第5話 君がため、惜しからざりし命さへ
私が、夫と出会うもっと昔の話です。
私には、大切な恋人がいました。彼は、私の家の近くに住んでいる2つ年上のお兄さんでした。幼い頃から、一緒に野を駆け回り、川で魚を獲ったり、体中が泥だらけになるまで転げ回って遊んだものでした。
彼と私が、恋に落ちるのにそうそう時間は掛かりませんでした。少しずつ胸が膨らみ大人になっていく中で、彼を見る目が友人から男性に変わっていることに気づきました。畦道を二人で他愛もない話をして歩く日常に、だらだらと私の淫らな感情が流れ込んできたのです。
その手に触れてみたい、、、。
私達の距離は、ゆっくりとでも確実に近づいていきました。二人の関係性を言葉で結ぶことはなかったけれど、私達は確かに愛し合っていました。
あなたが生きていること。
あなたが隣で、私を見つめていること。
あなたが瞬きをしているということ。
どんな些細なことでも、あなたがここに居るということが、とてもつもない幸福でした。
陽だまりのような穏やかな日々は、決して長くはありませんでした。
戦うことを強いられる時代に、拒否権はありません。彼は、空に飛んでいきました。お国のために、彼は散ってしまったのです。
彼が、故郷を立つ前、私は彼と懐古園に行きました。何を話したのか、ほとんど思い出せません。居なくなってしまう恐怖、それを表情に出さないように必死でした。
彼の目を見つめてしまったら、きっと泣いてしまう。
私が泣いたら、きっとあなたは笑ってしまう。
笑って、私に大丈夫と言うでしょう。
今日だけは、あなたを繕わないで、固結びされた糸を解いてほしいのです。
「今日は、ありがとうね」
「いえ、そんな。私もお会いできて嬉しかったです」
今日だけは、言葉で伝えなくては。
私は、いままで口にしなかった気持ちを初めて口にしました。
「あなたのことを愛しています」
彼は何か言いたげに口を開きましたが、一度つむぎ、私の目をじっと見つめました。
「僕も同じ気持ちです。ただ一つ、君に言っておきたいことがある。僕は、もうこの世のものではない。僕は、もう過去になる。どうか、君は過去に囚われず、新しい生活に希望を見出してほしい」
そんなこと言わないで下さい。
そう、あなたの胸に拳を叩きつけて、叫びたかった。
私は叫びを腹の奥底に引きずり下ろし、あなたの目をただ見つめていた。
時がゆっくりと流れ、音は消失し、あなたと私の輪郭だけが切り取られたようなそんな感覚だった。
こんな恋人同士が、日本中、世界中にいる時代でした。
今でも空を見上げるたびに、あなたの優しい目を思い出します。
あの日、涙を流さずに泣いていた。あなたの心を。
君がため、惜しからざりし命さへ mokota @mooocooo22
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