盤沈下によって山岳そのものの地形が大きく変化したこと、そして丸々一つの山が谷底へ沈んで姿を消したという与太話もだ。

 だが、この与太話が事実であり、そして沈んだ山というのが私達が今居るダンジョン……もといクロニカルドの別荘だとしたら、色々と辻褄が合う。

 やがてヤクトが語り終えると、クロニカルドは眼を極限まで見開き、眼孔に宿った灯火をわなわなと震わせた。


「そ、そんな……馬鹿な! 偉大なる大帝より頂いた山が地震で谷底に沈み、最早見る影もないだと!?」

「そんでもって、大規模な地盤変化や地滑りが起こったせいで地脈が崩れ、そこから溢れ出した魔力が結界魔法に穴を開けたんやろうな。そこへ魔獣達が雪崩れ込み、ここはダンジョンと化したという訳や」

「な、何という事だ……!」


 自分の別荘がダンジョンと化した真実もショックだが、それ以上に大帝より頂いた山そのものが人々の間では存在しない事になっているという事実に悲痛にも似た衝撃を覚えたらしく、クロニカルドは無念を刻み込んだ表情を軽く俯かせた。


「己が眠ってから600年近く、目覚めたら何もかもが過去に置き去りにされていただけではなく、己が仕えていた帝国や、己が存在した証すら忘却の彼方へと追い遣られるとは……嘆かわしい事よ」


 遥か遠い過去の出来事を思い出しているのか、ふるふると頭を振りながら物悲しい溜息を吐き出すクロニカルドの周りには哀愁だけでなく荒寥とした雰囲気が漂っていた。

 目覚めたら長い月日が経過し、しかも自分が生まれ育った国家も居なければ知り合いも居ない……私だったらきっと寂しさの余り泣いているね。でも、転生はノーカンですよ。ブラック企業から逃れられたしアクリルとも出会えたのだから、寧ろグッジョブです。

 過去の膨大な思い出に意識を奪われていたクロニカルドだったが、少々複雑な表情を浮かべていたヤクトが大きめの咳払いをし、彼の意識を現実へと引き戻した。


「あー、クロニカルドはん。悲嘆に暮れているところ申し訳ないんやけど、此方も時間が惜しいんや。悪いんやけど、出口を探すのに協力してくれへんか?」

「出口だと?」

「せや、俺っち達も今すぐに此処から脱出して地上に戻りたいんやけど……出口が何処にあるのか分からへんのや。普通、ダンジョンやったらラスボスを倒せば出てくる筈なんやけど、何故かそれが現れへんねん」

「ダンジョンなのに出口が現れないと? ラスボスは倒したのか?」

「一応、此処に来る前に馬鹿デカい亀は倒したで。強さからして、恐らく奴がラスボスの筈や」

「ふむ、だとしたら奇妙だな……いや、待てよ」

「何か心当たりでもあるんか?」


 銀色に輝く髑髏の眉間に皺が寄り、何かを考えるかのように視線を私達から背ける。その反応に私達も期待の眼差しを寄せるが、彼はそれ以上を語らずフヨフヨと浮遊しながら右手にある研究台の方へ漂っていく。

 そして分厚い本の側面から腕の形に切り取ったような影を伸ばし、台の上に置かれてあった薄桃色の液体が入った試験官の一本を引っ掴むと私達の方へと戻って来た。


「これを見ろ」


 そう言ってクロニカルドはコルクの蓋を抜き取り、中に入っていた液体を床に向けて垂れ流した。液体は赤レンガの上に零れ、そのまま吸収されて濡れた滲みを作るかに思われた。

 ところがレンガの上に落ちた液体は吸収されず、水銀のように滴状に弾かれ表面を滑っていく。更に逆再生を目の当たりにしているかのように滴が一ヵ所に集まると、重力の法則を無視して独りでに試験官の中へと戻っていく。

 これには私は勿論、ヤクトですら驚きの余り目を見開かせた。アクリルも目を見開いているが、こちらは驚き以上に感激の念が強いが。


「わー! すごーい! お水が勝手にもどっちゃったー!」

「こら驚いた……! これも魔法かいな?」

「左様、魔法研究などで用いられる再生魔法の一つだ。これを張っておけば万が一に物を落としたり、壊しても瞬く間に元に戻るという特殊魔法だ。だが、これが使用出来るという事は、此処は純粋なダンジョンではないという証だ」

「純粋なダンジョンではない? どういう事や?」

「分かり易く言うならば……半ダンジョンと言った所か」

『「「半ダンジョン?」」』


 一つに纏まった私達の疑問の声に対し、クロニカルドは先程の研究台から試験官と一緒に引っ手繰ったチョークを取り出し、地面に簡潔な図――ダンジョンを意味する三角形と、それを支える二本の柱――を描きながら説明し始めた。


「本来ダンジョンとは、濃密な魔力の溜まり場から形成される場合が多い。謂わば、自然が生み出す脅威の一環なのだが……このダンジョンの場合に言及すると、誕生の経緯が異なるのだ」

「と、言うと?」

「まず此処には魔力が循環しているが、ソレは最初から存在したものではない。半分は己の魔力によるものだ。先程の魔力封印や再生魔法を難無く使えたのが何よりの証拠だ」


 そう断言しながら地面に描いた片方の柱をチョークの先でコツコツと叩く。


「そして――」と言いつつ、もう片方の柱へチョークを持って行く。「もう一つは大地震の影響で地脈から噴出した魔力だ。此方の影響を諸に受けたせいでダンジョン化が急激に進んだが、幸か不幸か私の魔力と融合しなかった。その結果、人間の魔力と天然の魔力で成り立つ稀有な半ダンジョンが完成した……という訳だ」


 成程、この世に存在するダンジョンは天然物だけど、此処の場合は元々クロニカルドが製作した人工ダンジョンみたいなも。その二つが偶然合体して、半ダンジョンと化した訳か。


「で、純粋なダンジョンやあらへん理由と出口が出現しない理由、これがどう繋がるねん?」

「……貴様は考えた事ないか。何故、ラスボスを倒したら自然と出口が現れるのかを?」

「はぁ? 何を急に言い出すねん?」

「ダンジョンとは単に魔力が生み出した建造物ではない。供給される魔力の大きさに伴って内部構造を独自に変え、内部に住まわせる魔獣を成長させる糧となり、そして人間の手では作れぬ様々な宝物を造作もなく生み出す。まるで魔力で生きる空間だ。そうは思わんか?」

「まぁ……確かにそうやな……」

「そしてだ。出口が現れるのは、決まってダンジョンに存在するラスボスを倒した直後だ。何故なのか? 己が思うに、ラスボスを撃破せしめた勝者をダンジョンが称え、その褒美として出口を用意するからではないだろうか?」

「せやから、ラスボスは倒したっちゅーねん! なのに、出口が現れへん! まだ他に要因があるんか!? まさかラスボスが他にも居るんか!?」


 相手の真意を汲み取れず、遂にヤクトは苛立ちを爆発させてふよふよと浮くクロニカルドに詰め寄る。険悪な雰囲気にアクリルは私の後ろに隠れ、おっかなびっくりに二人の様子を窺う。

 だが、クロニカルドは相変わらず冷静な面持ちを浮かべながら「やれやれ」と言わんばかりに本の肉体を左右に振った。


「この戯けめ。今の己の話を思い返してみろ。このダンジョンは天然の魔力だけでなく、己の魔力でも支えられているのだぞ?」

「……まさか!」


 クロニカルドから出されたヒントで合点を得た途端、皿のように大きく見開かれたヤクトの瞳にクロニカルドの姿が映し出される。鏡のように反映された瞳の中の己を見詰めながら、クロニカルドはコクリと頷いた。


「左様。恐らくダンジョンは己……クロニカルド・フォン・ロイゲンタークをラスボスとして認め―――」

「覚悟ォォォォォォォ!!!!」


 ※只今、ヤクトが乱心しております。暫くお待ちくださいませ。


「ぐはぁ……」

「ええい!! 話の途中で襲い掛かるとは何事だ! 不敬だぞ!!」

「わー、いたそー」

『ですねぇ』


 六法全書並に分厚い本体で頭部を殴打され、白目を剥いたまま力無く横たわるヤクト。そんな彼をクロニカルドは冷めた目で見下ろしながら、憤りを込めて「ふんっ」と鼻息を荒々しく飛ばした。


「早合点するでないわ! まだ話は終わっておらんぞ!」

「ま、まだ何か他に話でもあんのかいな?」


 頭部の痛みを和らげようと、殴られたを摩りながらのっそりと起き上がるヤクト。そんな彼に呆れにも似た溜息を吐き出しながら、クロニカルドは中断させられた説明を再開した。


「良いか? ダンジョンは己をラスボスとして認めたというのはあくまでも仮説だ。だが、可能性としては十分に有り得る。そして半ダンジョンが誕生した後も、ダンジョンに巡らされた己の魔力を自由自在に操る権利は己に有る」


 そこまで言うとヤクトも漸く彼が言わんとしている事を悟ったのか、涙目で痛みを訴えていた頼り無い目元がキリッと引き締まり、真剣な眼差しへと変化する。


「つまり……意図的に魔力を消失させてしまえば、ダンジョンは俺っち達を勝者と認めるっちゅー訳かいな?」

「その通りだ。このダンジョンに循環させた己の魔力さえ抜き取ってしまえば、ダンジョンは地脈からの魔力に満たされるだろう。そして既にラスボスを倒した貴様達を勝者と見做し―――」

「――出口は現れる……と」


 クロニカルドが敢えて切った台詞の先をヤクトが受け継いで口にすると、二人は互いに目線を交差したまま頷き合った。だが、すぐにヤクトは異論を呈するかのように眉を傾げながら呟いた。


「せやけど、魔力を抜くって言うても……そう簡単に出来るもんかいな? それに魔力を抜いた後、再びこのダンジョンに自分の魔力を再注入させるのも大変やろ?」

「貴様、己を誰だと思っている? 偉大なる大魔術師クロニカルド・フォン・ロイゲンタークであるぞ? 600年近くも眠っていたとは言え、貴様のような輩に心配されるほど魔法の腕前は腐っておらぬわ」

「せやったら良いんやけど……」


 クロニカルドの身を案じるような口ぶりだが、本心では彼の持ち出した策に半信半疑な懸念を抱いているのだろう。だが、今は相手の言い分に従う他ないと自分に言い聞かせたのか、少々不満げな面持ちのままヤクトは徐に立ち上がって私達の傍まで後退した。

 それを見届けたクロニカルドは再度確認するように辺りを一頻りに見渡した後、「うむ」と満足を込めて呟いた。


「では、始めるぞ。……魔法陣、解除!」


 クロニカルドが呪文を唱えると、彼の眼から灯火が消えた。程無くして部屋中に刻み込まれてあった魔法陣が真っ白い光に包まれ、細かい粒子状となって光が粉雪のように舞い上がる。それに合わせて魔法陣の文字や紋様も掻き消され、最初から存在しなかったかのように跡形もなく消滅した。

 部屋内の魔法陣が消え去ると、程無くして薄青色の靄を纏ったクロニカルドの魔力が部屋中から沁み出し、幾本かの帯状に連なりながら彼の本体へと吸収されていく。そして最後の帯を吸収すると、クロニカルドの眼孔に再び蒼白い灯火が宿った。


「これでダンジョン内に巡らせていた、己の魔力を全て吸収させた。あとは出口が出てくるのを待つばかりだ」

「へっ、もうしまいかいな?」

「そうだ、御終いだ。……なんだ、その呆けた顔は。己に向けるには不敬だぞ」

「いやぁ、まさかこうも呆気なく終わるとは思っとらんかったし……」


 うん、ヤクトさんの言いたい気持ちは良く分かりますよ。ダンジョン内に循環させた魔法を回収するのだから、もっとこう……壮大な魔法が発動されるかと思うよね。

 でも、実際には地味な上に呆気なく作業は完了してしまった。酷い肩透かしを受けたと言っても過言ではなく、クロニカルドの不興を買うような拍子抜けた顔しちゃうのも無理ない話ですね。

 だけど、これで最大にして唯一の問題は解決した。これであとはクロニカルドの言う通り、出口が現れるのを待つだけ―――の筈だった。


「む?」

「どないしたんや?」

「いや、何か……妙な振動が―――」


 クロニカルドがパラパラと落ちる砂埃に気付いて宙を見上げた瞬間、ズドンッと地中から突き上げられるような激しい地震が襲い掛かった。激しい地震に私は咄嗟にアクリルを触手で抱き締め、ヤクトも強い振動の中で立つ事もままならず私に凭れ掛かって来た。

 また魔力を抜き取ったせいで再生魔法も作動せず、研究台に置かれてあったフラスコやビーカーや試験官が台から転げ落ちて破砕音を奏でながら悲惨な末路を辿っていく。


「が、ガーシェルちゃん! じしんだよ!」

『アクリルさん! 私にしがみ付いてて下さい!』

「な、何や!? 一体何が起こったんや!?」

「これは……まさか!?」


 真っ先に事態を把握したのは、やはりと言うべきかクロニカルドのようだ。私達の耳に彼の叫びが届いた瞬間、三人分の必死なまでの目線が一冊の生きた本に集中する。


「い、一体何が起こったんや! 説明しぃや!!」

「私の魔力が無くなれば、代わりに地脈の魔力が入って支えられるかと思われたが……想像以上に私の魔力が抜けたが穴が大きかったようだ!」 

「要するにどういう事や!?」


 この状況下では己の思考で考える余裕すら失われているのか、それとも単に時間が惜しいのか、ヤクトはクロニカルドに答えを丸投げした。そしてクロニカルドは激しく揺さぶられる室内を見渡し、躊躇うような重々しい口調で答えを告げた。


「このダンジョンが……崩壊し始めている!!」



 地底ダンジョンでアクリル達がクロニカルドから半ダンジョンの説明を受けていた頃、彼女達が地下ダンジョンへと迷い込んだきっかけをつくった黒ローブの一派は、バートン山岳の一帯で張り込みを行っていた。

 10m間隔で一人ずつ谷間を覗き込むように崖の縁に立ち、正面に張った魔法陣を谷底に向けながら左右に振っている。これは人間の放つ魔力をキャッチすると、魔法陣の色が青から赤へと変わる一種の探知魔法だ。それを谷底に向けているのは、此処から落下したアクリル達を探しているからである。

 しかし、探知魔法はあくまでも人の有無を確認するだけの魔法であり、彼等が探し求めている標的を識別するだけの精度は皆無だ。おまけに谷底は昼夜を問わず漆黒の闇に塗り潰されており、どの道谷底を下って直接肉眼で確認しなければならない。

 それでも全員を谷底へ直接向かわせず、無意味にも等しい探索作業に人員を振り分けたのは、不用意に貴重な人員を割くのは成るべく避けたいという彼等の本心が根底にあったからだ。


「谷底へ降りた者からの連絡は?」

「まだございません、イゴール様」


 探知魔法を発動させている黒ローブ達を監督していた男の下に、しわがれた声の老人――イゴールが近付き声を掛ける。それに対し男はイゴールに傅きながら発見出来ていない旨を報告すると、彼は枯れ枝のような指を顎に這わせて考える素振りを作った。


「奴等が落ちて、もうすぐで一週間が経過しようとしておる。生きていれば重畳、死んでいたとしても死体を持ち帰らねば故国に合わす顔が無い」

「目下、全力で探索しております。ですが、この山岳一帯は地脈が乱れているのか、魔力の淀みが尋常ではございません。そのせいで高性能な上位探知魔法は返って使い物にならず、また谷底へ向かった先行部隊との連絡にも支障が出ています。このような状況では、見付け出すのは至難かと―――」

「それぐらいは分かっておる!」


 部下の言い訳にイゴールの苛立ちが遂に爆発し、その火の粉を被った男は慌てて頭を下げて怒りを遣り過ごす。暫くするとイゴールも部下に八つ当たりしても無意味だと悟ったらしく、表に噴出した怒りの一端を引っ込め、元の冷淡な表情を浮かべて谷底へ目を向ける。


「だが、何としてでも見付け出さねば。我々が命を受けてから、既に五年以上もの月日を費やしているのだ。これ以上、時間を長引かせれば故国の……いや、あの御方の怒りを買って処罰される恐れがある。それだけは避けねばならん……!」


 イゴールの表情に畏怖の念が上塗りされた焦りが浮かび上がり、ギリッと忌々しげに歯軋りを立てた。そのような上司の姿を見るのは初めてだったのか、それを偶然目にした部下の胸中で二つの感情が浮かび上がる。驚愕と戦慄――前者はイゴールの始めて見せる表情に対し、後者はイゴールが滅多に抱かぬ感情に対し――だ。

 だが、彼はどちらも言及しなかった。自分達の居る世界では印象や感情を無闇に吐露するのは、時に命取りになると知っているからだ。

 そしてイゴールが谷底から目を離し、依然傅いたままの部下に視線を戻した頃には元の――不毛な荒野を見詰めるような――眼差しに戻っていた。


「もしも一週間経っても部下が戻らなければ、更に増援を出す。今度は数を倍に増やしてだ。それでも発見に至らねば―――む!?」


 イゴールが何かに気付いて口頭の指示を打ち切った直後、激しい地震が山岳一帯に襲い掛かった。彼等の居る山道や岩壁に次々と亀裂が走り、腹の奥底を揺るがす重厚感のある鳴動の大合唱が、山岳に連なる山々を中心に奏でられる。どれもこれもアクリル達を追い詰めた時の地震よりも遥かに大きく、規模も比べ物にならない。


「じ、地震だ!」

「魔法を解除しろ! 緊急事態に備えろ!」

「気を付けろ! 落石だ!」

「た、助け―――!」


 突然の地震は黒ローブ達にも多大な影響と動揺を与えた。予想外の対処に慣れている人間は臨機応変に身を護る術を実践するが、そうでない者は右往左往し、巨大な落石を前に成す術もなく押し潰されるという悲惨な運命を辿った。


「皆の者!! この山岳から脱出するのだ!! 急げ!!」


 地震が治まるのを待ち続けていては、被害は増える一方だ。そう考慮するやイゴールは、即断即決に近い迅速さで山岳からの撤退を決定した。そのイゴールの判断と決断が正しかったと証明されたのは、黒ローブ達が魔法を用いて山岳から撤退した直後の事だ。

 先程までの揺れが幼稚に思えるほどの強力な本震が襲い掛かり、まるで砂上に築かれた楼閣の如く、彼等が居た山と近隣の山脈は地中へ吸い込まれていくのであった。

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