第24話
そんなことを考えたのも束の間、私ははっと息を飲んだ。ヴィルの手から、ナイフが滑り落ちたのだ。これではヴィルは丸腰ではないか。
しかし、誤って落としたようには見えなかった。右手の自由を奪っていたナイフが『邪魔だったから』わざと放棄したように、私には見えた。
そしてそれは、あながち外れてはいなかった。
自分の肩を掠めるように突き出されたナイフと、それを握る香森の右腕。素早く引っ込められるその右腕の手首を、ヴィルは掴み込んだ。一歩間違えれば、ナイフの刃を掴んでしまう、すなわち指を斬り落とされてしまう危険な所作だが、ヴィルは自らの狙い通り、香森の腕を押さえた。驚異的な動体視力が働いたことは言うまでもない。
直後、パキッ、と嫌な音がした。それに続き、微かなうめき声。ヴィルが香森の右手首の骨をへし折ったのだ。香森の腕からも、ナイフが滑り落ちる。
完全に二人は丸腰になった。しかも香森は右腕を負傷している。
勝てる。
しかし、そう思った私の眼前で、香森は凄まじい体術を繰り出した。
掴まれた右腕を起点にして、再び跳んだのだ。痛みなどもはや感じないのだろうか――そう思わせるほどの勢いで。
ヴィルの眼前で跳び上がった香森は、無理やり自分の右腕を引いてヴィルの拘束から抜け出した。そのまま左膝を突き出し、ヴィルの鼻先に膝蹴りを試みる。
これを手で弾くのは困難と判断したのだろう、ヴィルは左腕でガードする。しかし、体重を載せた膝蹴りの勢いを押さえきれず、ヴィルは後方に転倒。間髪入れずに、香森は攻勢に出た。体勢を立て直そうとしたヴィルの頭部に、強烈な回し蹴りを見舞ったのだ。
「ッ!」
私は思わずヴィルの名を叫びそうになったが、何とか胸中で呼ぶにとどめた。
倒れ込んだヴィルに向かい、香森は連続してローキックを繰り出す。二発、三発……。
だが、ヴィルは胎児のように背を丸め、身体の前方を防御する。そして、地面に左腕をついて、そこからコンパスのように身体を一回転させた。勢いよく振り回された両足が、香森の脛、弁慶の泣き所を捉える。
これは不意打ちだったのだろう、香森は声を上げはしなかったものの、咄嗟に後ずさりした。
立ち上がりながら、ヴィルはプッ、と何かを吐き出した。先ほど喰らった回し蹴りで、奥歯の一本でも折れたのだろうか。
その時、ヴィルは咄嗟にしゃがみ込んだ。何かを拾おうとしている。
ここぞとばかりに、香森が三度飛びかかる――と思いきや、香森もまた屈んで何かを手に取った。
これらの状況を見て、私にはヴィルと香森が大変焦っているように思われた。
一旦手から離れた武器を再利用するのはNGだ。取り落とした際に破損したかもしれないし、こうして相手に隙を見せることにもなる。
だが、実際はこうして二人共、先ほど自分、または相手が取り落とした武器を探して屈み込んでいる。
きっと、白兵戦では埒が空かないと判断したのだろう。
先に武器を手に立ち上がったのは香森だった。先ほど自分が取り落とした、消音機つきの拳銃だ。無感情な切れ長の瞳がギラリと妖しく光るのが、私には見える。
一方、ヴィルはまだ立ち上がろうとはしない。あろうことか、草むらに寝そべっている。これでは、上方から見た時にいい的になってしまうではないか。
私は再度、香森に目を遣った。左腕一本で拳銃を握っている。一歩一歩、ヴィルの元へと歩を進めていく。ヴィルが起き上がる気配はない、というか、今起き上がってもすぐに撃たれてしまう。
ヴィル、一体何を――。
そう思った次の瞬間、
「ぐっ!」
「どわ!」
私とジャックは短い悲鳴を上げた。目の前で爆炎と土埃が巻き起こったのだ。幸い伏せていたし、大掛かりな爆発物でもなかったようで、私もジャックも無事。
だが、香森がどうなったかはまだ見えない。
それでも私には察しがついた。今の爆発は、GFが仕掛けておいたワイヤー式の地雷が引き起こしたものだ。きっとヴィルが這いつくばったまま、そのワイヤーを撃ったのだ。
そんなまさか、という直感と、ヴィルならやりかねない、という経験則がせめぎ合う。
続けて耳朶を打ったのは、ヴィルの愛銃の唸りだった。何発かは分からないが、とにかく銃撃している。それもきっと、ヴィルの狙い通り、精確に。
すると、ミシリ、という重い音がした。何だ?
私が胸中で首を傾げていると、
「神矢、頭を守れ!」
「えっ、あ、はい!」
ジャックの言葉通り、私も改めて伏せる。それでも前方から目を離すことはしなかった。
そんな私の眼前で起こっていたこと。それは、地雷の仕掛けられていた木が、根元に近い部分から倒れていく、という事象だった。
どうやらヴィルの目的は、地雷を爆発させ、さらに銃撃を加えて木々を倒すことだったらしい。ザザン、と葉や枝の擦れ合う音を響かせながら、木々は倒れ込んでいく。
すると連続して、周辺で爆発音が続いた。木々がドミノ倒し状態となり、この周辺に仕掛けられた地雷が次々に爆発したのだ。これでは香森の作戦――恐らくヴィルに地雷を踏ませる予定だったのだろう――は台無しだ。
その香森はと言えば、伏せるのが一瞬遅かったのか、立ち上がった時には上半身のあちこちから出血していた。木片が脇腹に刺さっている。
一方、ヴィルは姿を消している。と思ったら、ぬっと地面から頭を出した。ガラン、と音を立てて金属製の蓋状のものがどかされる。
そうか。爆発の瞬間、マンホールに滑り込んで爆風や木々の破片から身を守ったらしい。
「自分の仕掛けたトラップが仇となるとは、皮肉だな」
再び拳銃を取り落とし、脇腹の木片を引き抜こうとしている香森に向かい、ヴィルは銃口を突きつける。香森はひざまずき、吐血した。
「尾崎も荒川も待ちぼうけを喰っているだろう。楽に死なせてや――」
「待って!!」
自分でも思いがけず、私は駆け出していた。
「あっ、おい神矢!」
ジャックが止めようとするのを振り払い、倒木を跨いで疾走、ヴィルを突き飛ばそうとする。銃の狙いをずらすことは叶わなかったが、ヴィルの注意を逸らすことはできた。
「何のつもりだ、神矢?」
瀕死の香森に視線を遣ったまま、ヴィルは例の冷たい口調で問いかけてくる。
「彼女はもう戦えません! あなたも見れば分かるでしょう? あの傷は肝臓に達していますし、腕も折れています! この先、彼女が警備任務や軍事作戦に従事できないことは明白です! もういいでしょう!?」
「いいものか!!」
ヴィルは怒鳴った。事態の急変に、暗闇でも彼の頭に血が上るのが見える。しかし、私はここで引くわけにはいかなかった。
「相手はもう無力なんです、目的は達成できたでしょう?」
「違う! 馬鹿を言うな!」
するとヴィルは香森から目を逸らし、私を正面から睨みつけた。
「無力で何の罪もない妻を殺したのはこの女なんだぞ!!」
私ははっとした。
「……見たんですか? その瞬間を」
「ああ、そうだ!!」
ヴィルは引き金を引いた。ズドン、と音が響く度に、香森のそばに土煙が立つ。何発撃ったかは分からないが、ヴィルのことだ、きっと最低一発は残るようにしているだろう。
「はあ、はあ、はあ、はあ……」
息を切らしていたのは、ヴィルではなく私の方だ。
「銃を下ろしてください、ヴィル……。もう気は済んだでしょう?」
「ああ、そうだな」
するとヴィルは香森の方を一瞥した。香森は右腕を地面につき、左腕で右腰のあたりを押さえている。口元からは、真っ赤な血が断続的に吐き出されている。放っておいてもすぐに死に至るだろう。
私も香森に目を遣った。香森は最期まで戦おうというのか、上半身を起こそうとしている。
次の瞬間、聞き慣れたヴィルの拳銃の発砲音が、森中に響き渡った。
香森の腹部に穴が空いた。反対側が見えるほどに。
「……!」
「気が済んだ。ジャックを呼んで来い、神矢」
ヴィルは空になったシリンダーから空薬莢を落とし、弾丸を詰め直し始めた。表情はいつもの冷徹なものに戻っている。
私が動かないでいると、
「この地下にも臨時セーフハウスがあったはずだ。場所はジャックにしか分からん。連れてくるんだ」
「……」
「指示に従え、神矢巡査部長!!」
「ッ!!」
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