二月の花嫁

天川 涼

二月の花嫁

『ウェディング・ドレスが買えたら結婚しよう』


 それが彼のプロポーズの言葉だった。そして、その約束が果たされる日はもう永遠にない。

 不思議と涙は出なかった。彼の事故を告げる電話の声を聞いた時も、新幹線に飛び乗って故郷の街へ急いでいたときも、彼の家へと続く歩きなれた道を矢印のとおりに辿っている今も、その気配さえ感じてはいなかった。

 ただ漠然としたものだけがあった。信じられないのではなく、心の奥には彼が死んだという事実がきちんとあった。ただ、それは悲しい事なのだという事実についてくるはずの感情が浮かんで来なかった。本当に悲しいときには、それが悲しいことなのかわからず、涙は出ない。それは真実だと思った。

 彼の家に着くと、弔問者に頭を下げている彼の両親の姿が見えた。先に行って手伝っていた私の母も見つけた。

 私達の結婚はすでに互いの両親が知るところだった。父も母も彼のことをとても気に入ってくれて、一人娘の私を安心して任せられると嬉んでいた。

 彼の両親の近くに行って言葉をかけることもできずに、私は少し離れた所で立ち止まっていた。出入りする人達が間を置かずに私の脇を通り抜けて行った。出てくる流れの中に幼なじみの友達がいた。私に気が付いた彼女は涙声で「頑張ろうね」と慰めてくれた後、ハンカチで目頭を押さえながら、そそくさと帰って行った。

 重く動こうとしない足を引きずって、なんとか彼の近くに行った。白木の棺についている小さな窓は開いていて、ガラスの向こうに顔が見えた。とても穏やかな顔だった。『ウェディング・ドレスが買えたら結婚しよう』そう言って耳まで真っ赤にして恥ずかしそうに笑っていた彼の顔があった。一重の小さな目が間違いなく彼本人だった。彼は本当に死んでいた。

 事故の後、彼の顔を見るのは今が初めてだった。

 私が病院に駆け込んだ時、すでに彼は事切れていた。

 玉突き事故に巻き込まれ、衝突した前の車と後ろからの追突車に押しつぶされた。奇跡的に顔にケガはなかったけれど、挟まれた足からの出血がひどかった。輸血は間に合わず、病院に搬送される救急車の中で彼は息を引き取った。出血多量によるショック死だった。

 自分の血を見ただけでクラッときてしまうほど、私は血に弱かった。

 そんな私が取り乱してしまう事を心配した私の両親が、彼に逢う事を許してくれなかった。

 飽きるほど見たはずの顔を私は食い入るように見つめていた。どこにでもいそうで、どこにもいない顔。その目を口を鼻をそして耳の奥に染みこんで響いている少し高めの澄んだ声を心に刻み込んでおきたかった。けれども、思う心とは裏腹に、私のすべてがぼうっとしていた。目の前には見えないぼやけた壁があり、耳には綿が詰められ、肌は薄い膜で覆われている。そんな感じがした。見る、聞く、感じるという事のタイミングがことごとくズレて、私に伝わって来ていた。

 彼の側を離れた私は、そのまま外に出た。線香をあげる気にはなれなかった。出て行くとき、母の引き止める声がしたように思う。

 門の前に対になって置かれた提灯の脇で、私は奥から流れてくる音を聞いていた。

 ふと見上げると、灰色の厚い雲が低く空を支配していた。空がのしかかってくるような気がした。雲と地面との間を満たす空気は濃く、圧縮されていて息がつまりそうだった。

 それなのに、普段は重力で重く感じる体のだるさがなく、ふわふわしている。奇妙な感じだった。


 そのあとは、どこをこうしてどうなったのか、よくわからない。

 気がつくと私は、街の真ん中の交差点の舗道の上で車が起こす凍えた風にさらされていた。ひっきりなしの車の音はうるさかった。

 車が踏みつけてゆくアスファルトの、鈍い鼠色のところどころにチョークの跡が微かに残っている。あの事故で彼のほかにも三人が亡くなっていた。

 隅の沿石のかたわらに白い菊の花がしおれかかって置かれている。彼の好きだったお酒、よく吸っていた煙草も置いてあった。

 私はその場にたたずんでぼんやりとその花を見下ろしていた。白い花にあの日の彼の顔と声が重なった。

『ウェディング・ドレスが買えたら結婚しよう』

 不釣合な高級ホテルのレストランで着慣れないスーツをぎこちなく羽織り、私の顔を見ないように視線をせわしなく動かしながら、つかえつかえ彼は言った。いいおわるとテーブルの下に隠していた白い蘭の花束を、無愛想に私に突きつけた。彼は私が一度だけ口にした理想のプロポーズの場面設定を覚えていたらしくて、後ろには宝石箱をひっくり返したような夜景が煌々と輝いていた。

 そんな彼の心づかいや、初めてくれた花束が嬉しくて、私は突きつけられた蘭の花束を胸に抱きかかえ、無邪気にはしゃいだ声で

『白がいいな、真っ白なドレスがいい』

 と言って、真っ赤になって俯いている彼の顔を下から覗き込み、それからにっこりと笑った。彼は視線を合わせないように反らして、歪んだ笑顔をしていた。

「ウェディング・ドレスが買えたら結婚しよう」

 口の中でそっと呟いてみた。ウェディング・ドレスを買う人が本当にいるのか、私は知らない。でも、彼はそういう人だった。幼くて、涙もろくて、優しかった。私の我儘に、嫌な顔をしても、それでも最後には付き合ってくれた。私の後ろを照れくさく、決まり悪そうにポケットに手を突っ込んで歩いていた。いつも、そうだった。

 はっとなって私は後ろを振り返ってみた。もちろん彼がいるはずはなく、薄暗い、底冷えにふるえる街並みだけがあった。

 私はほとんど義務的に顔を花に戻した。

 わずかに風が出てきた。足の間を凛としたかたまりがすり抜けてゆく。

 首筋をなでる風にセミロングの髪が消え入りそうな弱い音で揺れた。身を切るようなその冷たさに、思わず首を引っ込めたそのとき。目の前をはらり、と何かが浮かぶように通り抜けた。

 思わず、見上げると街灯の硬い光の中にちらちらと舞い散るものがあった。瞳に付いたひとひらを追って行くと、着ていた喪服の袖の上にふわりと乗った。

「………ゆ……き…」

 それは後を追うように次々と舞い降り続け、着ている黒いワンピースさえも、その色に変えてしまいそうだった。

 まとわりつく雪で飾られた服。

 それはまるで――


 「ウェディング・ドレスが買えたら結婚しよう」

 胸の奥から込み上がる熱っぽい衝撃と一緒に彼の声がきこえた。

 必死になって飲みこもうとすればする程、それはより大きく、より強くなって何度も何度も、私の胸を衝いた。

 滲み出す景色を振り切って、私は空を見上げた。

 夜空の星のように散らばった、たくさんの白い粒達が、ゆっくりと音もなく舞い降りている。

 頬に当たる雪の冷たさの間を、暖かいものが伝わってゆくのを感じた。景色が大きく揺れ、喉の奥から声にならない声が漏れ出す……

 雪の降りしきる交差点の隅で、私は目の縁からあふれて、こぼれる涙もそのままに、どこか遠くを見つめていた。降りてくる雪でも、その上の鉛色の雲でも、さらに上の空でもない、もっともっと遠くの何かを。

 ひっそりと立ちつくす私を、雪はどこまでも優しくつつみこんでいた。

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二月の花嫁 天川 涼 @mikoto1907

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