第17話

昨日の雨のせいか水分がアスファルトから蒸発して尚更蒸し暑い。ぼさぼさの髪の毛に化粧もせず、突然訪れた柳瀬くんと何故私は電車に乗っているのか。しかも柳瀬くんときたら財布の一つも持ってきていない。「君の家に置いてきてもうた」と悪びれもせずに改札前で言った彼に私はもうなにも言うまいと決めた。彼は勝手なのだ。勝手で、変で、それが柳瀬徹というおとこなのだから、もう仕方がない。そう思えるのは、少なくとも私が柳瀬くんが東京に来たことを迷惑だなんて思っていなくて、反対に嬉しいとまで思ってしまっているからだろうか。それとも彼が耳が聞こえないから、私は彼を哀れに思っているのだろうか。どちらにせよ、柳瀬くんと会ってから、驚いたり、怒ったり、悩んだり、笑ったり、私の感情は忙しい。冷え切ったと思っていたのに、だんだんと柳瀬くんのくれる熱っぽさに溶かされていくようだ。彼自身は暖かくもなんともないのに。


『で、どこにいくの?』


電車のつり革につかまってぼんやりと窓から空を見ている柳瀬くんの肩を少し叩いてiPhoneの画面を見せる。振り向いた柳瀬くんを見て、案外と、睫毛が長くて整った顔をしてるんだな、と思う。この前会った時は暗かったし、今日の朝は落ち着いて顔を見る余裕もなかった。真っ黒な髪も一本一本が細いからかあまり重たく見えずに清潔感さえ思わせる。細身の体は不健康そうなのに色白の肌はそれほど血色が悪くもないように思う。薄い唇に蛇のように細く少しつり上がった目が冷たい印象にさせるのかもしれない。


「君が僕に見せたいとこ連れてってや」


柳瀬くんはぼそぼそと小さい声を出して言う。さっきまでそれ程聞き取りにくくなかったはずなのに突然小さく歯切れの悪くなった彼の話し方につい眉をひそめて、え?と声が漏れた。そんな私を見て柳瀬くんは困ったように微笑んで、やはり右に首を傾げた。そこには身勝手な柳瀬くんとはかけ離れて気弱そうに見えて、突然のその差に益々戸惑ってしまう。もう一度聞き返していいものだろうか、気を悪くしないだろうか。それよりもどうして突然こんなに歯切れの悪い話し方をするのか。さっきまで近かった柳瀬くんとの距離が急に遠のいた気がして自然と顔が下を向いた。


そんなことを悶々と考えている間に速度を落としていた電車は、ゆっくりともう何度目かの気の抜けたプシューという音を鳴らしてドアを開けた。


「新宿〜、新宿です。車内大変混み合いましてご迷惑おかけいたしました〜。地下鉄丸ノ内線、都営大江戸線、JR山手線...」



車掌の間延びしたアナウンスが聞こえて、どっと降りていく人の波に流されながら私は駅へ降り立った。そのまま只管に人にぶつかって押されてホームの広いところまで逃げる。

隣を見ると案の定、柳瀬くんとははぐれてしまっていて、まいったな、と声が漏れた。

携帯の番号なんて知らないし、声を出して呼んでも、彼には聞こえない。


このまま、柳瀬くんと会えなかったらどうしよう。


意思や目的を持って人混みを進んでいく人たちを見て自然と気持ちが焦る。東京に来てしばしば、人混みに呑まれてそこからやっとのす思いで抜け出した時、思うことがある。ぼんやりと自分がいた大波のような人の流れを眺めて、田舎にいた頃とはまた違った、自分だけが取り残されているような、自分だけが役に立っていないような、ふらりと立ち竦むだけの棒人間のような思い。それに伴う焦燥感と、言い訳と、下から湧き上がるような諦念。こんなところに一人で突っ立って、私は一体何をしているんだろう。これ以上ここに一人でいると、東京という名前だけのぼんやりとしていた闇が真っ黒の実態となって足元をすくいにきそうだ。


「誰でもいいから、助けに来てよ。」


ぼそりと下を向いて呟いた途端にぐいっと腕が引っ張られた。


「君、この、っ...阿呆か!!!!」



息切れしながら掠れた声が私に向かって叫んだ。どうやって、見つけたのか。私の腕を握りしめていたのは柳瀬くんだった。


「そんな、不安そうな、顔、すんねやったら、僕をっ、死んでも見失うなっ!ど阿呆っ...!!」


柳瀬くんはまくしたてるように叫んで、周囲の目線が私達を見ていることに気がついたのか、やっと私の手を離して目を合わせた。


「ごめん、」


聞こえないとわかっていても文字を打つ余裕がなくて呟いた。


「ええよ。もう。」


雰囲気か、聞こえてはいない筈なのに額の汗をぬぐいながら柳瀬くんは答える。不安だったのは、私よりも、柳瀬くんの方だろう。知らない土地で、知らない人の中で一人になってしまって。その上、彼には大事な情報が人よりも入りにくいのに。私よりも、不安だったはずなのに。それでも私を必死に探してくれたんだろう。こんなところで立ち竦んでいる私を。そんなことに今更気付いて、自己嫌悪と、それ以上に柳瀬くんへの想いが溢れてどうにか歯を食いしばって泣くのを耐えた。


『どうして、私がいるところがわかったの。』


駅の改札口を抜けながらiphoneの画面を見せる。それだけで他の人の歩くペースから遅れてしまってどうしても人の流れにはついていけない。


「わかるわ。君、人の波から外れて、ぼーっと突っ立っとってんから。」


そういう柳瀬くんは、また電車の車内と同じようにぼそぼそと小さい声で返す。さっき、私を叱った時はそんなことなかったのに、また温度差を感じてしまう。どうして、そんな話し方になるのか。聞き返すこともできずになんとか聞き取れたワードで私は話を繋げる。


「君にはわからんやろうけど、耳が聞こえんくても人探しくらいは出来るんや。しかも僕は生まれた時から聞こえへんかったわけと違うからな。それは君も知ってるやろ。」


ちらりと私の方を確認するようにみた柳瀬くんに私は頷く。今度は少しはっきり聞こえた、慣れてきたのかもしれない。横を走る車の音や人の雑音が邪魔だが、聞き取れないほどではない。


「僕の耳が聞こえへくなったんは、」


続けて柳瀬くんが話し出した時、横を集団が通り抜けた。がやがやと話す声に負けて、柳瀬くんの声は全く聞こえなかった。


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静かに落ちる せの @seno_

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