第23話

「あっ……」


 その左手を見て、私は思わず身を引いてしまった。その手は震えていたのだ。小刻みに、そして不規則に。

 その手は私に、解剖されて痙攣するカエルの足を思い起こさせた。


「キャロルが――妻が殺されてからずっとこうだ。全く、俺としたことが」


 無感情に告げるヴィル。だがその口調からは、恐怖感が溢れ出ようとするのを必死に食い止めようという意志が感じられた。

 それも、私やジャックに弱みを見せたくないから、という理由ではない。自分自身が恐怖に直面し、それに耐えなければならないから、という部分の方が大きいだろう。まあ、私の推測にすぎないが。


 ジャックは音のない、長いため息をついた。その時だった。


「!」


 はっと息を飲む気配。


「ジャック、どうした?」

「六時方向から敵だ! GFの対戦車ヘリ!」


 六時方向というと、ちょうど真後ろということになる。するとすぐに、回転翼機特有の空を切る音が響き渡り、サーチライトが車の周囲を暴き始めた。

 対戦車ミサイルなど喰らったら、防弾車両といえども無事では済むまい。しかし、ヴィルの懸念は全く別なところにあった。


「恐らく、香森が来るぞ」

「え?」


 間抜けな声を上げた私に振り返ることもせず、ヴィルは


「誘い込まれているんだ」

「ど、どういう意味です?」

「GFとて、今日の福生での戦闘があって、日付も変わらないうちに空対地攻撃をド派手にやりたくはないだろう。世論からの風当たりが強くなるばかりだ。だからきっと、刺客を送り込んでくるに違いない。あのヘリは俺たちを追い立てるだけだ」


 私は自分の携帯端末を開き、地図を立体画像化して見つめた。この先は、再び森林に入るコースになっている。ヘリで森の中に我々を追い立て、その後に刺客を待機させておく。そういうことなのだろう。


「でも、どうして待ち構えているのが香森だと分かるんです?」


 するとジャックが解説を引き継いだ。


「奴の近距離戦闘能力は、GFの中でも抜きん出ているんだ。間違いなく旗山の次、それも僅差でGFのナンバー2だろう」


 そう語るジャックの横顔は厳しい。


「じゃ、じゃあ私にも拳銃を! 援護しま――」

「それには及ばない」


 ヴィルが断定し、ジャックが俯きがちに首を振る。


「神矢、もしヴィルが勝てなかったら、その時は俺たちも地獄行きだ」

「どういう意味です?」

「俺とあんたの二人じゃ、とても香森には勝てない、ってことだよ」


 私は先ほど、ケインをあしらった時の香森のことを思い返した。確かに、あの無駄な筋肉のない細身の身体は、どんな戦闘能力を秘めているのか分かったものではない。

 今まで私が見てきた中で、最も強い人間はヴィルだ。しかしそんな彼でも警戒しなければならない相手であることには、確かに合点がいく。


「で、でも香森の他にGFのメンバーがいたら? ヴィルが一方的に不利になります!」

「それはないな」


 ジャックは淡々と説明を続ける。


「さっきと逆のことも言えるんだ。つまり、ヴィルが香森を倒せたら、他のGF連中も怯んじまうだろうし、下手な助太刀は香森にとってはいい迷惑にしかならない」


『だからサシで勝負するしかないのさ』と、ジャックは締めくくった。


「神矢とジャックにできることは、戦闘後に疲弊なり負傷なりした俺を回収して、すぐにこの場を去ることくらいだ。だから、今のあんたに武器は渡せない」


 ヴィルが冷たく言い放つ。私は『用無し』の烙印が押されてしまったかのような気分で、黙り込むしかなかった。


         ※


「そろそろキル・ゾーンに入るぞ」


 ヴィルが呟いた。森林に入ってから速度を緩め、二百メートルほど進んだところだ。

 彼の言葉が合図だったように、ジャックはゆっくりとブレーキを踏み込む。


「この先は敵のトラップが仕掛けられている可能性もある。二人共、ついてこようとするなよ」


 しかしそんな言葉を無視して、私はドアを開けた。


「おい神矢、ヴィルがついて来るなと……」

「同行はしませんよ、ジャック。私はヴィルの戦いを見届けたいだけです」


 するとヴィルは振り返り、片方の眉を上げた。そして口元をへの字に歪めながら、


「何が目的だ?」

「あなたの信じる『正義』が何なのか、確かめたいんです」

「おい神矢、あまりヴィルを混乱させるようなことは……」

「いいだろう」


 ヴィルはジャックの言葉を遮り、


「ジャック、神矢に暗視スコープを貸してやれ。ただしな、神矢、見るんだったら草むらに伏せて、息を静かに。分かったか?」


 私は大きく首肯してみせた。

 それを見届けたのか、ヴィルは背を向けて木立の間に入っていく。十メートルほど進んだだろうか、足を踏み出しかけて、慌てて引っ込めた。


「あっ!」


 私には見えた。木と木の間に仕掛けられたワイヤーが。地雷だ。ワイヤーが切れると、木の根元に仕掛けられた爆弾が起爆する仕組みだろう。そこから先は、私やジャックのような人間が立ち入ってはいけない。そんな気配が漂っていた。

 ヴィルはワイヤーを跨ぎ、ホルスターから愛銃を引き抜く。確か香森は近接戦闘のプロだということだったから、自動小銃などではむしろ戦いにくいのだろう。

 足音を忍ばせながら、前進していくヴィル。聞こえてくるのは、微かに風に吹かれる木々の葉が擦れ合う音だけ。

 

 そんな静けさが破られたのは、ヴィルが咄嗟に体勢を崩して転がりだした直後だった。

 銃声はない。否、ここからは聞こえない。しかし、ヴィルのいた地点から土煙が上がるのは微かに見えた。ヴィルの回転に合わせて、追随するように煙が立つ。やがてヴィルは木陰に身を潜め、一旦銃撃は止んだ。

 射角からするに、敵――香森は木の上から銃撃していたらしい。さらに二、三発分、木片が飛び散る。ヴィルは冷静にその場を動かず、香森の出方を窺っている。香森もまた、無駄弾を使う気はないらしい。

 この状況はヴィルにとって不利だ。上方から狙われている。こちらから香森の姿は見えないが、恐らくこの状況を作り出すために待機していたのだろう。

しかし、ヴィルも黙ってはいない。思いがけない挙動に出たのだ。


「なっ!」


 愛銃を投げ捨てた。


「ヴィル、何を!」

「シッ!」


 ジャックが私の頭に手を載せ、ぐいっと首を下げさせる。

 その直後、再び香森が銃撃した。ヴィルの愛銃に気を取られたのだ。

 ヴィルは隠れていた木陰から飛び出した。愛銃を放ったのとは反対側に。そして投擲したのは、小ぶりなナイフだった。

 愛銃ほど精確ではないのだろうが、そのナイフは香森を捉えたらしい。香森がいると思われる木の上から、がさり、と音が降ってきた。拳銃が取り落とされたのだ。香森が手を負傷した可能性もある。

 続いて、もう少し大きな擦過音と共に、人型のもの――香森がすっ、と地に足を着いた。拳銃を拾い上げる素振りは見られない。

 これで、香森もヴィルも遠距離武器を失った、五分五分の状態になった――と思った直後、


「!?」


 香森が跳んだ。一旦バックステップしてから背後の木の幹を蹴り、その反動で一気にヴィルの元へ。既に姿を現していたヴィルは、迎撃せずに前転、香森の下をくぐって回避。すぐさま振り返る。

 ヴィルと香森は腰を落とし、ほぼ同時に腰元からナイフを抜いた。投擲には使えそうもない、大振りのコンバットナイフだ。

 そこから先は、一進一退の攻防が続いた。ヴィルが踏み込む。香森が下がる。カウンター気味に、下からヴィルの腹部を狙う香森。それをヴィルがバックステップでかわす。

 この場――十メートル近く離れた場所にいても、空を斬る音が聞こえてきた。

 一定の距離を保ちながら、じりじりと円を描くように横歩きする二人。

 今度は香森が攻め込んだ。這うように身を屈めて疾駆、ヴィルの足元への一振り。


「あっ!」


 私には分かった。アメリカで習った覚えがある。ナイフなどでの近接戦闘では、真上に跳び上がるのは厳禁だ。そんな回避の仕方をしたら、すぐに回し蹴りなどに持ち込まれ、体勢を崩されてしまう。香森はそれを誘発しているのだ。

 幸い、ヴィルは再びバックステップで距離を取ったため、ナイフに続く香森の連撃は回避できた。

 しかし、香森の前進は止まらない。一旦腕を引き、横薙ぎに振るっていたナイフを突き出した。

 急に前方に、一直線に伸びたリーチに、ヴィルの反応が遅れる。右側に横転して回避しようとしたヴィルの脇腹を、香森のナイフの先端が掠めた。

 鮮血が飛び散るようなことはなかったが、当たったのは事実だ。こうしてじわじわと相手の体力を奪っていく――。それがナイフを用いた戦い方なのだと、実戦を見ながら私は実感した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る