魔境◇2


 〇〇〇


「お目覚めですか、魔王様」


 霞みがかった意識にそんな声が降り注いできた。魔王様。なんだか懐かしい音。とうの昔に忘れていた。ああそうか。魔王。魔王様。自分のことか、と納得して目を開ける。


「どうです。魔王でありながら魔人ごときにしてやられるというのは。さぞかし屈辱的でしょう」


 玉座に座らされた状態で腹に深々と一本の剣が突き刺さっている。『本来なら絶対服従』の魔人が魔王に手を上げた。逃亡した反逆の魔王をようやく見つけたわけで、手荒い歓迎は仕方ない。状況を飲み込んで、今一度言われた言葉の意味をなぞった。



(屈辱? 

 確かに自らの意思で魔王となった。たくさんの国を滅ぼし、人を殺めた。魔王という狂気にのまれもした。事実は事実として否定はしない。けれど)


 冷たい目でこちらを見下ろすユーヴィに思わず、思わず失笑。そういうところだよ。何も分かっちゃいない。これまでただの一度も魔王であることを誇りに思ったことはない。ただの一度も魔王である責務を果たそうと思ったことはない。宿命も呪いも知ったことか。


 魔王となって気付いたのは魔王では魔属を倒せないという事実。魔王がいくら魔属を傷付けてもたちどころに強化され修復される事実。魔属にとっては魔王からの祝福になる。


 ミゼラドの戦士として、魔人と戦えない。屈辱的というならばそれは魔王としてではない。


 微かに漏れた笑みが勘に障ったのかユーヴィはさらに数本の剣を突き立て捩じ込んだ。刺され処が悪かったか今度は吐血もした。腹部からも真新しい鮮血が夥しい。しかしそんな怪我は間もなく塞がって完治した。魔王の肉体の再生能力は何度見ても気持ちが悪い。それでも人であった頃のまま痛覚だけある。まるで生殺しだ。串刺しのまま磔になり動けずに、苦痛を繰り返し、徐々に殺がれていく。


「見つからないはずだ。まさかこんなこどもの姿に成り果て、魔王であった頃の面影もない。魔力は枯渇し、ただの貧相な」

「…………ねぇ、」



 ぽつり。血塗れの口からこぼれた。どうして今まで気付かなかったのだろうか。その可能性に。



魔属きみ魔王ぼくを倒したら、次に魔王になるのは誰?」


「前例がないのでわかりません。ですが『魔王』は『悪魔が』『人間に』施した呪いです。──魔属が魔王になれるのであれば、人間などとうに絶滅している」



 ユーヴィはユーヴィで長らく魔王に仕えてきたジレンマもあったのだろう。正に正論だと思えた。魔属が魔王に従うのは自分が魔王になれないからだ。そう。ならば。



勇者クラウ最後の敵きみを倒したら、僕らの完全勝利だ」


「私が勝てば貴方は魔王に逆戻りです。くだらない希望はすべて私が潰します」



 ユーヴィは至近距離まで顔を寄せた。低い声でわざと囁くように。



「希望などなくなれば、貴方も楽になる」


「それはお互い様だよね」



 いつまでも余裕ある態度を崩さない魔王にユーヴィは奥歯を噛み締めた。



「このまま貴方を殺すことも出来る」



 腹部の剣を捻り、新たな傷を広げ、ユーヴィは口角を歪ませた。何と苦し気な笑顔か。悪役になりきれてなどいない。


 痛みを堪えながら自分のほうがよほど悪役のように悠然と嗤う。



「残念。クラウの勝利を見届けられない。でも、それはそれで……僕はかまわないよ」


 魔王だから、そんな簡単には死なないだろうけど。勇者にんげん以外に殺されてどうなるか。いや、多分死ねない。そういうのも呪いの力だ。


「……勇者の骸を見てもまだその減らず口が叩けるか、楽しみにしておきます」



 さっき。魔王城に来る途中。ユーヴィにはみつからないように、こっそりと一つ飴を口に入れた。


 魔王は生きる屍であり、人間ではない。細胞が死滅することも新陳代謝もない。食事も飲み水も必要としない身体で、だが飴を食べた。ティアがくれたものだ。どういう飴かは聞いていた。


 所持していればそれで居場所は掴めるはずだったが、ユーヴィにみつかる前に体内に取り込む方がより安心だ。そして体内に収まればティアに声が届けられるかもしれない。魔王城へは遠い場所から来ることになるから、どれだけ状況が伝えられるかはわからない。


 瀕死の重傷を負っていたワイズを始め、何体もの魔人がユーヴィに喰われたらしい。そうすることで力を手にしたか、何かを吹っ切ったか。魔属でありながら王に手をあげる──ユーヴィの苦悩が伺えた。



 魔属側の事情をどうこう伝えるつもりはないが。



(敵はあと一人だよ。クラウを連れてきて、ティア)



 鈍色の天を仰ぐ。身動きの度に腹部に激痛が走るがそんなこと気にもとめない。虚な眼に月が見えた。



(僕の──



 誕生から今日までの永い記憶の中に。懐かしい光がある。絶望に縁取られた千年魔王の日々の中に。確かな光がある。



(僕の勇者──還っておいで。)



 凍えるような青息。おかしいな、この肉体は遠い昔に人ではなくなったのに。どうして震えているのだろうか。


 残されているのは、記憶、意識、感情。



 孤独も無音も暗闇も恐くはなかったのに。再会を願う気持ちが昂る‐恐怖に似た‐落ちつかなさ。


 本当にこんな場所まで彼は来るのだろうか。


 本当に僕を助けに?


 クラウは来るだろうか。



 期待をしてしまう。彼は創られた勇者像に忠実で、だからきっと来るはずだ、と。真実は『まだ知らない』のに。それでも。




 〇〇〇



 何度も何度も何度も。願い夢見たすべてはしかし叶わない。


 魔属が魔王に服従するのは当たり前のことだが、他の魔王にはなかった彼個人の持つカリスマ性。アレに惹かれてしまった自分がいる。だからこそ認められて魔神になりたかった。



「魔王の寵愛を受けし魔王子、」



 ただの勇者ならば気にも留めなかった。


 勇者など所詮人間だ。


 魔王に堕ちて朽ちる存在だ。



 だが唯一その自我を手放さない千年魔王が現れ、あげく魔人ではなく人間に力を与えてしまったのだ。



(最初から最後まで。『おかしな魔王』に振り回され、何と無様なことか)



 そんなふうに自虐的に思うこともあれば、何が何でも振り向かせたいという気分にもなる。


 そのためには魔王が育てた魔王子を倒し、自分こそが一番であることを示さなくてはならない。



「魔王は魔王らしく、我ら魔属の王であれ」


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