君の瞳に映るもの

水無月くるみ

君の瞳に映るもの

 朝日が眩しい七月の朝、彼女—宇多うたうららは自分の通う高校に向けて歩を進めていた。


 そして丁寧に、礼儀正しく朝の挨拶を交わす。


「原田さん、おはようございます」

「あっ、西谷さん。今日も暑くなりそうですね」

「いつもお世話になってます。帰り道に寄って行きますね、木戸さん」


 一言一言、心を込めて言葉を口にする。


 少し小柄で可愛らしい彼女がそう挨拶する様子は、誰が見ても微笑ましいものだった。


 しかし。微笑ましいはずなのに、その様子を見ている人は皆怪訝な表情を顔に浮かべた。


「いい加減にしろ麗。周りの目線が痛い」

「たっくんどうして?私何かおかしいことしてるかなぁ」


 そう。麗がその疑問を持つのはもっともなことである。ただ彼女は普通に、基本的な朝の挨拶をしているだけだ。それを怪訝な目で見られたり止められたりするのは誠に心外なことである。


 だが「たっくん」は麗の疑問にはっきりと答えた。


「だって、お前は話しかけてるんだぞ」


 その通り。麗は通学路沿いに並ぶ電柱たちに声をかけていたのだ。


 「原田医院」「西谷文房具」「木戸青果店」


 それぞれの名前と住所、電話番号が貼られた電柱。これらに麗は丁寧に腰を折り頭を下げ挨拶をしていたのだ。


 その光景を見れば誰だって、おかしな娘、と見るだろう。通りがかりの人たちの反応は普通と言える。


 しかし。


「電柱?何言ってるのたっくん。みんないつもお世話になってる方々じゃない。それを電柱だなんて。ひどいよ?」


 頬を膨らませて怒った顔を作る麗。


 それを見て彼は、はぁ、と短いため息をつき、諦めた顔をして言った。


「悪かったよ麗。そうだ、あの人たちは俺たちの面倒を見てくれている人たち

だ。電柱だなんて言って悪かった」


 それを聞いて麗は、先ほどの可愛らしい怒った顔は何処へやら、ぱあっと顔を輝かせた。


 表情がよく変わる女学生である。



 宇多麗は「もの」が「人」に見える病気を抱えていた。


 正確に言うと、「もの」を頭の中で擬人化して、さもそこに人がいるかのように見えるらしい。正確な病名は今の所分かっていない。


 一応「幻視」と診断はされているが、麗はピッタリその症状に当てはまらないらしい。


 彼女の事情をよく知っている人なら理解してあげることができるのだが、麗のことを知らない人たちが物に対して話しかける彼女の姿を見ると、気味悪く思うのである。しかしそれは正常な反応と言えるであろう。


 だが麗にとって「もの」は「人」に映っているので、周りの人の反応が逆に理解できなかった。


 というわけで、麗の症状は非常に厄介なのであった。


「お前そんな風に一人一人に挨拶してたら学校遅れちまうぞ」

「大丈夫だよ。もし遅れそうになってもたっくんがおんぶして学校まで走ってくれるから」

「走らねぇよ」

「えー」


 またしても悪戯っぽく頬を膨らませてみせる麗。


 それを見て恥ずかしそうに目をそらす男の子。


「あー、そうやってまた照れる」

「なっ!照れてねぇし!」

「あはは!耳まで真っ赤ー!」

「麗、てめぇ……!!」


 まるで昔からそうしているように。


 どこかそのやりとりには、なぜか切なさが感じられた。


「でも、ありがとうねたっくん」

「はぁ?なんだよ改まって」

「私わかってるよ、自分が他の人となんか違うんだなーって」


 そう言って遠くを見つめる麗。


 彼は小さく息を呑んだ。


「麗、お前……」

「でも!私は全然怖くないよ!だって、たっくんがそばにいてくれるんだもん!今までそうしてきてくれたように、これからも!」

「これからの事は分からんだろうが」

「ううん、そばにいてくれるよたっくんは。だって、たっくんだから」

「なんじゃそりゃ」


 彼は恥ずかしさを隠すように右頬をぽりぽりと掻いた。


 そしてふと足を止めた。


「たっくんどうしたの?」


 何歩か遅れて麗が止まる。


 その後くるりと彼の方へ向き直った。


「麗、お前が周りから何と言われようと、俺はお前の味方だ。お前は、変なんかじゃない。だから、お前はお前らしく生きろ」


 麗は驚いたように目を見開いた。


 はっきりとした、一生懸命な声。


 その言葉は、麗の胸にしっかりと刻まれた。


 彼の言葉をゆっくりと、ゆっくりと呑み込んだ後、彼女は向日葵のような、弾けるような笑顔を彼に贈った。


 そして。


「ありがとう、たっくん」


 その声は嬉しさをかみしめていて、だけどどこか震えているように聞こえた。

 


「それじゃあ学校に行きましょー!」

「おい!待てよ麗!」


 くるりと素早く踵を返すと、麗は住宅街の路地をかけて行った。

 

 男の子の手人形を右手にはめながら。


 梅雨明けの、すでに日差しが強くなってきた朝の通学路には、一つの影が揺れながら学校へと向かっていた。

 

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