幕間 呪いの王子
深夜。零時を告げる鐘は何度も何度も揺れながら、闇夜に静かなる音を響かせた。揺りかごのように優しく穏やかで、人々の眠りを妨げはしない。しかし石造りの家々の町並みから続く一本道のその先。
やがて、王室医が最初に息をのんだ。産声をあげたのは大きくもなく小さくもない凡そ平均的な体長の赤子。本来ならば「おめでとうございます、元気な王子でございます」とでも言って王妃に抱かせ、すぐさま王に報せるところだった。柔らかな聖布で慎重に拭き浄め、王室医は一度目を伏せた。産まれたばかりの赤子の髪はまだ少ないが、紛れもなく王と同じ濃紺の黒髪。口許はどこか王妃に似て美形だった。見たところ奇形や発育不全などの障害点もない、頼りない力でしっかりと泣いている。無事に元気な赤ん坊が産まれた。
それだけに残酷であるといわざるをえない。
「どうしたのです……さあ、わたしのかわいい我子を、どうかわたしに見せてください」
出産直後の疲労もあって、王妃は弱々しく手を伸ばし微笑む。産声が呼ぶのは自分だと、本能で覚っていた。王室医は無言のまま聖布にくるんだ王子を王妃の胸に差し出した。
「ああ……なんてかわいらしい。この子は王子? それとも姫?」
愛しさで涙ぐむ王妃に、王室医は重い口を開いた。
「おそれながら──【勇者】でございます」
「……え」
王妃の顔からも不意に笑顔が消えた。
「何をいっているの……一体、お前は」
その言葉が一体何を指すものであったか。王妃は一瞬わからなかった。
「勇者? ……勇者だなんて……」
お伽噺のなかに登場する伝説の存在だ。世界を混沌に導く魔王も、それに挑む勇者も、現実のものとは思えない。
「勇者、だなんて……そんな」
泣き続ける我子を今一度見つめる。顔の下の聖布に手をかけ王妃が恐々と覗き込んだ。
「っひ」
首もとから胸にかけ、おぞましい痕が赤々と見えた。王妃の表情が強張り手が震えだす。
産まれたばかりの赤子の肌に痣は珍しくはない。しかしこれをただの自然な痣と云うにはあまりにも無理があった。
おぞましい。【魔王の噛み痕】と形容する他にいいようがない。魔王によって皮膚を噛まれ血を吸われ魂を蝕まれた、【呪いの王子】の伝承が脳裏より呼び覚まされる。王妃がこの国に嫁ぐ前に聞かされたが、どこの国にもひとつやふたつあるただの怪談──作り話だと思って聞き流していた。王妃だけではない。今いる誰もが伝承を軽視していた。
大人と違い赤子は首をさらけ出しはしない。胎児ならなおさら、母体のなかで守られ、身を丸め成長した。まだすわってもない首に負う傷など。
「この傷はお前がつけたのですか!」
こんな生々しい痕を見せつけられ、平常心を保てるものか。青ざめた王妃の瞳に王室医は失意の涙を流した。
「そうであったならどれだけよかったことでしょうな……残念ながら、王子は生まれながらにして前世の傷をお持ちでいらっしゃいます。王にお伝えしてまいります」
泣き続ける我子の声に覆い被さるようにしてついに咽び泣く王妃の声を、背中に聞きながら王室医は扉の向こうへ姿を消した。
国家グラシアにおいて、伝承にある勇者の生まれ変わりは【忌み子】である。平和な現代において、誰もが忘れている遥かな黒歴史を
母となったばかりの王妃には、受け入れがたい現実だった。
***
幾百年という年月。勇者の生まれ変わりは人々が忘れた頃に現れる。
「まさか……このようなことが現実になるなど」
言い淀むグラシア王の目前に一人の男が跪いた。
「ファンドリアの名のもと、我命譲りて王子に
長い
「名は、訊いてよいものか」
「は。我が名はシェアトと申します」
「シェアト。契約に基づき汝に王子を託す」
形式的な挨拶をして、幼き勇者を引き渡す。古来からの取り決めであり、その後勇者がどうなるのかは最早グラシアの関知するところでなし。仮に儀式の生け贄になろうともそれを咎めるすべもなし。大国ファンダリアの同盟下にある一小国家では、契約を破棄する力もない。
シェアトが赤子を連れてグラシア城を去る頃、王妃は狂ったように自室で泣き喚いていた。
「勇者なんて知らない! わたしの子を返して! つれていかないで、お願いだから……」
魔王も勇者も実在しないとされる、そんな時代に。しかし甦る勇者。
「殺さないで……わたしの、大切な赤ちゃんなのに……!」
忌み子はファンダリアの手に渡り、グラシアの歴史から葬り去られる。禍を繰り返さぬように。
「どうしてあの子なの……どうして」
「リッゾ様。どうかお薬でお気をお鎮めください」
***
それから毎年、ファンダリアでは勇者の聖誕祭が開かれる。世間の人々は、現代に甦りし伝説の勇者王子がどこの国の王子であるかすら知らず、どこでどう誰に育てられているかも、あるいは生きているのか、本当に産まれたのかさえ知るよしもない。
「シェアトがいなくなってしまってなんだか淋しいですわ……」
「仕方ありません、姫。いつか勇者様がお生まれになったらシェアトがお迎えにいくと、ずっと決まっていたことです」
「ああ、ほら。まもなくシェアトの代わりに。いらっしゃるんですよ、新しい教育係が。姫様も立派な希望の姫君になりませんと」
「希望の姫君……わたくしが?」
「そうですよ。勇者様がお生まれになったのですから、誰かが希望の姫君になるのです」
「姫ならぴったり、お似合いです」
ファンダリアの城の女こどもだけが語る【希望の姫君】。物語ならば世間一般にも希望の姫君は有名だが、どういう立場の何をする人物かを実際に知るものは少ない。
「平和のために」
「そうですわね。新しい教育係が来ましたら、わたくしもたくさんお勉強をしますわ」
「素敵。それでこそファンダリアの姫だわ」
「ミラのお腹の子が女の子だったら、わたくしがいっぱいいろんなことを教えてあげるのです」
「この子は姫様が大好きみたいですよ。姫様の声が聞こえるとほら」
「お腹のなかで動いているの? わたくしがあなたのおねえさんですわ。早く産まれてきてくださいな」
小さな姫は絵本をとりだし、ミラの大きなお腹に向かって読み聞かせを始めた。
「こうして勇者王子は千年魔王を倒し、希望の姫君を無事にファンダリアへと連れ帰ることができました。勇者王子と希望の姫君は結婚し末永く幸せに暮らしましたとさ」
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