君が代

@elevenoclock

君が代

「続きまして、国歌斉唱。皆さま、ご起立ください」

 司会者の朗々たる声がアーチ状の天井に反響する。硬いパイプ椅子に座っていた生徒、教員、保護者らがぞろぞろと立ち上がった。明は前の生徒の肩越しに、ただ呆っと何もない中空を見つめた。

 場に静寂が戻るのを待って、厳かにイントロが始まった。すぐに歌に入ったが、音源に含まれるテノールによって会場にいる人々の声はほとんどかき消されてしまう。明は抑揚のない小さな声で、小学生の頃に覚えた歌詞を淡々となぞった。

 ちらと左に目をやると、剛彰がスラックスのポケットに両手を突っ込み、ガムを噛むように口を動かしながらつまらなさそうに下を向いていた。剛彰には苛々すると口を動かす癖がある。明は剛彰のその仕草を見るたび胃の辺りに冷たいものを感じるのだった。

「もう、やめてってば」

 女の子が小声で抗議するのが聞こえる。

 剛彰の一つ奥で、順平が斜め後ろの女の子にちょっかいを出していた。何度も振り向いては、意味不明な合図を送っている。でも相手の子も満更迷惑そうじゃないな、と明は順平の整った顔立ちと女の子の表情を見て思った。

 さらにその奥に立つ隼人はそんな順平の様子を見てクスクスと笑っていた。

「ほら、センセイがこっち見てるぞ」

 隼人が体育館の前方を指差す。担任の由美子先生がオロオロした様子でこちらを見ていた。順平はそれを見て大きく手を振った。

 明は小さく溜息を吐いて、歌うのをやめた。だが他にやることもなく、またどこでもない場所をただ呆っと見つめた。

 やがて曲が終わった。

 司会者の「お戻りください」という案内を待つ事なく、友人たちはパイプ椅子をやかましく鳴らして座った。それに吊られるようにそろりと席に着く。

「くそだるい」

 剛彰が吐き捨てるように言った。明はそれに乾いた笑い声で応えた。


 教室の窓から校門を見遣ると、卒業生達が高校最後の時を名残惜しんでいた。自分がいずれ、そう遠くない未来に同じようにここを去るという事が、明には信じがたいように思えた。

 午下りの教室は、長い儀式を終えた疲れと解放感から緩んだ空気で満たされていた。

「《カテドラル》の新曲聴いた?」

 机に腰掛けた隼人が身を乗り出して尋ねた。

「PV見た。めちゃ良かった」

 そういって順平はギターを弾く真似をして見せる。

「だよな! 俺的には今までで一番だったかなあ。タケは?」

「いや、まだ聴けてないわ。昨日由奈が夜中まで電話切らせてくれなくてさ」

 剛彰が肩をすくめてみせる。

「ご馳走様です」

 隼人は笑って、明は? というようにこちらを向いた。

「実は俺もまだなんだよね。帰ったらすぐ聴く」

 明は曖昧な表情で答えながら、やれやれ、忘れないようにしないと、と考えた。

「それよりさあ、この後久しぶりにもんじゃ行こうよ、もんじゃ」

 さっきまで空でギターを弾いていた順平が、今度はヘラでかき混ぜる真似をした。

 ふざける順平と、それを見て笑う隼人を横目に教室を見渡す。誰もがそれぞれのグループで固まって過ごしていた。その中に、一人教室の隅の自席に座って黙々と本を読む誠の姿が有った。誠はどのグループにも属して居なかった。いつものことだ。高校に入学してからの一年間、明は誠が誰かとふざけたり、笑い合っているのを一度も見た事が無かった。難しそうな文学作品と睨めっこしている、暗くて面白みのない奴。始めの頃は誠を茶化す者、気に掛けて自分のグループに招き入れようとした者も居たが、これといった反応もなく、ついに誰もが興味を失って、今やほとんど存在しないものとなって教室の陰と同化しているのだった。

「おい、どうした? 具合でも悪いのか?」

 剛彰にそう声を掛けられて、明は自分が今どんな顔で誠を睨んでいたのかにようやく気が付いた。


 まだ冷たい三月の風を正面から浴びて、明はコートの襟をかき合わせた。道端に咲く梅の花は鮮やかだが、春の訪れはもう少し先らしい。

 明たち四人は学校を出て、以前何度か行った事のあるもんじゃ焼き食べ放題の店に向かった。

 暖簾を潜り、引き戸を開けると油の匂いが溢れてくる。順平が真っ先に席に着き、三人がその後に続いた。

 そこは高校から徒歩十五分ほどの大通りから一本入った場所にある店で、平日学生限定もんじゃ焼き食べ放題千二百円という学生御用達のグルメスポットだ。

 換気が追いつかないのか店内には煙が充満し、壁には油で黄ばんだ色紙がずらりと並んでいる。明たちは一度サインの解読を試みたことがあるが、それらが誰のものであるかついぞ判明しなかった。

「実際来るまでそうでも無かったけど、やっぱ腹減って来た」明は食べ放題のメニューを眺めながら言った。

「食わなきゃ損損。たらふく食いたまえよ、明ちゃん」順平は相変わらず上機嫌だ。

「とりあえずベビースターいく?」隼人がいった。

「任せる」剛彰が答えた。

「じゃ、それで。すみませーん、食べ放題四つで、一旦ベビースター。あとコーラ四つ。...で、良いよね?」

 皆頷いた。


「腹一杯でもう水一滴入る気しないよ」

 順平は胃のあたりをさすっている。

「お前が調子乗って頼みすぎるからだろ。責任食い」といったのは隼人だ。

「だってどれも美味しそうなんだもの」

 明はそのやり取りを見て笑った。

 その時向かいから見覚えのある顔が並んで来るのを見て、明は急に笑うのを止めて反射的に目を伏せた。それは中学の頃のクラスメイトだった。

 明は心中祈るような気持ちで前から後ろへ流れていく地面のタイル模様を数えていた。距離がだんだんと詰まってくる。脇に冷たいものが伝う。ついにすれ違うというその時、下を向いていたので見えたわけではないが、これを第六感と呼ぶのか、ただ単に視界の端に映り込んだものをそう捉えたのか、相手の一人が自分に視線を遣った事を肌に感じた。皮膚が張り詰め、毛穴が泡立つ。

 おずおずと相手の様子を伺うと、しかしその目は自分に向いておらず、しかも恐怖の色を浮かべていた。結局声を掛けられることもなく、二組の高校生たちはそのまますれ違っていった。

 ほっとして顔を上げる。安堵と一緒にどこか後ろめたさのようなものを感じたが、とにかく人心地つくと隣から奇妙な音がしている事に気が付いた。

 それを見て、明はぎょっとした。

 そこには激しく苛立った表情で、自分の上下の歯をぶつけてガチガチと打ち鳴らす剛彰の姿が有った。

「おい」剛彰が唸るようにいった。

 順平と隼人は前の方ではしゃいでいる。

「うん?」

 胃に大量の氷を入れられたようだった。明はみぞおちの辺りを右手で軽く押さえた。

「さっきのはなんだ」

 静かな声だった。

「...さっきのって?」

 剛彰は黙って答えない。歯が鈍い音を立てる。

「なんの話?」

 音が止まる。口を半開きにしたまま、どこだか分からない場所を見つめている。引き伸ばされた時間に、首を絞められるようだった。

「俺、弱いやつって嫌いなんだよね」

 それきり話は終わってしまった。


 美少女、異世界、学園。

 巫女、シスター、やたら長いタイトル。

 そういうものに、明はこっそり楽しみを見出していた。オタクというわけではない。それほど熱心でも無いし、没頭しているわけでも無く、ただこうして、隠れてたまに読むのがなんとも言えず楽しかった。

 明は自室に入り、駅の反対側にあるチェーンの古本屋で人目を忍んで買って来たライトノベルを取り出すと(そうやって知り合いに見つからないように買うこと自体ちょっとした冒険として彼の楽しみのひとつになっていた)、ベッドに寝転んで最初の頁を捲った。巻頭の挿絵はさっと眺めて、すぐに本文に取り掛かる。

 現実の輪郭がぼやけ、気がつくと新しい世界にいる。そこはまだ知らない世界でありながら、実のところ、既によく知っている世界だ。そこに不明瞭なことはない。調和の取れた、美しい世界。

 明はライトノベルに分かりやすいドラマを求めた。展開は多少ベタでも構わない。むしろ、ある程度意識的にベタである方が好ましかった。あまりに複雑で分かりにくい現実より、理解できる非現実の方が居心地が良かった。

 読書に没頭する余り、階下から母親が呼んでいる事に気付かなかった。痺れを切らした母親が階段を上がって来る。母親が部屋に入って来て、明はいきなり現実に引き戻された。条件反射的にライトノベルを背中に隠した。

 一通り叱言を並べてから「早く来なさいよね」といって母親は部屋を出ていった。明は背中に隠したライトノベルを取り出すと、悪態をついてそれを壁に投げた。


「え、じゃあ結局手に入らなかったの? 《カテドラル》のライブチケット」

「そうなのよ。二回も抽選外れちゃって、ガックリ来ちゃったよ。本当に」

 放課後の教室に差し込む傾いた陽射しが、隼人と順平の表情に淡い陰影を与えている。陽光の途切れた先では、誠が帰り支度を進めていた。

 また《カテドラル》の話か、と明は内心ウンザリしていた。正直、全く興味が無かったが、三人がいつも話題にするのでなんとか話を合わせているのだった。

「もういっそ名古屋公演行けば?」剛彰がいった。

「やっぱりそうするしか無いかな。今回逃したら次は半年後とかじゃない? そんなに待ち切れない」

 順平は小さな子供のように、文字通り地団駄を踏んだ。

「じゃあ俺ら四人で名古屋行っちゃう? 味噌カツでも食おうぜ」

 隼人は慰めるつもりでいったのだろうが、予想外の展開に明は思わず「え」と、驚いた声を漏らしてしまった。

「ーーっそれサイコー! 土曜公演観て一泊して、遊んで帰ろうよ!」

 興奮する順平の横で、剛彰がじろりと明を見て「行きたくないのか? 明」といった。光の無い暗い目だった。

「いや...別に...」

「楽しみだなあ。そうだ、コンサート鑑賞旅行の前哨戦でカラオケでも行かない? 《カテドラル》の曲歌いまくろうよ」

「悪くないな」剛彰が立ち上がりながらいった。

 明は憂鬱だった。カラオケになど行きたく無かった。コンサートを観にわざわざ名古屋まで行くのはもっと嫌だった。まだ《カテドラル》の新曲も聴いていない。だが今ここで断るのはあまり得策で無いように思えた。何より剛彰のあの目が恐ろしかった。

「いいね、カラオケ」

 努めて平静に、そして明るく聞こえるようにいった。

「その前にちょっとトイレ行っていい?」

 とりあえずカラオケに行く前に新曲だけでも聴いておかなければ、顰蹙を買う羽目になるのは目に見えている。明はそそくさと教室を出た。


 廊下はがらんとして、いつもより薄暗く感じられる。右手にある東向きの窓の外は、既に青く沈んでいた。途中、図書室のドアが開いていて、廊下のその部分だけ燃えるように輝いていた。何の気なしに中を覗くと、見覚えのある背中が見えた。誠だ。

 抑えようのない苛立ちが湧き上がって来るのを腹の底に感じる。前からそうだった。これは教室の隅で一人ぼっちで本を読んでいる誠を見るたびに、いつも感じていた苛立ちなのだ。その苛立ちの原因を、明はついに理解した。誠のその気取った態度が、誰にも媚びない超然とした振る舞いが、自分の生き方を否定しているようでカンに触るのだ。その時、明の頭の中で突如小さな閃きが起こった。それは線の細い青白い閃光で、明るく、冷たい色をしていた。

 そうだ。あいつだって自分が弱いという事に気付けば、考えを改めるはずだ。お前だってこちら側の人間なんだと、そう教えてやるべきなんだ。

 明は誠に気付かれないように、足音を殺してゆっくりと近づいていった。よほど本に夢中なようで全く気付く気配がない。難なく真後ろまで近寄って、明はいきなり後ろから本を奪った。滑稽な程に驚いた誠はそのまま椅子から転げ落ちた。その様子を見下ろす明の顏は奇妙に歪んでいた。

 奪った本は窓から投げ捨ててやるつもりだった。しかしそれが意外なものだったせいで、明は急に毒気を抜かれてしまった。表紙に描かれた漫画調の女の子が、無邪気に笑っていた。

「こういうのも読むのか」

 立ち上がった誠は、問いに抵抗するように押し黙った。本を差し出すと、誠は遠慮がちに受け取った。

「じゃあいつも読んでる難しそうなのは」

 誠は黙ったままだ。舞い上がった埃が消えかかりの夕陽に照らされて、ゆっくりと沈殿していくのが見えた。

「そうか」

 明は背を向けた。誠のような、誰にも顧みられることのない孤独な男でも人目を気にするのだという事がいかにも可笑しく、つまらなく間抜けな事のように思えた。


 薄暗いカラオケルームには《カテドラル》の曲が繰り返し大音量で鳴り響いていた。明は一番出口に近いところに座って、ちびちびとグレープフルーツジュースを口にしていた。

 スマホを開いて時間を確認する。十八時四十七分。まだ三十分しか経っていなかった。

 目の前にタッチパネル式のリモコンが放り出された。

「お前もなんか歌えよ」

 剛彰だった。

「いや、俺はいいよ」

「いいから、歌えよ」

 明と剛彰は互いに見合った。剛彰はくちゃくちゃと口を動かしている。明は黙ってリモコンを手に取った。

 履歴を見ると、《カテドラル》の曲ばかり並んでいる。その内のひとつからアーティスト名をクリックして、曲一覧に飛んだ。

 順平や隼人から散々薦められて、有名どころの曲は大体知っている。まだ今日は歌われてない曲もいくつか残っていた。その中からひとつを選ぼうとして、明はふと手を止めた。教室の隅の暗い場所で、気難しい顔をして教科書に載っているような作家の作品ばかり読んでいる誠の姿が脳裏に浮かんだ。

「馬鹿馬鹿しい」

 画面をトップに戻すと、検索ページを出してき、み、が、よと入力した。ぶち壊された空気とカラオケルームに厳かに流れる君が代を想像する。剛彰はきっと激怒するだろう。耳触りな音で歯を鳴らしながら、焦点の合わない暗い目をしながら。そして自分を殴るだろうか。あるいはグラスを叩き割るだろうか。

 明は込み上げてくる笑みを隠しもせず、震える手で送信ボタンをクリックした。

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