最愛の友(ロナルド・ファーバンク作)

マグナ

本文

 ひ弱そうな、白い服を着た女が、執事の後に続いて、応接間に通じる十二段の階(きざはし)を登り始めた。さらさらと衣擦れの音を立てながら、苔色の絨毯の上を踏み。柄付き眼鏡を取り上げ、帽子掛けのように、気安げに階段の半ば程に据え付けられた大振りな青銅の美神像を眺めた。

「山登りのようじゃありませんこと」年老いたガウチ夫人は閨からその有様を覗き見る。老婦人の聾(つんぼ)振りはロンドン一だろう。何も聞かないのに、何もかも知っていた。アスコットで耳喇叭を失くしたので、午後から部屋の中に閉じ籠っていた。

 今日は老婦人の誕生日で、お茶に呼んだ同窓生たちを待っていた。「ジョージ四世の御世を思い出します」楽しい語らいはこう切り出されるのが多い。「水晶宮が開かれた頃のことも」こう続けるのだった。そして名残惜しげに勿忘草のリボンで飾ったレースキャップを震わせながら、色褪せた眼で遥か彼方に過ぎ去った昔を夢見た。

 ロンドンに残存する生字引の一人で、千八百二十八年に生を受けた事を誇りとしていた。

「ひい、ふう、みい、よう、いつ、むう、止まりました」眼鏡を掛けた老婦人は数え上げた。

 白い服の女は、鏡の前で立ち止まると、帽子を手で押さえた。風の一吹きで、どこかへ飛んでいってしまいそうに思えた。

 誰かが応接間でピアノを弾いている。女は一瞬立ち止まって耳を傾け、次の階段へ足を移した。

「なな!」老婦人は言った。

 女はすっかり苛立って、

「クララよ、ワーグナーを弾くクララ」と独り言ちて、断層を確かめるために、再び立ち止まった。

「最悪」呟いたとき、執事が名前を尋ねた。「クリオの妻です」そういって、応接間へと入った。



「どなたかしら?」老婦人は、読み止しのジェーン・オースティンを置いた。



「お久しぶり、クララ」

「あっ、クリオ夫人じゃない。来てくれたの、とっても嬉しい」クララ・イーストは大振りで元気な娘である。澄んだ灰色の瞳は、クリオ夫人に《二つの水溜り》を思い起こさせた。それ以外は平凡な器官で成り立っていたが。

 クリオ夫人は酷く舌足らずに、

「ウェストミンスターの、ヴィクトリア夫人のところへ連れて行こうと思っているんだけど。お茶に、行くの。夫と私は今夜一緒に食事しないかって言われているんだけど。それから、エンマ・カルヴェのサロメを見に行かないかって。でも夫(ジャック)は嫌がったの。ヴィクトリアが嫌いなんだって。凄く、気鬱にさせるからって」

 クララは答えて、

「ヴィクトリアはとっても退屈ね。ある夜ばったり出会って、お出かけした時に会うのはそれが初めてだったかしら。モスリン製寝間着とか、ドーラ・レイスの園遊会とかのお話をしたわ。それからずっとロンドン大主教にお世辞に言ってばっかりだった」

「ご苦労様。さぁ、いい子だから、帽子を被って出かけましょう。待ちますから」クリオ夫人は波斯の長椅子へと倒れ込んで、シガレットに火を点した。

 答えが返ってきた。

「でも、今日はお出かけできない。お婆ちゃんは耳喇叭忘れちゃって家にいるし、ママはハローゲートに今朝出かけたし、パパはバクストンへ行ってるから。だからあたしがお留守番してれなきゃ。何処にも行けないでしょ? でも、一緒にお婆ちゃんのお茶会に出てもらわないとね」続けて、「お婆ちゃん、きっとあなたのこと気に入ると思うから」

 クリオ夫人は言った。

「結婚式の時、お婆様はお見えになりました。田舎育ちだから、ジャックと夫婦になるまで男の人は知らなかったわ。お金は無くても、静かに北アイルランドの灰色古城で暮らしていたのよ。ジャガイモを食べて、年収入五百でね。でも、不運にもジャックと出会ってしまい、ウェストミンスター寺院で結婚をした、永遠にね」

「去年の事ね、」同情を込めて、クララは呟いた。

 クリオ夫人は顔覆いを外すと、古式仏蘭西鏡の鏡面へ姿を反映させた。

 色褪せた無数の赤毛が、黒帽子の下より、二度と変わらぬ謎を秘めた瞳の耀く、青白い面に沿って流れ落ちた。形の良い唇は微かな音を漏らす――あるいは奇妙な歌声かもしれず。星照る遠く心寂しき里に芽吹いた数輪の花のようなその面は、花盗人に持ち去られ、異郷にて萎れ朽ちたのだった。

クリオ夫人は反映を眺めながら、鋭く笑い声を上げた。

「私、とても変わったと思わない? ね、クララ。気が付かなかった?」

 クララは少し首を傾げて、「そうね、ちょっと変わったかも」

「どこが?」興味津々に尋ねる。

 クララは暫し躊躇い、「ちょっと怖い」長い間の後、「きっとドレスのせいね。だからそういう風に見えるのよ。これでいい(ディレ・ジュ)?」

「うん、そう、きっとその通り」クリオ夫人は笑って……、「元気に見えるって答えられていたら、酷くクララに腹を立てる事になったでしょうから」

「ベルが鳴った!」クララは立ち上がって、窓辺まで足を運んだ。

「誰が来たの?」

「ウォーターポット老主教夫妻、面白い人たち。ドライド嬢とその子息も」

「クララ!」

「でも実の息子じゃない、小さい頃に誰かから引き取ったらしくて。お婆ちゃん、浸礼派の牧師様も呼んでるけど、あんまりお年寄りだから、きっと世界初の浸礼派だったと睨んでるわ。芸術イコール全人生の詩人もお呼ばれしてる。出版社を探しているって」

「御説明を聞いた後だと、ここに居たくなくなって来ますわ」クリオ夫人は立ち上がった。

「行かないで! あたしを置いてくなんて、出来ない、出来ない筈よ」芝居がかった調子でクララは叫んだ。「とても、とっても残酷よ、あたしを置いてくなんて」

「ウォーターポート夫妻がお越しになりました」執事が告げた。

十六歳の少年のような格好をした老人が、顔料を塗りたくり、白粉を振った灰色髪の小振りな老女に続いて応接間に入ってくる。

 クララは大仰に、

「会えて嬉しいわ!」

「こちらこそ、どういたしまして」鳥のような体には似合わない嗄れ声で主教夫人は応じた。

「今日はとても暑いですのう、とても暖かいですのう、嵐が来そうですねのう、まことに」主教は行き成りクリオ夫人に声を掛けた。

 クリオ夫人が造花じみた笑みを浮かべ、クララはお茶会の鐘を鳴らした。

「御婆様は何処においでにならせられます」主教夫人が言った。

 クララは声を震動させて、

「うん、ありがとう、お婆ちゃんはちゃんと居ます。じきにやってきます」

忽ちのうちに、ガウチ夫人はメイドに車椅子を押されて入ってきた。両手にはしっかりと喇叭が握り締められて、膝の上には子猫が座っていた。

「親愛なるマーシャ、今日の良き日が、幾久しく、幾久しく繰り返されますように」主教夫人は新品の喇叭を撫で摩りながら言った。

「今年で七十六です」老婦人は叫ぶ。己の声を上手く聞き取れないものだから、いつも叫ぶのだった。

 クララが言った、

「こちらはクリオ夫人。去年の春に結婚されたんだけど、お婆ちゃん、式に出席してたでしょ?」

「そうね、そうね、藤色の服を着ていきました。聖具室に傘、忘れちゃいましたねえ」老婦人は答えた。

 謎めいた笑みを、クリオ夫人は浮かべた。何も聞いていなかった。灰色の紐を締めた茶会服を纏う体は、秘め事へと思いを馳せていたのである。セシルをあからさまに誘う媚態、数多の方法――ジャックに一杯食わせる方法を……。

 しかしながら、クリオ夫人の物思いも、老婦人の水晶宮開幕の思い出話も、ドライド嬢の到着によって中断させられたのだった。

 のっぽの痩せた女で、剥き出された歯、長い腕を持っていた。体は黒い袖無し外套に覆われて見る事が出来なかった。

まるで道標のような女だ、とクリオ夫人は思った。

「心よりお祝いを申し上げます」喇叭に向かって祝福の言葉を述べた。

 機知に飛んだ調子で老婦人は、

「ジェーン、お会いできて光栄です。息子さんはどちらに?」

「つい先途、メイソンさんの気球付き牧師に任命されたんですよ。二、三日中に地球の反対側まで出発予定ですの」誇らかな答えが返ってきた。

「おめでとう!」クララは優しげに口を挟む。

「メイソンさんは真のキリスト教徒ですよ。この世を探したって、そう居られる方ではないです」続けて、「息子に良い影響を与えてくださると確信しております」

 クララは漠然と、

「あちらに着かれたら、どうなさるって?」

「毎週ちゃんと白黒写真を送ります、と約束してくださいました。道中で細々と宣教活動を行うつもりです、とも」ドライド嬢は答えた。

「テオドラ・レ・ヴァーイン氏がお見えになりました」執事が告げた。

「大詩人!」クレオ夫人に囁くつもりが、叫んでしまった老婦人だった。

 ドン・キホーテを想起させなくもない面構えの、フロックコートを着た、青白い痩せた男が戸口から入ってきた。力無く老婦人のところまでやってきて、愁いを帯びた声で、今日の良き日を祈り、未刊の詩集から一編読み上げた。

 老婦人は喜んで、「傑作です! 傑作です!」と満足を示すために、暫しの間レースキャップを被った頭で頷いていた。

 クララがお茶の準備をし始めた。

 主教夫人は男の様な声で、

「温かいお水お願い」

「お水はちょっと、ちょっとだけでね、ミルクをたくさん、お願いします」ドライド嬢は溜息をついた。

「なんでも結構ですぞ、クララどの。砂糖をお願いたいのですが」詩人が注文した。「子猫のミルクもお願いよ」老婦人は叫んだ。 クリオ夫人と主教夫人は、かつてニースで出会った、戦慄すべき階級の人々について会話した。

「みんな猶太人の男女のようでしたね、結婚して居られる方も数人かおられたようで」応接間用の小声でドライド嬢は話した。

「メイソンさんの気球が戻ってこられたら、ドライドさん、息子さんにはニースのホテルに特等室を取って差し上げないといけませんわね」主教夫人が口を挟む。

「一緒に伝道しようと思っております」ドライド嬢は力強く返した。

「ニースの別荘を知っておりますよ――海に面したね」 

 主教夫人は溜息を吐き、一瞥、夫を睨んだ。

「ブロードステアーズじゃなかったかの、婆さんや」護身のために、主教は呟いた。

 クリオ夫人は立ち上がった。

「そろそろ、お暇させていただきますわ。お会いできて光栄でした。面白い友達とお話できましたもの」手袋の釦を留めた。

「待ち合わせでもおありになるんですか?」老婦人は尋ねた。

「五時にウェストミンスターでヴィクトリアと約束しているんです。あと三十分――急がないと」

「そう、電車をお見逃しになったら御免なさいね」優しく、老婦人は言った。

「お婆ちゃんったら、何も知らないのね」クララは北叟笑んだ。

「駅に着いた後で電話があったら……?」嗄れ声で主教夫人。

「それでは、さよなら」そういってクリオ夫人は、造花めいた笑みを浮かべつつ、ゆっくりと広い応接間から出て行った。

「車まで送るから」クララは後に続いた。 階段に足を掛けた途端、クララが言った。

「そういえば、これは話してなかったわ。まだ重要機密なんだけど……セシルが結婚して欲しいって」

「そう」クリオ夫人は素早く向き直った。「驚きね」暫しの間押し黙り、「そう、クララ。おめでとう。セシルは可愛いし――私たちとワイト島に一緒に行く約束をしていたわね――ほんとに結婚するんだったら、私も嬉しいから」

「ありがと!」クリオ夫人は接吻された。「じゃ、ね(オ・ルヴアール)」そういって車に退去した。

 運転手が行き先を尋ねた。「家へ」クリオ夫人は言った。

 声がしばらく出せなかった。クララを殺してやりたかった。苛立ちの余り、ハンカチを千々に引き裂いた。

「この都会で一番不幸な女」無意識のうちにアメリカの義姉を真似て泣いていた。

 家に辿り着くと、すぐにヴィクトリアへ電報を打った。

「今夜十時近くにお食事に御邪魔します サロメを愉しみましょう クリオ」

そして、独りごちた。

「銀、それと緑色の服を下ろして着ていこう。セシルは無視しよう。クララなんて、ちょっと頭が回るだけの、ろくでもない女なのに」


 客が引けると直ぐに、ガウチ夫人はクララに言った。「あなたの新しい友達ですけど、例の蛇だと思いましたよ」

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