Δ2*Delta deuteros*



 キラキラと太陽が眩しい季節だった。水の王国として知られるファンダリアは長く平和の中にあり、誰しも、この日起こる惨劇など予想していなかった。



「クー王子。ご機嫌いかが?」


 おしゃまな姫君が小さな王子の顔を覗きこんだ。うたた寝していた王子は寝ぼけ眼を擦りながら顔をあげる。



「姫姉様……今日のお勉強はもう終わったのですか」


「終わらないわ。終わらなさすぎよ。逃げてきたのよ、私」



 大げさな身ぶり手振りでうんざり! と表現してみせた姫に、無垢な瞳はぱちくりと瞬く。



「『逃げては駄目ですよ』」



 叱る・責めるというよりは、たしなめる・慰めるようなまるみを帯びた口調。いつも教育係のシェアトたちがいう口真似。二人は声を揃えた。



「『立派なレディになるために』」



 見事にハモると二人はケタケタと笑った。笑い尽くしてあどけない声が問う。



「立派なレディとは何ですか姫姉様」


「ふふ。そうね、ここでは『希望の姫君』とも言うわ。いいえ、希望の姫君のことでしかないわね」



 何故か胸を張り誇らしげにする小さなレディ。レトという名があるがあまり名を呼ばれる機会はない。



「希望の姫君。いつか姫姉様も希望の姫君になるのですか」


「ええそうよ。そしてあなたをずっと支えるの」


「僕も何かお勉強したいです。姫姉様のお役にたちたいです」



 毎日が退屈な王子は大切にされるばかり。自分も何か出来るのではと背伸びをした。



「あらあら。あなたは勇者様の生まれ変わりなのだから、私なんかのためじゃなく、もっと大きなもののためにいつか誰よりも大変な役目を負うのだわ。だから」



 小さなレディはクー王子の小鼻を指先でつついた。



「あなたの過酷な運命に、寄り添えるだけのスペックを。私は持たなくてはならない」


「?


 むつかしいです、姫姉様」



 知らない言葉に首を傾げたクー王子の髪を撫でて、レトは笑った。



「いいのよ。頑張るのよ私たち」





 ファンダリアには3つの季節があり、雨期・潤期・乾期と廻る。


 乾期が訪れるとそれまで海だった場所にも陸が現れ、そうなるとファンダリアはかなり広大な土地となる。



「ねえクー王子。たまにはこっそりお出かけしましょ?」



 城の高い塔から見下ろす景色がどんどん鮮やかに広がっていく様に、この日ついにレトは我慢の限界を迎えたのだ。



「干潟で遊ぶと楽しいのよ」


「何をして遊ぶのですか」



 クー王子の目が輝くのを見てレトもにこにこと笑う。



「いっぱい楽しい遊びおしえてあげる」



 そうして無邪気に連れ出した。こどもの足でもいけるほんの少しの距離。ちょっとした息抜き。出来心。


 だって、勇者が魔王を倒して以来、世界は平和なんだから。魔物たちは息をひそめて、人間のいる場所になんかは現れない。こわいものなんてない。


 遠い昔のおとぎ話。おとながこどもの躾に使うためのこわい作り話。


 おばけと一緒。ほんとは誰も見たことがない。




 夕陽が真っ赤に世界を染めていた。さっきまでキラキラ、太陽が、水と緑と風と、今は赤くて、ガタガタと震えて、青ざめて、背中に庇ったクー王子が熱くて、小さくて、柔らかくて、幼くて、大切で、誰よりも大切で。



「だめ。クー王子だけは、ぜったい」



 気を失いそうになりながら、肌に伝わるクー王子の脈動に踏み留まる。今この子を守れるのは自分。守る? 何から。どうやって? あ、そうだ、魔法。私魔法の勉強をしているじゃない。


 レトは、かつてないほどの速さで思考を廻らせていた。



 虹色。虹色の髪をした不思議な人間がいた。見たこともない不思議な存在。



「お前がその背に庇っているものを寄越せ」



 不思議な存在は人間のように喋った。やっぱり人間なのか。でも普通の人間ではない。



 レトは、精一杯虚勢を張り首を横に振った。



「ぜったい、渡さない」


「それが何者か知っているのか」


「クー王子は、勇者様の生まれ変わりだもの」



 虹色の髪は妖しく揺れた。ゆっくり口角を上げた。ねっとりとした声に聞こえる。



「魔王子、クラウンハイド。魔王の呪いを受けし忌み子」


「ちがうもん!」


「不幸と、禍を呼ぶ災厄」


「ちがうもん!」





「それといるから、お前もここで死ぬハメになるのだ」



 明確に死を提示されレトの足がすくんだ。死ぬ。ここで、今日、死ぬ。殺される。


 なんでもっとちゃんと魔法の勉強をしなかったのかな。そんなことない、いっぱいやった。誰よりがんばった。一番だった。でも足りない。目の前に現れた不思議が恐ろしい。


 死ぬ。死ぬの? 私がまだ弱いから。私がぜんぜん弱いから。



「ごめん……ごめんねクー王子。あなたを守るっていったのに、」


「姫姉様。泣かないで。守らなくていいから。逃げて。生きて」



 背中にくっついて、怯えているのだと思っていたクー王子は意外にも落ち着いた声だった。



「何いってるの。」


「あいつの狙いは僕でしょ。だから姫姉様は逃げて」



 頭がくらくらした。どっちが上で下かわからなくなりそうで、嗚咽をこらえた。



「何、いってるの」



 吐き気が言葉の邪魔をする。



「あなたは勇者様の生まれ変わりなの! あなただけはぜったい守らなきゃいけないの! それが私たちの役目なの! あなたしかいないの!」


「違うよ」



 何も違わないのに。小さなてのひらがレトの袖をひいた。



「姫姉様も姫姉様ひとりだけだよ。皆そうだよ。誰だって死んだらだめだよ。僕だけじゃないよ」


「何いってるのクー王子。私は今まで、何のために」


「僕が死んでも世界は終わらない」



「そんなのいや」


「僕を捨てれば姫姉様は助かるよ」


「そんなのぜったいいや」


「生きてよレト。僕のせいで死んじゃだめ」


「いや」



 泣き崩れた。クー王子を抱きしめて神様にすがった。どうかこの子を助けて。この子だけは救って。すごくいい子なんです。罰は私が受けるから。だからお願い。



「時間切れだ」



 虹色の最後の声はひどく冷たくて。何もできない自分の無力さがどうにもならなくて。神様は結局見ているだけで助けてはくれなくて。


 だから守れやしなかった。誰も。



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