世界で一番すばらしい人
@ns_ky_20151225
世界で一番すばらしい人
やっと手に入った。お年玉とバイト代三ヶ月分。これで次の段階に進める。
あたしの目の前には、ちょっとやばいところから買った教材用のシンセサイザーと、それに合わせて特別に作られた一週間限定の制限解除チップがある。チップの組み込みは簡単だった。これでこのシンセサイザーは規制に縛られることなく、致命的でなければ思うがままの菌を作れるようになった。
あたしはテロリストとかじゃない。でも、ある意味ではそういう奴らより恐ろしいかも知れない。目的のためならなんだってするっていう、強い決心があるからだ。
だって、あたしは恋をしているから。
リョウ君っていう、世界で一番すばらしい人に出会ったから。彼と同じクラスになれたなんて奇跡に違いない。その奇跡に抱きしめられ、告白してもらう。
それが今のあたしの目標だ。
あたしはシンセサイザーの微調整をしながら、一番最近の会話を思い出していた。
「委員会、B会議室に変わったから。みんなにも言っといて」
「Bね。わかった。ホンダ君は出るの?」
「最初だけ。先生には話してあるけど途中で抜ける。じゃ」
「うん」
そのあっさりした態度、しっかりした声。必要十分な事だけ言ってさっと行ってしまう様子。なにもかもがあたしの理想だ。
でも、その理想はあたしの横にはいない。
だからこそ、このシンセサイザーだ。
どこにでも存在している菌をベースに、感染後に発症する特定の機能を組み込む。彼の免疫機構などで無効化されるまで、数日から十日ほどは効力が続くはずだ。
その効果とは、瞳孔の拡大、血流量の上昇、喉の乾き、軽めの性的な興奮。
その引き金はもうひとつの菌から発散される成分。そっちはあたしの皮膚に植える。香水を塗るようなものだ。
人間は興味のあるものを見た時に瞳孔が拡大する。たとえば大人は、赤ん坊を見た時に十から二十パーセントほどの拡大が見られると言う。いやらしい話だが、男性が女性の裸の画像を見たときもそうなるらしい。血流量の上昇や喉の乾きも同様だ。そして、性的な興奮の組み込みには抵抗感があったが、確実性を高めるために入れる事にした。
心の動きが瞳孔を拡大させるように身体を操作するなら、身体を操作すれば、心に影響を及ぼせるのではないか。
リョウ君は、あたしのそばでは瞳孔が開く。なぜかどきどきしたり、顔が火照る。喉がからからになる。また、性的に興奮する。
リョウ君はそれらの兆候を自分なりに分析するだろう。彼は賢い。だから、あたしに恋していると結論する。
そして、あの素敵な表情と声で、あたしに告白し、あたしはちょっと思わせぶりにためらいながら受け入れるのだ。
菌を継続して感染させるかどうかは付き合いだしてから様子を見て決めればいい。案外だめな人だったとわかったら、他の人を探したらいいだけだ。
そんな計算をしている自分は最低な女なのかな、と軽く反省したが、使える武器を使ってなにが悪いと開き直った。かわいい子やスタイルのいい子がそうしているように、あたしは頭を使っているだけだ。そうなんだ。
あたしから告白するなんて出来ない。チョコかなんか手作りして、手紙でもつけて渡せるならこんな苦労はしない。
男の子とは事務的な話以外した事はない。それでも、リョウ君となら、彼から告白してもらって付き合い始めれば、会話くらいはなんとかなると思う。
その後は、成り行き次第で。
機器を手に入れるまでの間、ずいぶん勉強した。遺伝子組換えを、あたかもコンピュータのプログラムのように行える機器と言語が開発されたとは言え、菌に機能を組み込むのは日曜大工で棚を吊るすようにはいかない。学習用のシミュレーション環境を整えるのにはかなり無理をした。半分本気とは言え、こういう方面に進むので独習したいからと親を説得した時には胸がチクリと痛んだ。
ただ、シミュレーションではなく、実機と制限解除チップとなるとそうはいかない。親や自分のカードなんか使えない。後ろ暗いところのある者が使う金、現金を手に入れるのにも苦労した。あんなまとまった額の現金を見るなんて初めてだし、これからも二度とないだろう。
それでも、当然とはいえ、製薬会社が使うような本物のシンセサイザーや、無制限解除チップなんていう本当にやばいものは手に入らなかったから、今日から一週間は休み無しだ。進み具合によっては徹夜だって覚悟している。そんな事全然苦じゃない。リョウ君が端末の画面から微笑んでくれている。
「いつまで起きてるの? もう寝なさい」
「眠そうだな。勉強もいいけど、ほどほどにしなさい」
「君、授業中だ。顔でも洗ってきなさい」
ほぼ完成したのは六日目。テストとわずかな修正には一日しか使えなかった。それでも、制限解除チップが役目を終えてただのゴミになった時、あたしは二種類の菌を手にしていた。恋愛菌だ。
自分用を腕や首筋に塗り、リョウ君用を手の中に隠せるくらい小さなスプレーボトルに詰めた。残りは培養槽と冷凍庫に保管しておく。
機器のセンサーで、自分に塗った菌が体温で活動開始した事を確かめた。設計どおりの成分の分泌を始めている。ここまでは問題ない。
学校で、誰にも見られないように、不自然に思われないように菌を仕込まなければならない。他人に影響しないように、菌は接触のみで感染し、乾燥には極度に弱く、数十分以内に体温程度の温度下に置かれないと死滅するように作った。
リョウ君の使う端末のキーボードや、鞄の取っ手にスプレーするつもりだった。自転車通学だから下校時刻頃にハンドルにかけようかとも思ったが、駐輪場には常に人目があるのであきらめた。
機会はなかなか訪れなかった。教室には必ず誰かがいた。
結局、塗れたのは放課後の委員会の後だった。リョウ君は左手で菌が塗布された鞄の取っ手をしっかり握って帰っていった。効果が分かるのは明日以降だろう。あたしは目的を達成して緊張が一気にゆるんだ疲労感と、明日への期待感でぐったりして帰宅した。その夜は深く眠った。リョウ君の夢すら見ずに。
翌朝は疲れのせいか少し熱っぽくて喉がかさついたが、朝の支度をしているうちに平常にもどった。仮に熱があったとしても休むつもりはないけど。
鏡を見ると、熱のせいか頬に赤みがかかっているが、一週間ぶりにきちんと睡眠をとったおかげだろう、肌のつやがいい。自分で言うのもなんだが魅力的だと思う。
そこまで考えて、まさか、と思い、心の中で思い切り首を振って否定した。自己感染はないはずだ。というより、あたしに塗った方の菌に、リョウ君用の菌の感染や症状が出るのを抑制する効果を持たせたのだからあり得ない。
でも、と、あたしの頭の中を、研究対象の菌に感染してしまい、悲劇的な結末となった昔の学者の名前が横切っていった。学者ですらそういうことがあるのに、自分はあり得ない、なんて思っていていいのか。今は時間がないが、リョウ君への効果を確認して、落ち着いたら調べよう、と心のメモに書き込んだ。
そんなとまどったような不安感は、教室に入ってしばらくすると吹き飛んだ。
リョウ君がこちらをちらちら見るようになったのに気がついたからだ。授業中でも休み時間でもこっちを見、こちらが見返すと目をそらす。また、友達と話すためとか偶然を装うが、あたしの近くにいる時間が増えたようだった。
最初はあたしが意識しすぎているせいで、効果の見極めを勘違いしているのかと思っていたが、二、三日ずっとそんな感じだった。
そうなれば、後はリョウ君次第だ。男の子なんだから勇気を出してほしい。早く一歩進んでくれないかな。
「ちょっといい? 委員会の事で」
「なに?」
「放課後、時間取れる? あの書類早めに準備しときたいから」
「え? もう? まだいいでしょ」
あたしはわざと冷たい口調で言う。そんな面倒なことに付き合ってられないという感じをにじませたが、自分にそんな演技ができることに驚いた。こっちに主導権があるのが確実なので、リョウ君の反応を楽しんでいる自分がいる。
「いや、まあ、そうなんだけど。早めがいいかなって」
「まあ、そうね。わかった。手伝う」
「ありがと」
リョウ君は演技下手だった。あきらかにほっとした様子を隠しきれていない。なんだかかわいい。
けれど、リョウ君は思ったより慎重だった。会議室に二人きりなのに仕事の話しかしない。いや、感染して数日しか経っていないのだ。まだ自分の反応にとまどっているのだろう。あたしが機器の操作手順を聞くふりをしてわざと体を寄せるとわずかにびくっとした。
今日は急がないほうがいいかもしれない。効果は明らかなんだから、ここらで自己感染の可能性がないか調べておこうかと考えた。
帰宅して、夕食、風呂といったいつもの手順を済ませた。恋が実現しそうなせいか、浴室の鏡の中の自分は瞳がぱっちりしていてきれいだと感じた。頬に赤みが差しているのは風呂上がりだからだろうか。喉が渇き気味なのもそうなのか。
そして、自分に興奮しかけている自分に気づいた時、調べるまでもないと分かった。
自己感染してしまった。効果が抑制されていない。なにか手違いがあったのか。まあ、害はない。リョウ君と同じくしばらくしたら症状はなくなる。あわてなくてもいい。
それにしても、菌の効果とわかっているのに、これほど自分が魅力的に感じられるとは驚いた。これなら、リョウ君はどうなのだろう。今日なんかよほど自分を抑えていたんだろう。
そんな浮かれた気分は実験記録を調べると消え去った。まずい。あたしの体内の二種類の菌は新しい一種類の菌に変異していた。まあ、元が一緒なんだからありえないことではない。
もっとまずいのは自分用の菌の効果に加えて、リョウ君に対する効果と同じ効果を表し続けている点だ。あたしの身体は菌を抑え込めていない。このままだとこの効果が長期にわたって続くだろう。
制限解除チップがないので、手元の教材用シンセサイザーでは、この新種の菌に対して調査以上の手は打てない。とりあえず害はなく、他者への感染も無いとわかったのが幸いだった。しばらく様子を見よう。そうするしかない。
あたしはため息をついて外を見た。窓に自分が写っている。とても、とても魅力的な自分がいる。つい見とれてしまった。
世界で一番すばらしい人だ。
了。
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