サンドイッチとテディベア

古池ねじ

サンドイッチとテディベア

 テディベアだとは気づかなかったのだ。

 春の海は穏やかで、晴れた空を映して銀紙みたいに光っている。海にくるつもりなどなかったので、いつものファンデーションしか塗っていない。明日は日焼けで鼻の頭が痛くなりそうだ。

 渡されたマットを砂の上に広げると、彼女が拾った石をその隅に置いた。かがむときには、抱っこひもに入ったテディベアを手で軽く押さえている。子供を抱えた母親がするのと同じ仕草だ。

「座りましょう」

 微笑みかけられて、頷いた。マットの上に座る。布越しに砂が動く感触がして、落ち着かない。

 彼女は抱っこひもの留め具を外して、テディベアをおろし、自分の隣に座らせた。抱っこひもを畳むと、籐のバスケットを開ける。しっかりした作りの、高そうなバスケットだ。緑色の壜とカップを取り出して、私にカップを渡してくれた。プラスチックではなく、陶器のカップだ。

「ペリエ飲めますか?」

 ペリエ。耳慣れないけれど、名前ぐらいは知っている。

「炭酸水?」

 彼女は頷く。

「もらうよ」

 味のついていない炭酸水はなんだか酸っぱい気がしてあまり好きではないけれど、飲めないほどではない。彼女は重たそうに壜を扱い、カップにゆっくりと炭酸水を注いでくれた。壜を支える指は薄い色のマニキュアに彩られて、華奢な彼女の手を一層華奢に、おもちゃめいて見せていた。微笑む口元はグロスできらめいて、肩に流れる毛先は綺麗に巻いてある。レースのワンピース。そこから伸びる細くてつるりとした脚。足には手と同じ色のペディキュア。マットの端に置いてある細いヒールのサンダル。何もかもが「女の子」だ。どこに並べても、どこから見てもおかしくない「女の子」。

「乾杯しましょう」

「何に」

「出会いに」

 そんなことを甘やかな声で平然と言う。抗う気にもなれず、うんうんと適当にうなずいた。

「乾杯」

「乾杯」

 保冷剤のせいか、ペリエは程よく冷えていた。ひんやりとした空気がまず肌に触れ、つめたい液体が唇から滑り込んでくる。細かな泡が唇の上ではじけて、酸味に似た風味を一瞬だけ漂わせた。飲み物としてたいして美味しいものとは思わなかったけれど、この風景と陽気にはぴったりに合っていると思った。申し分なくコーディネートされている。

「美味しい」

 彼女がちいさく呟く。そうだね、と賛同すると、嬉しそうににっこりと笑った。カップを置くと、バスケットから何やら色々と取り出している。手伝おうか、と言いかけて、なんだか億劫になってやめた。彼女の隣にちょこん、と腰かけたテディベアを見つめる。毛足の短い、可愛らしいテディベアだ。つぶらな目は落ち着いた色に光り、刺繍の口元は無邪気に微笑んでいる。ぬいぐるみなんて買ったのは中学生が最後で、私にはこの種のものへの知識はまったくないけれど、しっかりとしたつくりの、よいものに見える。ちょうど大きさは、そう、赤ん坊ぐらいだ。横に置いてある外国製の抱っこひもに、違和感なくすっぽりと嵌る大きさ。

 実際、遠目には赤ん坊に見えたのだった。昨晩は隣県の実家で、妹の結婚相手との顔合わせがあった。久しぶりに一晩実家で過ごして寝坊をすると、ドライブがてら少し遠回りをして帰宅するつもりだった。学生の頃はよく通った海沿いの道路の景色を味わっていると、胸元に手足のある赤ん坊ほどの大きさの何かを括り付けた女の子が、細いヒールで、重たそうなバスケットを持って、とぼとぼと歩いているのを見つけた。二日酔いが抜けたはずの頭でも尋常ではないものを感じて、私は車でゆっくりとそのふらふらと不安定な後ろ姿に近づいて、路肩に車を停めるとクラクションを鳴らした。女の子は、ひどく緩慢にこちらを振り向いた。こちらに向いた顔は綺麗に化粧をされていたけれど、額から顎に滴る汗が、ファンデーションを溶かしていた。

「大丈夫ですか?」

 彼女は外国語を聞いたように不審げに首を傾げ、それからゆっくり微笑んだ。どこまでもまともな、パッケージングされたような笑い方で、それがむしろ奇妙に見えた。まともなのは、その笑顔だけだった。胸にいるのが赤ん坊ではなくテディベアであることに、そのときに気づいた。

「大丈夫じゃないんです」

 彼女は微笑んだままそう言った。声をかけた手前突き放すことも出来ず、私は彼女を車に乗せた。何をしているのか、と思うのだけれど、脳みそでうまくものを考えることができない。心臓ばかりが妙にうるさく動いて、身体の隅々にまで血を送って、いつもと違う行動をとらせていた。

「ピクニックに行くところなんです」

 細く開けた窓から吹きこむ風に混ぜ込むように、彼女は言った。ピクニック。そんな言葉は、久しく関わり合いにならなかった。

「砂浜でピクニックしようと思って」

「一人で?」

 私の質問に驚いたように彼女は長い睫毛を瞬いて、それから小さく微笑んだ。最初に見たようなパッケージングされた笑みとは違う、何かが外側にはみ出してしまった笑い方だった。抱っこひもごとテディベアを、縋るように抱きしめる。なんでテディベアなのだろう。こうやって持ち歩くのが最近の若者のあいだでは流行ってでもいるのだろうか。

「一緒にピクニック、しませんか」

 結局質問には答えではなく、唐突な提案が返ってきた。その提案に頷いてしまった理由は、自分でもよくわからない。よくわからないけれど、こうなっている。可愛らしい格好の女の子と、テディベアと、砂浜でピクニック。場所も、彼女も、彼女の持ち物も全部映画にでもできそうなぐらい完璧に洗練されている。三十すぎで、安物の長袖のTシャツに安物のストレッチジーンズという格好で、半端に伸びた髪を適当にくくった私だけが、貧乏くさい現実からやってきた異物に思える。といって、居心地が悪いわけでもない。なんとなく、私は場違いな場所に無理に侵入したわけではなく、ここに招かれたという気がするのだ。少なくとも、私が唐突な誘いに乗ったとき、彼女は嬉しそうだった。否応なく引き寄せられて、こちらまで嬉しくなってしまうほど。

「嫌いなもの、ありますか?」

「特にないかな」

「よかった」

 尋ねながら、彼女はバスケットから色々なものを出していく。陶器のお皿。ナイフとフォーク。色鮮やかなピクルスの壜。バスケットと同じ素材のランチボックス。ピクルスの壜を手に取って開けようとするけれど、硬く閉まっているのか、うまくいかない。細い手首のほうが壊れそうに見える。諦めた彼女はスカート越しに太ももで挟んだ壜に、深刻そのものの、絶望的といっていいような眼差しを向けている。私は手を伸ばした。

「貸して」

 私がいることをそれまで忘れていた様子で、彼女はぱちりと瞬きをして、それから微笑んだ。ちょうちょ結びをするりと解くように、眼差しにあった絶望が解ける。

「硬いですよ」

「私、力持ちなの」

 軽く言い、壜を受け取って、しっかりと蓋を握ってひねる。がっちりとした抵抗の後、すぐに蓋は回った。

「すごい」

 無邪気な賞賛に、ついいい気になる。デートみたいだな、と思い、おかしくなる。初対面のいい年の女と若くて可愛い女の子が、ピクニックデート。ペリエをもう一口飲み、並べられたお皿とカトラリーを見て、気づく。全部二人分だ。

「はい、どうぞ」

 気づいたことを尋ねる前に、彼女がお皿にピクルスとサンドイッチを盛って、差し出して来た。ありがとうと受け取る。食パンではなくなんだかおしゃれなパンにおしゃれな具材を挟んだサンドイッチと、パプリカやトマトがつやつや光るピクルス。お弁当というよりカフェで出てきそうな一皿だ。

「いただきます」

 具が零れ落ちないよう、サンドイッチをそっと持ち上げて齧る。具材は食べてみても、野菜の他はなんなのかわからなかった。

「どうですか?」

「美味しい」

 嘘ではなかったけれど、尋ねられなければ出てこない言葉ではあった。このサンドイッチは美味しかった。でも私には馴染まない美味しさだった。多分ハーブだとかスパイスとかがたくさん入っているのだろう。味が複雑すぎて、堪能する前に戸惑いがやってくる。私はもっと塩とか砂糖とか醤油とか脂とか、そういう単純な味のものが好きだった。

「たくさん食べてくださいね。あとチキンのやつと、海老とアボカドのもありますよ」

「これは何のサンドイッチ?」

「レバーペーストです」

 なるほど。もう一口食べてみる。今度は正体がわかっているので、さっきよりも味がわかりやすかった。言われてみればレバーの味だ。もう二、三回食べれば、素直に美味しく思えるのかもしれない。

「手作り?」

「はい」

「すごいね」

 彼女は作りかけた微笑みの欠片だけを唇の端にひっかけると手を伸ばして、行儀よく座ったテディベアの頭に指先で触れた。

「可愛いね」

 そろそろ説明がほしくなって、水を向けてみると、

「ありがとうございます」

 と返したあと、何かに気づいたように笑うと、テディベアを膝に抱き上げた。

「ごめんなさい。私に言われたのかと思った」

 冗談めかした弁解もなんだか堂に入っていて、この子は自分が可愛いことをちゃんと知っているのだなと思った。膝の上のテディベアの顔は彼女の髪が掛かって、影になっている。小さな薄闇の中で、黒い瞳がつるりと光っている。

「あなたも可愛いけど」

「ありがとうございます。でも、彼のことですよね」

「男の子なの?」

「男の人です」

 会話の流れていく方向が、まったく読めない。次の言葉を見つけられずにいると、彼女はテディベアの耳と耳のあいだに、頬をくっつけた。

「彼、私の恋人なんです」

 私は明らかに、初対面の相手に向けるには不穏当な顔をしたのだと思う。彼女は膝から「彼」を下ろして、横に座らせた。お皿を手に取って、サンドイッチをつまむ。

「食べましょう」

 私は頷いて、ピクルスを口に入れた。ズッキーニだ。酸味が柔らかくて野菜の甘味があって、食べやすく、美味しい。けれど、でもこれも私には関係のない類の美味しさだった。私はピクルスという料理自体が、あまり好きではないのだ。それにしても、こんな食事は久しぶりで、口の中が新しくなるような気がする。当たり前の日用品のような美味しさの料理ではなく、誰かに見せて、楽しませるための料理。

「今日、デートだったの?」

 相手の反応を引き出すためではなく、ただ思いついたことの答え合わせがしたくて尋ねた。小さな歯型のついたサンドイッチから手を離し、口の中のものを咀嚼しながら、彼女は頷いた。

「その……」

 くまと、と前歯の裏までやってきた言葉を飲みこむ。

「彼と」

 彼女はまた頷いた。口の中のものを飲みこみ、軽く口元を紙ナプキンで押さえる。お皿をマットに置くと、スカートのすそを整えて、その上に両手を揃えた。背筋が真っ直ぐで、すうっと伸びた首の上で、可愛らしく飾られた小さな顔が、こちらを向いている。私はサンドイッチのお皿を持ったまま、でも少しだけ背筋を伸ばしてその顔と向き合った。

「聞きますか? この話」

 頷いた。おそらく、私はそのためにここにいるのだと思った。彼女は話を聞いてくれる人間がほしかったのだろう。

 彼女は私のカップにペリエを注いだ。私はそれで唇を湿らせる。彼女はテディベアを膝に乗せて、首を傾げた。自分の語るべき物語を探すように目を伏せて、手だけが動いて「彼」の頭を撫でている。柔らかく短い毛並みが倒れて、彼女の手が通った場所だけ色が暗かった。

「信じてもらえないと思うんですけど」

「うん」

「私、恋人がいたんです。二つ年上で、背が高くて痩せてて、頭がいい人でした」

「眼鏡かけてた?」

 彼女は俯いていた顔をあげてこちらを見ると、思わず、と言ったふうに笑った。

「かけてました。黒縁の」

「なるほど。想像した」

 彼女は微笑んだまま頷いて、続けた。言葉に笑みが乗って、語り初めの硬さが和らいでいる。

「一年と、ええと、七か月、かな、付き合いました。仲は良かった、と思います。少なくとも、私はそう思ってました」

「うん」

 私は可愛らしい彼女の横に、背が高くて痩せて、黒縁の眼鏡をかけた、頭のよさそうで、多分映画や音楽に詳しくて、ちょっとおしゃれだけどおしゃれ過ぎない男の子がいるのを思い浮かべる。たやすいことだった。よく見かける、可愛らしくてお行儀のよくて仲のいいカップル。私は彼らを見かけて、時になんとなく腹立たしくなったり、時に微笑ましくなったりするけれど、彼らは私を見ることも、何かを思うことも、ない。そういうカップルだ。

「同棲はまだしてなかったんですけど、私の部屋の方が彼の職場に近くて、だから週の半分ぐらいはうちに泊まってました。それである日起きたら、」

 彼女はそこで言葉を切り、私の目を真っ直ぐに見つめた。長い睫毛に囲まれた彼女の目は、受ける印象ほど大きくないことに気づいた。よく計算して化粧をしているのだろう。化粧を落とした顔を、想像しようとしたけれど、うまくいかなかった。

「テディベアになってたんです」

 冗談なのかと咄嗟に笑おうとしたけれど、彼女の様子のどこにもそんなゆるみは見当たらず、慌てて出かけた笑いをひっこめる。

「テディベアに」

 それで、繰り返した。彼女は頷き、膝の上の、彼女の「恋人」を私によく見えるように軽く持ち上げた。目鼻の配置が上品で賢そうで上等そうな、でもただのテディベアにしか見えなかった。

「……どうしてそんなことになったの?」

 その質問に、彼女は首を振った。

「わかりません。起きたらベッドにくまがいたんです。最初はプレゼントなのかなって思ったんですけど、でも彼、どこにもいなくて、服とか荷物とかもそのままで、部屋の鍵もちゃんと閉まってて、どこに行ったとも思えなくて、それで」

 僅かに言いよどんだ彼女の言葉を繋ぐ。

「テディベアになったんだ、と」

「はい」

「カフカみたいだね」

「かふか?」

 彼女は知らない土地の名前のように作家の名前を繰り返した。

「昔の作家だよ。「変身」っていう小説を書いた」

「私、本は読まないんです」

「主人公が朝起きたら大きな虫になってたっていう話だよ」

「それ、もとに戻るんですか?」

 思いもかけないところから飛んできたボールを、反射的に打ち返すように首を振った。

「そっかあ」

 その声に含まれた失望を正面から受け止めたくなくて、サンドイッチをもう一口齧る。遠かったはずのレバーペーストの味も、彼女の話に比べればだいぶわかりやすく、親しみが持てた。美味しいな、ともう一口齧る。彼女は片手でテディベアを支え、片手でペリエのカップを唇に当てている。その様子はやっぱり完璧に均整がとれていて、突飛な作り話で初対面の相手の気を引こうとするような不安定さは見当たらないのだった。うっかり彼女の物語を信じたくなるけれど、私の中の硬い部分に、そんな物語は染みこまない。ここはカフカの世界ではないのだ。

「まあ、信じられないですよね」

 諦めをにじませて、彼女は微笑む。信じるよ、とは言えなかった。良心の問題ではなく、見破られるのが明らかだったからだ。

 だから

「でも聞きたい」

 と言った。それは本当のことだったので、躊躇いなく口に出来た。彼女は指先でくまの耳を摘まんだり毛並みを乱したりしていた。手持無沙汰な子供の仕草のようで、見ようによっては、互いの肉体を我がものとしている恋人たちの愛撫のようでも、あった。彼女はカフカの名を知らなくても、その世界の住人なのだろうか。ある朝突然グレゴール・ザムザが毒虫になったことを受け入れた人たちのように、突然恋人がテディベアになることを、受け入れられる世界の人。遠い。鼓膜になじんでほとんど聞き取れなくなっていた波音の上に、彼女の言葉が重なる。

「こうなったのは四か月前なんですけど、どうしたらいいのかわからなくて、人に相談もできないし。彼とは職場も違うから、私と付き合ってることを知ってる友達とかもいなくて、だから誰にも言わずに、一緒に暮らしました。ときどき話しかけたり、音楽を聴いたり、映画を観たりして」

「それ、楽しい?」

 質問してから、不躾に過ぎると言葉を口に戻したくなったけれど、彼女は気にしたふうでもなかった。うーん、と唸り、テディベアの鼻を弄る。

「どうかな。何していいのかわからないから、前に一緒に観た映画とか借りたり、好きだって言ってたバンドの曲とかかけたけど、でも、くまはしゃべってくれないから。可愛いだけで。でも可愛いから、虫よりはいいのかもしれないですけど」

 高校時代に読んだので、「変身」の印象の細部は風化し失われて、毒虫になった男をもつ家族の悲惨さの骨格だけが残っている。テディベアへの変身は、毒虫になるのとはまた違うものを彼女に齎したようだ。

「デートにはよく行くの?」

「ときどき。こうなる前はよく二人でお弁当作って、彼が運転して、海とか公園とかに行ってたから、同じようなことしたら、もしかしたらもとに戻ってくれるかなって思って」

「抱っこひも?」

 彼女は笑って頷いた。

「思ったよりも高かったんですけど、可愛かったし、彼が元に戻ったら、また使えるかもしれないでしょう?」

 彼女が何を言っているのか、飲みこむのに多少の時間が必要だった。冗談ではないようだった。彼女は無邪気で、それにも関わらず、というか、今コミュニケーションが取れない相手との間の子供を想像するその圧倒的な無邪気さ自体が、一種グロテスクなものに感じて、目を逸らした。けれどそれは彼女の問題ではなく、私の問題なのかもしれなかった。誰かと人生を共にすることを、一度も考えたことがない私の。

「このサンドイッチのレバーペースト、彼が好きだったんです。レシピも教えてくれたけど、だいたい彼が作ってくれました。二人でお酒を飲むときとか」

 彼女は食べかけのサンドイッチを一口齧った。私もそうする。このレバーペーストが好きな男の子のことを考える。レバーペーストが好きで、キッチンに立って自分で作るような男の子のことを。私の人生には一度も現れなかった、可愛い女の子の隣にいる男の子のことを。私の肋骨の奥で、普段は忘れているどこかで何かが痛むような気がして、考えるのはすぐにやめた。彼女はお皿をマットに置く。

「ちょっと味が違う気がする。言われた通りに作ってるんですけど。彼が作ったのは、もっと美味しかったな」

「そうなの」

「そんな気がします」

 ねえ、とくまに言い、くまを持ち上げて軽く傾けた。首を傾げた仕草のつもりかもしれない。

「もっと美味しかったんですよ」

「これで十分美味しいよ」

 私の口先だけの慰めに、彼女は微笑みで答えた。

「そうかも」

「うん」

 そうだって、とくまに言い、くまを前に傾けた。頷いた動作のつもりだろう。段々とわかってくる。

「仲いいね」

 彼女はふわりと目元をほころばせると、テディベアを膝に戻した。

「仲良しなんです」

「どこで知り合ったの?」

 そこで、彼女の顔にそれまでとは違う表情が乗った。それはなかなか見慣れないもので、なんだろう、と思ってから、気づいた。はにかみ、だった。砂の混じった風が吹き、彼女の上を雲の陰が滑って行った。遮られていた日差しを浴びて、彼女の髪が、顔が、白く光る。

「パン屋さんです」

 柔らかく輝く唇の間から、砂糖菓子のような、こわれやすいものが声に乗せてそっと私に渡された。私は態度にも表情にも言葉にも、不用意な棘を立てて彼女が渡してくれたものを傷つけないように、意識を鋭くする。

「パン屋さん」

 と言ってもたいしたことが言えるわけでもなく、ただ単語を繰り返した。彼女は頷く。

「クロワッサンが有名なパン屋さん。決まった時間にクロワッサンが焼けるんですけど、それをお店で待ってたときに、声をかけられたんです。そこ、お店で食べられるんですけど、一緒にクロワッサンを食べました。彼はエスプレッソで、私はカフェラテ。クロワッサンが二種類あって、バターが違うんですけど、それを半分ずつわけて食べました。ちぎった時にパンくずがいっぱい落ちて、もったいないって二人で笑いました」

 彼女は自分の唇からつむいだ物語を見定めるように目を細め、小さく首を傾げた。

「なんだか、だめですね。ほんとただそれだけなんですけど、人に話すと全然違うふうに聞こえる」

「本当はどんなふうだったの?」

 彼女は首を傾げたまま眉を寄せた。彼女の中にある何かを、誰かに見せる方法を、多分これまで学んでこなかったのだろう。彼女は若くて美しくて、それだけで一つの輝かしい物語で、言葉を使って説明する必要なんかなかっただろうから。

「私って、こんな感じですけど、声かけられても普段は無視するんですよ。でも、そのときは一緒に食べませんかって言われて、嬉しかったんです。この人と朝ごはんが一緒に食べられたらすっごく楽しいだろうなって。それでカウンターに並んで座って、一緒に食べて、大した話はしなかったんですけど、でもすごく楽しかった」

 テディベアをぎゅっと抱きしめてそう語る彼女は、もどかしそうに首を振る。

「だめですね。やっぱりうまく言えない」

「素敵なことが起こったことは、よくわかったよ」

 彼女はテディベアを抱いたまま頷いた。

「すっごく楽しくて、一緒にいる間、一回も会話に困ったり、嫌な気持ちになることがなくて。男の人と一緒で、そんなの初めてだったから」

 そう、と私は頷いた。私に、そんな出会いはあっただろうか。あったかもしれない。あったかもしれないけれど、出会いの素敵で楽しい予感はいつも、そのあとに起こったことによって、思い出の中でさえ美しくは光らなくなる。いらない思い出ばかりでできた私の心は、思い出さえ輝かせることはできない。

「連絡先交換して、次に会う約束して、ふわふわした気持ちで別れて、一人になって、テレビつけたらワイドショーで、家族のちょっといい話みたいなのやってて、いつもはふーん、って見てるだけなのに、なんだかすごくいい話だなあ、って思って、泣いちゃいました。なんでかわからないけど、自分がいつもと全然違うふうになっちゃって」

 堰き止めていたものが壊れたように、彼女の口から言葉が溢れ出す。話したい気持ちに、話す速さが追い付かず、急かされているような勢いで。

「うん」

「初めて会う人で、全然知らない人だけど、この人と一緒にいられたら毎日どんなに楽しいだろうなって、道歩いたり、仕事してる間もずーっとなんだかふわふわしてて」

 ふふふふ。

 ついに言葉より先に気持ちが転げ出て、彼女は笑い出す。小さな澄んだ咳をして息を整える。ファンデーションを塗っていない耳朶が、薔薇の花弁のように色づいている。首筋の細い毛が、汗を含んだのかくるくると縮んでいる。

「何回も電話しようって思ってもどきどきしすぎて、がっかりさせるのも、がっかりするのも恐くて、結局電話できなくて。約束の前の日に、落ち着かなくてずーっと家の近くふらふら歩いてて、それでケーキ屋さんに行ったんです。そこフィナンシェが美味しいから、クロワッサン好きなら好きなんじゃないかなって思って」

「うん」

 私の相槌に、彼女は頷く。一拍遅れて、クロワッサン好きにフィナンシェ、というのはバターつながりか、と気づいた。若者にしかわからない別の理由があるのかもしれないけど、質問するのはやめておく。おそらく本筋には関係ない。

 ぎゅ、ぎゅ、とテディベアの綿を細い指で押しつぶすように握りながら、続ける。

「フィナンシェと、あと自分用にクッキーも買おうってお店に入ったら、いたんです」

 つるりとした目尻を薔薇色に染めた彼女の吐息も、薔薇色に染まって見えた。

「彼が?」

 頷く。

「彼が。私がドアを開けたときに、お互い同時に気づいて、同時に「あ」って言いました。待ち合わせ場所がそのお店だったみたいに自然に近づいて、二人でケーキを一つずつ買いました。彼がミルフィーユで、私が林檎のタルトだった。彼がお金を払ってくれて、箱を持って、二人で私の部屋に行きました」

 箱を持っていない方の彼の手は、彼女の手と繋がっていたのだろう。何故だか、私ははっきりとそれを思い浮かべることができた。彼女の頬や目尻は薔薇色で、唇からは笑みが溢れていただろう。

「すごいね」

 すごいでしょう、と彼女は少し得意げだった。

「彼もそのケーキ屋さんが好きで、私に何か買っていこうって思ったみたいです。家に帰ったら、ケーキのことは忘れちゃいましたけど」

「ちゃんと食べられた?」

 彼女の口元に、またはにかみが宿る。

「次の日の朝に」

 その言葉の含みを受け止めて、そっか、と私はペリエを一口飲んだ。少し温く、炭酸の刺激も淡くなって、最初の新鮮さはなくとも飲みやすかった。

「こうして話すと、食べ物のことばっかりですね」

「そういえばそうだね」

「別に食べてばっかりってこともなかったんですよ。食べるのは二人とも好きでしたけど、ライブに行ったり映画観に行ったりとか、よくしてたし」

 彼女はテディベアをいじる手を止めて、ねえ? と同意を求めるように話しかけた。体を傾けて頷かせると、その丸い頭を撫でた。

「いろんな話をしてくれたんですよ。映画監督のこととか、音楽の歴史のこととか。そのときは私も面白いなあすごいなあ、って聞いてたんですけど」

 彼女はどこかが痛んだように言葉を切ると、小さな声で付け加えた。

 でも、どんな話だったのか、もううまく思いだせない。

 そして彼女は目を閉じて、テディベアを抱きしめた。砂浜は風の音と波の音、遠くの鳥の声しか聞こえない。彼女はその底の小さな小さな音を探しているようだった。私には聞こえない音。もしかしたら彼女には聞こえるかもしれない音。

 私は音を立てないように静かにサンドイッチを齧った。パンが乾き始めていた。新鮮さを失ったサンドイッチを口に押し込み、指先についたパンくずを舐める。

「あ、これどうぞ」

「ありがとう」

 差し出されたウェットティッシュで手を拭く。

「まだまだあるから、どんどん食べてください」

 頷いて、ランチボックスからもう一切れサンドイッチを取り出した。パンの色がさっきと違う。食べると、海老と緑色のこってりしたペーストが入っていた。アボカドだろう。そんなことを言っていた気がする。最初のサンドイッチよりは素直に美味しいと思えたけれど、それでも私の舌には塩気が少なく品がよすぎる。私のためではないサンドイッチ。でも、食べているのは私だ。

「いっぱい食べてくださいね」

 自分も控え目にサンドイッチを齧り、彼女は言う。テディベアはその隣にちょこんと腰かけている。それだけだ。毒虫のように醜くもないが、動くことも何かを求めることもない。愛らしさの記号があるだけだ。微笑んだような形の口も、茶色い糸の刺繍に過ぎない。

「うん」

「いっぱいあるので」

「重かったでしょう」

 ただでさえ重量のありそうなバスケットに詰めたペリエの壜、食器、カトラリー。どう考えてもヒールを履いて、一人で持ち運ぶような荷物ではない。そのうえテディベアまで連れて。彼女は汚れてもいない口元を拭い、手を膝の上でそろえた。

「完璧にしたくて」

「完璧に」

「完璧なピクニックにしたかったんです。だから、お皿が重いとか、壜が重いとか、全部気にしないようにしました。紙皿じゃいやだし、ペリエも壜がいいから。だって、デートってそういうものでしょう」

「そうかな」

 私にはわからなかった。意味は理解できても、何の実感も伴わない理解だった。彼女を見つけた時、海沿いの道路には誰もいなくて、たった一人で歩く彼女は荷物のせいで重心をうまく取れないのか、不安定に揺れていた。空と海の明るさに目がくらんで見たまぼろしなのかと、思った。

「いっぱい食べてください」

 頷く。彼女が望むなら、そうしてあげたかった。彼女の欠けた部分を、少しでも埋めてあげたいと思った。出会ったばかりの、そのうえどんな関係にもなりようがない相手なのに。これは、一体どういう種類の衝動なのだろう。わからない。わからないまま、サンドイッチを咀嚼する。

 テディベアは彼女の横で、黒い瞳を無機質に光らせている。自分もサンドイッチとピクルスを摘まみながら、合間合間に彼女はテディベアの顔を見て、微笑み、指先で触れる。それは恋人に対する触れ方にも、ぬいぐるみに対する愛撫にも見えた。どちらが正しくて、どちらが間違っているのか、私にはわからない。誰にもわからないだろう。

 話すこともなく、私と彼女は二人でサンドイッチを食べ終えた。カップの底ですっかり炭酸の抜けたペリエを飲み干すと、お腹はいっぱいだった。彼女があまり食べなかったからかもしれない。

「ごちそうさまでした」

「はい」

 満腹のせいで鈍くなった動作で、彼女と片づけをした。ごみをまとめて食器をしまうと、日は赤く色づき始めていた。銀紙のようだった海面も、オレンジにちらちらと光っている。

「綺麗」

 膝と胴でテディベアを挟むように抱きしめて、彼女が呟く。

「綺麗だねえ」

 テディベアはもちろん何も答えない。私は黙って、彼女の横に座って、彼女と彼女の恋人が、夕陽を浴びるのを見ていた。

「本当は」

 ひどく小さな声だったけれど、はっきりと耳に届いた。これは私に向けた言葉だ。

「今日で終わりにするつもりだったんです」

「終わり?」

 鼻先を茶色い毛並みに埋めて頷く。

「これ以上続けるのはつらいから、最後にデートして、もうおしまいにしようと思って」

 風に飛ぶ砂のように、注意しないと吹き散らされてしまうほど小さな小さな声だった。私は彼女の方に首を曲げて、なんとかその声を聞き取ろうとする。この細い糸を誰かが握っていないと、彼女の何かが吹き飛ばされて、きっともう二度と戻らない。

「わたし、あたま、おかしいですよね。わかってるんです」

 彼女は微笑んでいた。顔の表面の筋肉だけでどうにか取り繕った笑みだった。その薄っぺらさの裏で、彼女の本当が震えていた。

「でも、しんじてるんです。本当に、しんじてるんです。じぶんでも、あたま、おかしいってわかってるけど、でも、わたしには、これが、本当なんです」

 声が震えている。彼女のパッケージングされた笑顔の奥で、ずっと震えていたものが、今やっと外に出ようとしている。

「人がテディベアになんかなるわけないって、わかってます。おかしいです。でも、それが本当なんだから、しかたがないじゃないですか。これがほんとうなんだから」

 彼女は口を一度閉ざす。彼女の瞳の上で、小さな海のように水が溢れてオレンジに光る。閉ざした唇が震える。

 だってあの人が、いなくなるほうがずっと、おかしい。

 それは声ではなかったのかもしれない。でも私は確かに彼女の唇の振動が、その言葉を紡いだのがわかった。私が握った細い糸を通してしか伝わらない言葉。

 腕を伸ばし、彼女の背中に手のひらを当てた。彼女の骨組みのちいささが、心臓の確かな鼓動が、手のひらではっきりと把握できた。

「そうだね。そっちのほうが、おかしい」

 私が口にしたその言葉は、百パーセントの真実ではなかったかもしれない。私は彼女とテディベア、あるいは彼女の恋人の物語の、たまたま居合わせた観客に過ぎない。彼女の気持ちは私のものではない。私は彼女よりも幾分長い人生の中で、しかし一度だって彼女みたいに愛し、彼女みたいに信じたことがない。彼女の気持ちなどわからない。でも、本当に、一滴の不純物もなく、彼女にはそう言ってあげたかったのだ。

「あなたのほうが、ずっと正しい」

 微笑もうとしたのか、彼女の綺麗に整えられた睫毛が揺れる。瞳の上のオレンジが膨らみ、零れて、横から見ればまだおさなく丸い頬の上を、やわらかな弧を描いて滑り落ちる。この海のどの一粒よりも、強く強く光り、けれど一瞬で、風に流されていった。

 眩しい。

 目を細める。視界がぼやけて、彼女とテディベアが、オレンジ色のひとかたまりになる。輪郭がゆっくりと明瞭になっても、私の目の奥には、あの小さな、けれども強い強い光の名残が突き刺さっていた。

 彼女は目を閉じ、おさなく丸い頬を、テディベアの丸い頭に押し付けていた。安らいでいるようでもあり、守っているようでもあり、縋っているようでもあり、祈っているようでもあり、疲れ果てているようでも、あった。多分そのすべてが正しくて、そのすべてが間違っていた。ここにあるのは他のどこにもない、彼女の身にしか起こらなかったことだった。

「あのひとのこと、ほんとうに、すきなんです」

 夢の中での呟きが、現実にふわりと浮かび上がったような声だった。私は答えず、ただ彼女の背中に手を当てたままにしていた。太陽が海面に触れ、赤く赤く染め上げる。

 彼女の髪が、肌が、赤く赤く燃える。彼女の腕の中で、テディベアの毛並みは彼女の髪と同じ色に染まり、黒い丸い瞳の中に赤い火が宿る。彼女はテディベアを抱きしめる。堅く堅く、抱きしめる。私はそっと、彼女の背から手を離した。彼女はおそらくそれに気づいてもいなかっただろう。彼女が必要なのは、腕の中のテディベアだけだった。

 安らぐように、守るように、縋るように、祈るように、疲れ果てているかのように、そのどれもであり、そのどれでもないやり方で、彼女はテディベアを抱きしめている。

 どれだけ信じたいと願ったところで、私の目には、その光景は恋人同士とは写らない。彼女の物語は、どんな光を当てたところで、私の真実になりはしない。私は私の世界にしかいられない。それでも。

 テディベアの耳に圧されて、彼女の頬が歪む。それでもここには、彼女の真実がある。誰にも否定できないものが、確かにあるのだ。

 夕陽はぎらぎらと世界を焼く。夜が来る前に全てを燃やし尽くそうとするかのように。私の目のあちこちにも小さな炎がいくつも宿り、ちりちりと頭の中を燃やそうとする。それでも私は目を開いたまま、彼女たちを見つめていた。ここだけにあるものを、ただただ見届けたかった。

 じきに夕陽は水平線に沈み、海は重たく黒い闇になり、私たちは湿った涼しい風に包まれる。欠けた月が、高いところでぽつりと白かった。彼女はまだ、瞼を閉じている。口を開いた。

「帰ろうか」

「はい」

 答えても、その姿勢のまま動きはしない。

「また来ようね」

 そう言うと、彼女はゆっくりと目を開いて、私のほうを見た。月の白く淡い光が、その瞳をとても穏やかにしていた。

「はい」

 ゆっくりと立ち上がる。マットを片付けて、私たちは砂浜を歩く。バスケットは私が持った。食べるものは空にしたのに、それでも随分と重たい。

「好きなサンドイッチの具、教えてください。作ってきます」

「ありがとう」

 彼女は首を振り、抱っこひもに入れたテディベアを撫でた。月の光にふちどられた唇は、これまでとは少し違うやり方で、微笑んでいた。私も微笑む。

「また来ましょうね、三人で」

「うん」

 私たちは砂に足を取られながら、穏やかな夜を歩く。波音も風音も優しい、何もなかったような穏やかな夜。私は手のひらからずり落ちかけているバスケットを持ち直すと、額と頬を払った。砂が日焼けで熱っぽい肌から落ちる感触。

 もしも次があったら、サンドイッチは私が好きなものになっているだろう。レバーペーストは入っていなくて、飲み物もペリエではないかもしれない。彼女の微笑み方も変わり、化粧はもう少し簡単になり、レースのワンピースを着たり、細いヒールの靴を履いてくることもなくなるかもしれない。そしていずれ、彼女はテディベアの物語を手放して、新しい物語を手に入れるのかもしれない。いや、きっとそうなるだろう。簡単に想像できる。

 一歩踏み出すたびに、バスケットの中で陶器が、胃袋の中でサンドイッチが、揺れる。

 瞳をひやしてくれる闇の奥で、ちらちらと輝くものがある。私の目の奥を突き刺した、とても小さな、けれど強い強いオレンジの光。今はまだ鮮やかなこの光も、日常の中で薄れて、やがて消えてしまうだろう。

 ふいに、喉がつまるような感覚に襲われて、私は立ち止まる。

「どうしました?」

 彼女の問いに、なんでもない、と応えて、首を振る。彼女も立ち止まる。私は目を閉じる。遮断された視界の中に、オレンジの光がある。

 私は瞼の上を、手で覆った。深まった闇の中に、とても小さな、けれど強い光がある。いずれ消えてしまう光だ。それでも、今はまだ、ここにある。

 今は、まだここで、光っている。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

サンドイッチとテディベア 古池ねじ @satouneji

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る