第5話

《前方走行中のパトカー2037、直ちに停車せよ。繰り返す。2037、直ちに停車せよ》


 どうするつもりなのか、という気で目配せをすると、ヴィルは再び


「シートベルトは締めたな?」


 と確認してきた。

 頷き返すと、


「遠慮なくいくぜ」


 そう言って、ヴィルは思いっきりハンドルを右に切った。


「ちょっ!?」


 中央分離帯を乗り越え、車は反対車線に飛び出した。流石にこんな訓練は受けていないし、私にそれほどのドライビング・テクニックはない。

 先ほどとは比較にならないクラクションが、前方から暴風のように浴びせかけられる。しかし相変わらずヴィルは涼しい顔だ。


「うわっ! ひっ!」

「少し黙ってろ、神矢!」


 しかしそれは無理な相談だ。何せ、向こうから次々に車が突っ込んで来るのだ。逆走している私たちが悪いのだが。

 それに、私だって撃たれる可能性がある。味方に撃たれて殉職なんて、そんな無様な死に方はしたくない。幸いなのは、今私たちを追っているのが一般の刑事課・交通課の警察官たちだということ。GFと違い、派手に攻撃しては来ないだろう。

 ヴィルは車列の合間を縫って、右車線に乱入したまま再びハンドルを右に切った。そのまま右の工業地帯へと入っていく。この先にあるのは、


「製鉄区画になんて行ってどうするんです!?」

「黙ってろと言っただろう!!」

「ッ!」


 私は遠心力で、左半身をドアに打ちつけた。ヴィルはお構いなしに、キュルキュルとスキール音を立てて右折を完了する。


「車を変えるぞ。ヘリの目をくらませる」

「で、できるんですか?」

「やるんだよ」


 言うが早いか、ヴィルは思いっきり急ブレーキをかけた。


「ぐっ!」


 危うく鼻先をダッシュボードに打ちつけるところだった。


「降りろ」


 私は素直に、そしてヴィルに遅れまいと、地面に足を着こうとした。が、


「きゃっ!」


 足が震えていた。バランスを崩し、思わず手をつく。すると左側から腕が差し伸ばされた。


「大丈夫か?」

「え、ええ……」


 ヴィルの手を取り、ゆっくりと膝を立てる。

 その時気づいた。


「温かい手をしてるんですね」


 気が緩んだのか、妙なことを口走ってしまった。


「何を言ってる?」

「いや、殺人犯ってもっと冷たい手をしてるんだと思って。冷酷な感じがするような」

「日本人の感覚は分からんな」


 ヴィルはぐいっと私を引っ張り上げる。


「何故体温の高低が、その人物の心理的傾向を表す、などと思っているのか」


 しかしそれ以上は彼も言及してこなかった。その程度の関心事に過ぎなかったのだろう。

 その時、はっとした。

 もっと緊張感を保っていなければならないのは、誰あろうこの私なのだ。


「何してる、次の車を探すぞ」

「は、はい!」


 すると、ヴィルは私と目を合わせながら眉根に皺を寄せた。もう若いとは言えない、しかし復讐に対する執念が宿った目をしている。


「あんまり人懐っこい真似をするな。あんたは俺の人質だ。盾に使われることもある、ってことを忘れるなよ」

「……ええ、そうですね」


 ヴィルは私に先だって、製鉄所の中を歩み始めた。ホルスターから拳銃は抜いていない。それだけ早撃ちに自信があるのか。いやそもそも、人質である私に背を向けておいていいのか。

 私は試しに、そっと歩みを遅くしてみた。長い足で、大股に遠ざかっていくヴィル。これなら私は、すぐに逃げられるのではないか。

 どんどん広がっていく、ヴィルとの距離。私は立ち止まり、ヴィルの背中を見つめながら後ろ歩きをし始めた。

 よし、逃げよう。

 一息吸って、思い切って振り返った次の瞬間、


「痛っ!」


 ちょうど臀部に、小石のような何かがぶつかった。再び振り返り、ヴィルの方を見ると


「バレバレだぞ。警戒心が切れかけてるんじゃないか? 頭を先行させて尻を隠さないとは……。そういえばこの国にはそんな格言があったな」


 私の方を見ようともしない。


「次に逃げようとしたら、俺はあんたを撃つ。いいか?」

「いいも何も……」


 こちらに一瞥をくれるでもなく、ヴィルは歩いていく。

 私はしゃがみ込み、臀部に当たった小石を拾い上げた。これを、距離約十五メートルほど離れたところにいた私に、振り返ることもなく直撃させた。それも、私が歩けなくなるほどのダメージを残さずに。歩けなくなった人質など、ただのお荷物に過ぎない。

 勘にしろ偶然にしろ、こんなことができるとは――。私はやはり、この男についていくしかないのだと腹を括ることにした。


「ついてこい、神矢巡査部長。俺たちが包囲されるのも時間の問題だ。助っ人のところまで退避するぞ」

「はい!」


 今さらながら私は思った。どうして私は彼に敬語を使っているのだろうか? 妻を殺されたという過去に同情しているのだろうか? それとも、この国の正義に捧げた自信が大きく揺らいでしまったのだろうか? つまり、その埋め合わせをしたいだけなのだろうか?

 いずれにせよ、反抗しないことが今の私の延命策だ。私は軽く駆ける勢いで、ヴィルの背中に向かっていった。


 製鉄所には、全く人の気配がなかった。こんな現場は、既にオートメーション化されているのが普通だ。万が一、人が立ち入った時のために、キャットウォーク上のところどころに青いランプが灯っている。赤いランプだったら、どろどろに溶けた鉄の発する橙色の光に紛れてしまうだろう。

 キャットウォークを昇り降りしながら、私たちは製鉄所の深部へと入っていく。


「こんなところにあなたの助っ人なんて、いるんですか?」

「黙ってついて来い」


 釘を刺すようなヴィルの口調。しかしそこに僅かな焦りがあるのを、私は聞き取った。

 ヴィルはコートの胸ポケットから小型のイヤホンを取り出し、右耳に装着した。どうやらマイクとしても使えるらしい。


「ジャック、こちらシルヴァ。製鉄所に逃げ込んだ。誘導してくれ」

《……》

「ジャック?」


 どうやらヴィルは『シルヴァ』というコードネームを使っているらしい。相手である『ジャック』なる人物の声は、流石に私にまでは聞こえてこないだろう。だが、それでも何か不都合が生じたらしいことは私にも分かった。すると、


「神矢」

「!」


 ヴィルがイヤホンを放ってきた。手の親指くらいの、小さな機械だ。


「無線の電波状況が悪い。直してくれ」

「えっ?」

「そのくらいできるだろう? このイヤホン、生憎日本製でな。直すには俺は専門外だ。ちゃんと教育を受けた人間の助けがいる」


 ああ、そういうことか――。私はようやく、しかし唐突に理解した。

 何故私が、人質としてヴィルに引っ張り回されているのか。

 それは、便利屋扱いされているのだ。


 確かに私は手先が器用だとは言われていたし、機械の修復にそれなりの自信がある。だが、専用の修理器具がなければ無理な相談だ。


「どうした、神矢! 急いでくれ!」

「待ってください!」


 私は自分でイヤホンを取り上げ、耳に差し込んでみた。ザーザーと砂嵐のような音がする。

 しかし、私にはこの音に聞き覚えがあった。これはまさか――。


「……通信妨害?」

「何だって?」


 ヴィルが初めて、僅かに狼狽した様子を見せた。


「ジャックがそんなヘマをするとは考えられんが……。本当に妨害がかかっているのか?」

「ええ。これは電波状況の悪化による音じゃありません。何者かが私たちの通信に介入しています」

「なるほど」


 私はイヤホンを差し出した。ヴィルは改めて、落ち着きはらった様子でそれを私の手元から取り上げ、床に落として踏み潰した。


「神矢、今までの通信で俺たちやジャック――助っ人の居場所が割れた可能性は?」

「ありません。あと二、三分したら場所を特定されていたかもしれませんが」

「ふむ」


 ヴィルは少し、ぼんやりと遠くを見る目になった。


「生憎、そうも言ってられん状況だがな」


 ん? 彼は何を言っている? 私たちの居場所は、まだ特定されるはずが――。


「伏せろ!!」


 ヴィルの叫び声に、私の身体は瞬時に応えた。同時に自動小銃のものらしき弾丸が、私の頭を掠めていく。あと一瞬遅かったら、私はハチの巣になっていただろう。

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