第26話
「んっ……」
寝起きは最悪だった。後頭部に鈍痛が、首元には鋭い痛みが走っている。どちらも致命傷でないことを確認しつつ、私はこの病室らしき部屋へ運ばれてきた経緯を思い返した。
満足に身体を動かせなくなったヴィル。既に息絶えてしまったジャック。次いで、特に外傷を負っていない私。この順番で、私たちは担架と輸送トラックで運ばれたのだ。
「……」
音のないため息をつく。自分がしでかしたことを思いだすと、ため息の一つもつかずにはいられなかった。
私の記憶が確かなら、担架に乗せられてから、私はだいぶ派手に暴れ回った。ヴィルのことが心配でならなかったし、ジャックが殺されたことに対する理不尽さを押さえきれなかったから、という理由もある。
そんなことをやっていたからだろう。私は担架から転がり落ちた時に後頭部を床に打ちつけ、その隙に鎮静剤を首筋に注射されてしまったらしい。
そんなこんなで、私は再びGFの医療施設に連れ込まれることになったのだった。
《大丈夫、神矢さん?》
「え? あ、どうも……」
個室の映像パネルから光が差し込む。そこには、以前も私の扱いを担当してくれた女性看護師の姿が映っている。
《二度もヴィル・クラインの人質に取られるなんて、災難だったわねえ》
嫌味のない口調で、私に言葉をかけてくれる。
だが、本当に私を殺そうとしていたのは、ヴィルではなくGFの連中なのだ。流石にそれを口にするわけにはいかなかったが。
私は心配する気配が伝わらないよう、無感情な声で尋ねた。
「私と一緒にいた二人はどうなりましたか?」
《ああ、もう心配ないわ。あなたに危害を加えられる状態じゃないから。一人は死亡、もう一人は牢屋の中よ》
「……あっ、ありがとうございます」
《何かあったらすぐに呼んでね》
その優しさ溢れる言葉を残し、看護師の姿は消えた。
それを見届けた途端、私の感情の堰が崩壊した。
「……!!」
枕に顔を押しつけ、嗚咽を押し殺す。涙がすぐに枕に吸い込まれていったのは幸いだった。もし何かに顔を押しつけていなかったら、小さな水たまりができてしまうかもしれなかっただろうから。
ジャックが死んだのは確定的だ。そしてヴィルも、間もなく処刑されてしまうだろう。
例のトンネルで旗山がヴィルを殺さなかったのは、何らかの情報を吐かせるつもりだからなのかもしれない。ヴィルが具体的にどんな組織の人間だったのかは不明だが、警視庁の手元にない情報を持っている可能性はある。だから少なくとも、今すぐには殺されないのではないだろうか。
その時だった。
《神矢さん、GFの旗山隊長が面会を求めているわ。大丈夫かしら?》
「は、旗山隊長が……?」
私は思わず、ごくりと唾を飲んだ。
ジャックを殺し、ヴィルを戦闘不能に陥らせた男だ。私自身に非がないとはいえ、面会することへの恐怖心は拭いきれるものではない。
《神矢さん?》
「は、はいっ!」
《旗山隊長は少し急いでいる様子なの。私の立場ではどうにもできないわ。取り敢えず、部屋に入れてもらってもいいかしら?》
「……はい」
気の毒そうな表情を浮かべる看護師。私は自分が彼女に同情しているのか、同情されているのか、判別がつかなくなった。しかし、肯定的な返答をしてしまった以上、旗山との面会は避けられまい。
ドアがスライドした時、最初に踏み込んできたのはあの女性看護師だった。一抹の安堵感を覚えたものの、その背後では例の大男が入室許可を待っている。ジャックを殺し、ヴィルを倒した男――旗山基樹。
「これからの音声と映像は録画させていただきます。よろしいですね、隊長?」
「構わない」
看護師の少し棘のある問いかけに、淡々と答える旗山。看護師は振り返り、頭二つ分は大きい旗山と目を合わせてから、
「では、失礼します」
と言って出ていった。
旗山が、一歩一歩私に近づいてくる。まさか暴力は振るわれまいが、それでも凶暴なオーラは私を萎縮させるのに十分だった。
「怪我の具合は如何か? 神矢巡査部長」
「な、何ともありません」
「それは何より」
旗山は丸椅子に腰かけようともせず、立ち止まって『休め』の姿勢で私を見下ろしてきた。
その無感動な表情が微かに歪み、
「香森は逸材だった」
と呟く。
私は『え?』と声を上げそうになったが、辛うじて食い止めた。旗山が仲間の死を悼むような感傷的な人間だとは思わなかったのだ。
「彼女は最期の最期まで任務を遂行した。そうでなければ、目標や共犯の男たちは君を連れて逃走し続けていただろう」
最期の最期まで? どういう意味だ?
こちらに一瞥をくれるともなく、旗山は続けた。
「目標――ヴィル・クラインは、香森を仕留めたと思っただろう。だが、それは誤りだった。香森は瀕死の状態ながら、ヴィルや君がマンホールに滑り込むのを見ていたのだ。それに、このエリアに同様のマンホールが複数配置されているだろう、という見解も述べた」
『そこで彼女は息絶えてしまったが』と、旗山は無事な方の目を細めた。
「だからこそ我々は、すぐにあのトンネルを制圧できたのだ。全く、GFも甘く見られたものだな」
なるほど、と納得する反面、私には一つの疑問が浮かんだ。
「それを私に伝えるために、わざわざ旗山隊長ご自身がいらしたのですか?」
「もちろん違う」
するとようやく、彼の片方だけになった瞳が私の視線を捉えた。
「神矢巡査部長、君に是非、ヴィル・クラインに会ってもらいたい」
「ヴィルに!?」
私はベッドに座り込んだまま身を乗り出した。
「無事なんですか!? まだ殺されていないんですね!?」
「そんなに彼の身が心配かね、神矢くん?」
私が声を上げた直後、旗山の後方から第三者の声がした。旗山は綺麗な回れ右をして、腰を折って頭を下げた。キビキビとした所作で場所を空ける。そこに現れたのは、
「影沼副部長……」
嫌に愛想のいい笑顔を浮かべた、影沼正弘・公安部副部長だった。
「まあ心配には及ばんよ、神矢くん。彼から情報を吐かせるのに、だいぶ手こずっているところだ」
「……情報?」
影沼は大きく頷いた。
「彼はいわば、日の当たらないところにいる人間だ。まあ、我々にも後ろめたいところはあるがね。いやだからこそ、彼の知っている裏社会の情報を提供してもらうべく、手を尽くしているのだよ」
「は、はあ」
ん? 待てよ? 『手こずっている』とはどういう意味だ? 『手を尽くしている』という言葉の意味するところは?
「副部長、まさかヴィルに拷問を!?」
「そうだ」
影沼はあっさりと認めた。
「今はまだ、殴る蹴るといったところだ。明日あたりにでも、自白強要剤の投与も考えている。なあに、気にすることはない。ここはGFの中でもトップクラスのセーフハウスだ。情報が漏れる心配はない。君さえ黙っていてくれればね」
私はいつの間にか、自分がシーツを思いっきり握りしめていることに気づいた。それが『怒り』によるものだと認識するのに、少しばかり時間がかかった。
しかしここで暴れだしては、私も共犯として見なされてしまうかもしれない。私は知っている情報が少ない。そのぶん、彼らGFにとっても私の必要性は希薄だろう。きっと即射殺だ。
私が黙り込んでいると、
「そこで一つ提案だが」
と、影沼が生ぬるい口調で言った。人差し指を立てながら、
「君に、ヴィルに会ってもらいたい。君が相手なら、彼も少しは何かを喋るかもしれないのでね。人質と犯人が、いつの間にか意気投合してしまうという不可解な心理現象も在り得るし」
「そのために私を生かしておいたんですか」
「いやいや! そんなケチな理由ではないよ!」
影沼は顔の前に両の掌を突き出しながら、しかし同時に笑顔で言った。
「君が被害者の立場である以上、我々が君に危害を加えることは許されない。ヴィルの方も、決して君を負傷させることのない状態で引き合わせるから、君の生命財産は我々GFが保障しよう」
黙り込む私の前で、影沼は『あとを頼むぞ、旗山』と言って退室していった。その背中に向かって頭を下げていた旗山は、
「それではご同道願おう、神矢巡査部長」
と言って手を差し伸べた。ゆっくりとその手を握る。長年銃器を扱ってきた者らしい、硬質で冷たい感触が、私に緊張感を覚えさせた。
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