おいくら?

@0821

第1話

 ピッ!

「178円が1点」

 ピッ!

「263円が1点」

 ピッ!

「424円が1点」

 ピッ!

「156円が……、3点。合計で1440円です」

 麻本真弓は、レジカウンターの向かいに立つ客にそう伝えた。相手は20歳前後の若い男。ゆるい感じのパーマを当て、両耳にはイヤホンが装着されている。財布から千円札と500円玉を取り出すも、真弓と目を合わせようとはしない。

「ポイントカードはございますか」

 そう質問するも、男はイヤホンで聞いている音楽に夢中なのか、何も答えようとはしない。真弓は心の中で舌打ちした。

 __________あるか、ないかくらい言えないのかよ。

 目つきが険しくなるのが自分でもわかる。

紙幣と硬貨を、それぞれ専用トレイに入れる。そうすると数秒足らずで画面に投入金額が表示され、自動的に計算が行われる。

 チャリン、チャリン、チャリンッ!

 おつりのトレイから出てきた小銭を手にとり、

「60円のお返しです」

男に渡す。男は結局一度も真弓のほうを見ず、出口へ向かっていく。真弓はまったくと言っていいほど感情を込めずに、

「ありがとうございました」

と頭を下げ、すぐに次の客のほうに顔を向けた。

「すいません、お待たせしました。456円が1点、230円が2点……」

 真弓が勤務するスーパーマーケット『Qマート』。関東で50店舗近くを出店し、近々、関西方面にも進出するとか。

「717円が1点、140円が3割引きで98円……」

 __________別に私には関係ないし。

 真弓の仕事はレジ打ち。たまに商品の品出しや倉庫の整理などをすることもあるが、定位置はこのレジカウンター。平日4日勤務。時間帯は午前10時~午後5時まで。息子の拓斗が幼稚園に通い始めたときから勤務しているので、そろそろ6年目になる。

「345円が2点で、合計2485円です。ポイントカードはお持ちですか」

 その間、時給がアップしたのは1回だけ。それもたった10円。

 変わったと言えば、レジの機械が新しいものになったことのほうが大きな変化だ。3年前までは客が出したお金をレジ担当者が数え、金額を入力するタイプの機械だった。しかし、

「来月から新しいレジスターを導入することになりました。いつまで経っても打ち間違いが減らないので」

 レジ部門の責任者を務める正社員の男は、まるで「お前たちパート社員が悪い」とでも言いたそうな表情で、そう告げた。

 ___________だったら、あんたがやってみなさいよ。いつもは店長に怒られてヒーヒー言っているくせに、私たちには偉そうにするんだから。

 お客から渡された紙幣を機械に投入しながら、そんなことを思い出した。



 時計の針は11時55分を過ぎた頃、やっと客足が一息ついた。

 真弓は周囲に気づかれないよう小さくため息をついて、腰のあたりを摩る。30代も後半に差し掛かった頃から、長時間立ち仕事をしていると、腰が痛くなるようになった。

 _________若い頃はこんなことなかったのに。

 そんなことをぼんやり考えていると、

「おつかれさま。レジ、交代するよ」

 代わりの担当者がやって来た。

「いいの? まだ早いんじゃない」

「いいの、いいの。この前来るのが遅れちゃったから、そのかわり」

「そう。じゃあ、よろしく」

 真弓は、お客から話しかけられないように小走りで休憩室に向かう。商品の置き場所を聞かれると、貴重な昼休みが減ってしまう。

 休憩室は店の裏側、お惣菜などをつくる調理場の隣にある。

「失礼します」

 そう一声かけてから、休憩室の中に入る。

 社員は社員同士、パートはパート同士、アルバイトはアルバイト同士、シルバー社員はシルバー社員同士固まっている。いつもの光景だ。

 真弓は冷蔵庫に入れておいたお弁当を電子レンジで温め、素早く食べる。昼食をすませると眠気が襲ってきた。時刻はまだ12時25分を回ったところ。13時までにレジに戻ればいいので、まだ時間は十分残っている。

 ___________ちょっと寝よ。

 そう思い、頬杖をついたのもつかの間、

「ねえ、ねえ、知ってる?」

 隣に座っていたパート社員が話しかけてくる。

 __________面倒くさいな。

 そんな言葉を心の中でつぶやいても、言葉には決して出せない。そんな性格だから、仮面の下での舌打ちやため息が一向に減らないのだ。それなのに、また愛想笑いを浮かべる。まるで相手の話に興味があるかのように。

「何? どうしたの?」

「吉岡さんのところ、中学受験するらしいよ」

「へえ~」

 同じスーパーで働くパート社員の名前を挙げた。今日は休みで不在。だから、こんな場所で話題にしているのだろう。

「この前、たまたま吉岡さんがお子さんと一緒に買い物しているのを見ちゃって。お子さんがほら、あそこ……。何とかっていう塾のカバンを持っていて。緑のワッペンがついたカバン。この付近でも最近教室ができたじゃない?」

「亜門スクール?」

「そうそう、それ!」

「でも、受験させるかどうかは、まだわかんないじゃない」

「いや、あそこは受験対策の専門塾だよ。学校の補修塾とは違う。毎日、宿題のプリントが10枚以上出るんだって。私、ほかのお母さんから聞いたことがあるもの」

 __________どうして、他人の家庭にそんなに興味を持てるんだろう。

 真弓は相槌を打ちながら、そんな疑問を感じずにはいられなかった。

「吉岡さんのところ、そんなに余裕があるのかしら。塾の費用だけでも馬鹿になんないのに、私立中学に合格したら、もっと大変でしょ?」

「そうだよね」

「たしか麻本さんのところも今、小3じゃなかったっけ。吉岡さんと同じでしょ?」

「ええ、まあ」

「どうなの? やっぱり考えてる?」

 好奇心に満ちた視線が向けられる。中学受験について尋ねているのは明らかだった。

「うち? うちはない、ない! だって、学校の先生には落ち着きがないって注意されるし、家にいてもマンガばっかり読んでるから。とてもじゃないけど、進学塾の勉強なんかついていけないよ」

 できるだけ明るい表情で、自虐的にならないように。神経を尖らせながら、相手の視線をかわした。



 息子の拓斗がまだ小学1年生だった頃。

夜9時近く、夫婦ふたりだけでダイニングにいた。夫は遅い夕食をとり、真弓はテレビを見ながら彼の食事が終わるのを待っていた。自分の食器を自分で洗ってくれるような人ではないので、いつも真弓が待っていなくてはいけない。

 テレビではちょうど情報バラエティー番組がやっており、世界各国の教育事情を紹介していた。その中で日本も取り上げられ、中学受験するパターンと中学受験をしないパターンが紹介されていた。

 夫は晩酌をしながら、大して興味もなさそうに番組を眺めていた。だが、中学受験にかかる費用や、私立中学の授業料が紹介されたとき、

「うちには到底無理だな」

小さい声でそうつぶやいた。

 ________おまえも馬鹿な考えを持つなよ。

 こっちを見ていたわけでもないのに、そう言われたような気がした。

 別に真弓自身も、中学受験を真剣に考えたことはない。我が家の家計については、夫以上に自分がよく理解している。

 中堅文具メーカーに勤める夫の給料は、もう何年も平行線が続く。

「下がっていないだけマシ」

 夫の給与明細を見るとき、二人して合言葉のように言っていた。ここ数年は、それすらも口に出さないようになっている。

「仕事、やめなきゃよかったな」

 専業主婦をしている友だちと会って話すと、そういうことを言い出す人がたまにいる。

 真弓も出産を期に、新卒で入社して以来働き続けていた信用金庫を辞めた。

〝女性が輝ける職場! 出産後も、あなたを全力でサポートします″

 新卒採用向けのパンフレットには、そんなうたい文句が載っていた。だが、真弓が妊娠したことを上司に報告したとき、

「3歳まではお母さんが一緒にいてあげた方がいいよね。ストレスを抱えて、どっちつかずになるのが一番良くないから」

と言われた。子どもができたら退職する。そんな空気が自然とでき上がっていた。

今思えば、会社が「全力でサポートします」と宣言していたのは、総合職で入った女性社員のこと。一般職で入った自分は、最初から対象外だったのだろう。真弓よりも先に出産した一般職の女性社員がほとんど退職していたというのに、どうして気づかなかったのだろう。善人面をした会社に幻滅するとともに、自分の考えのいたらなさにも腹が立った。

「子育てがひと段落したときに、職場に戻ってきたら?」

 子どもを授かったことを周囲に伝え、職場を去るまでの半年間、そんな言葉は誰からもかけられなかった。会社との付き合いはそれっきり。

 退職して数年間は、会社のダイレクトメールがマンションのポストに投函されていた。元社員を顧客としてつなぎとめておきたかったのだろう。だが、その信用金庫の支店は家の近くにはなく、一部のATМではお金の出し入れもできない。そんな弱小信用金庫にいつまでも口座を持っておくメリットは、何もなかった。息子の出産が無事終わると、すぐに夫と同じメガバンクに口座を移した。

 それっきり、元の職場からは何の連絡も来なくなった。



 異変に気づいたのは、ある日、突然。じめじめと蒸し暑い梅雨の昼下がり。

「ん?」

 レジでおつりを渡したとき、女性客の顔に違和感を覚えた。

 _________ えっ、何、これ? ほくろ? でも、それにしちゃ大き過ぎる。シミかしら。

 相手の女性は、顔の側面が髪で隠れていたので、一目ではよくわからなかった。しかし、いつまでも同じ疑問を考えているほど暇ではなく、

 ダンッ!

 レジ台に別の客のかごが置かれる音に気づき、すぐに顔を正面に戻す。

「いらっしゃいまっ……」

 声が途中で途切れ、視線は客の顔に釘づけとなった。

 ドカタファッションとも言うべき服装の男性。年齢は40歳くらい。浅黒く、口元を覆う不精髭がいかにも建築現場で働く男といった雰囲気。相手の格好が気になったのではない。このスーパーにはいろいろな客が来る。主な客層は高齢者や主婦だが、高校生、大学生、サラリーマン、ОL、外国人……。

 だから、ドカタファッションの人間が商品を買いに来ても、なんら不思議ではなかった。彼がカゴに入れて持ってきたのは、おにぎりとカップラーメン、そしてペットボトルのお茶。おそらく、この近くで仕事をしており、昼食を買いに足を運んだのだろう。

 いや、それよりも問題は……。

 真弓は、男の顔を凝視していた。もっと詳しく言うなら、ある一点に引きつけられていた。左目の下、鼻の左側、左の唇の端の斜め上。そこにバーコードがあった。この店に並ぶ全ての商品についているものが、その男の顔にもあった。

「んっ? 何?」

 男が怪訝そうな顔で聞いてくるので慌てて、

「あっ、いえ! すいません。138円が1点、156円が1点」

 商品の金額を読み上げながらも、つい横目で男の顔を見てしまう。見間違いではない、はっきりと顔に刻まれている。

 _________ あれは……、何? 刺青? なんかのペイント? ああいうのが今、流行っているの?

「ええっと、全部で756円です」

「悪りい、それとタバコ1つちょうだい。セブンスター」

「はい」

 真弓は激しく波打つ心臓の鼓動を何とかなだめながら、タバコケースから取り出し、

「こちらでよろしいでしょうか」

「ああ。全部でいくら?」

「えっと、合わせて1307円です」

 男からお金を受け取り、震える手で機械に入れる。おつりが出てくるまでの時間が妙に長く感じられた。

「お返しは693円です。ありがとうございました」

 何とかお金を落とさずに渡せたものの、手汗がびっしょり。

 _________ なんだったの、今の?

 思わず、男の去って行く後姿を目で追いたくなるも、すぐにまた別の客が来る。

「いらっしゃいませ」

 今度の客は30代後半の女性。真弓と同じくらいの年齢で、背格好も似ている。しかし、こちらが店の制服なのに対し、あちらはグレーのスーツ。バックも、財布もブランドもの。でも、左の薬指に指輪はなかった。

「134円が1点、568円が1点」

 レジのスキャナーで商品の金額を読み取りながら、女性の顔をチラッと見る。目つきが少々きついものの、鼻筋が整った綺麗な顔立ち。彼女の顔には、バーコードはなかった。

「合計で2012円です。ポイントカードはございますか」



「何だったんだろう?」

 真弓は自動販売機でお茶を買いながら、首をかしげる。

 結局、客の顔にバーコードが見えたのは、あの1回だけ。自分の記憶に自信が持てず、パート仲間にも聞けない。

「さっき、お客さんの顔にバーコードがあったんだけど、気づかなかった?」

 そんな馬鹿な質問ができるはずない。

「見間違いかな。でも、すごくはっきり見えたけど」

 一人でブツブツつぶやきながら、休憩室に向かう。

「失礼します」

 そう言ってからテーブルに向かおうとするも、

「ああ、よかった! 麻本さん、ごめんなさい、ちょっといいですか」

 副店長の近藤が近寄ってくる。

 まだ30代前半で真弓よりも若いが、早くも現場の切り盛りを任されている。この店の店長は隣町の店舗の店長も兼任しているため、現場にいることが少ない。そのため、近藤が実質的なリーダー。Qマート史上最年少で店長になるのではないかとも噂されている。

 しかし、本人はいたって謙虚。社員だけでなく、パートやアルバイトに対しても丁寧に接してくれる。だから、周囲からの信頼も厚い。真弓も、近藤に対して悪い感情は持っていなかった。

「はい、何ですか」

「あの~、実は土日出勤の馬場さんなんだけど、旦那さんのお父さんが亡くなったみたいで、次の土日は山形へ行かなくちゃならないらしいんですよ」

 それだけで、話の内容は見えた。

「申し訳ないんですけど、次の土日も麻本さんに出てもらえないですかね。来週、代休を取れるように調整するんで」

「時間帯はどれくらいですか」

「午前10時から……、できれば夕方の4時くらいまでレジに入ってもらえると助かるんですけど」

「いいですよ」

 真弓がそう答えると、近藤はホッとした表情を浮かべ、

「ありがとうございます。お子さんの予定とか大丈夫ですか」

 そんな風にパート社員を気遣ってくれるは正社員は、近藤くらいだろう。前任者なら「その日、空いてるのが麻本さんしかいないんで」とか言って、お礼なんて口にしなかったはずだ。

「土日は両方ともサッカースクールに行っているので」

「本当にすいません、急に仕事を入れちゃって。じゃあ、シフトを書き直しておきますね」

 近藤は手刀を切って謝り、パソコンのほうへ向かった。その後姿に目をやったとき、ドキッとした。彼の首の裏側、うなじの部分にバーコードがあった。真弓は目が点になり、しばらく動けなかった。

「来週休みをとるのは、火曜日と水曜日でどうですか。この日はアルバイトも多いし、何とか回せそうなんですけど」

「……」

「麻本さん?」

 近藤が振り向いて、真弓のほうを見たので、慌てて、

「はっ、はい! 何ですか」

「いや、だから、代休の日は火曜日と水曜日でどうですか」

「はい、わかりました。それでお願いします」

 そう答えると、足早にテーブルのほうへ向かう。再び心臓の鼓動が激しくなった。



「グルグル、グルグル! ナルトじゃないの。グルグル、グルグル! かたつむりでもないの」

 風呂場から拓斗の歌声が聞こえてくる。最近流行っているお笑い芸人の歌を楽しそうに歌っている。

 真弓はノートパソコンで調べごとをしていた。

「人の顔」「バーコード」と入力し、検索。ネット上に出てくるのは、顔認証の新しいシステムやQRコードの話題ばかり。真弓の疑問を解決してくれる情報は何も見つからない。

『人の顔にバーコードが浮かんで見える』

 そう入力して再度検索するも、大した情報はヒットしない。自分の悩みや相談事を投稿する質問サイトにも、同じような相談は寄せられていないようだ。

「そりゃそうだよね」

 キーボードから手を離し、椅子の背もたれに寄りかかる。時刻は夜8時15分。夫は今日も残業。帰りは10時近くになると、さっきメールが来た。

 店に来た男性客と副店長の近藤に見えたバーコードは、その後、ほかの人に見えることはなかった。店から家に帰る途中、道を行き交う人たちの顔についつい視線が行ってしまったが、だれの顔にもバーコードはついていなかった。

 家に着いてから洗面所の鏡で、自分の顔も観察してみたものの、どこにも変化はない。念のため、合わせ鏡で首の裏側もチェックするが、何も見つからなかった。

 __________ やっぱり、単なる見間違い?

 それにしては、あまりにもはっきり見えたのだが。今目を閉じても、2人の男に刻まれていた文様が、瞼の裏側にはっきりと浮かび上がる。

 真弓は再びパソコンに向かい、『目の病気』と入力する。

 __________ もしかして、私の目に何か問題があるんじゃ……。

 しかし、人の顔にバーコードが見える症状など、どこのサイトをチェックしても見当たらない。眼病や幻視の症状にも目を通すが、真弓のケースとは全然違う。

 首をかしげて、再び椅子の背もたれに寄りかかる。

風呂場のドアが開く音がし、先ほどとは別の歌が聞こえてくる。

「にわとり? ちゃうちゃう! 白熊? ちゃうちゃう! 牛乳? ちゃうちゃう! 確かに白いけど~」

「たっくん! 歌ってもいいから、もうちょっと声を小さくして」

「は~い」

 真弓は小さくため息をついて、机から立ち上がり、チラッと時計を見る。まだ8時25分。

「たっくん。体拭いたら、ちょっと、こっちに来て」

「え~、なんで?」

「いいから、すぐ終わるから」

 1、2分ほどして息子がリビングに走ってくる。

「お母さん、何?」

「なんで、バスタオルを持ってくるの」

 苦笑いしながら、拓斗の手からタオルをとると、

「まだ髪が濡れてるじゃない」

 息子の髪を拭きながら、彼の顔を観察する。丸いほっぺは自分に似ており、薄い唇は夫にそっくり。

 __________ぱっちりとして二重瞼は、だれに似たんだろう? 私もあの人も一重なのに。

 そんなことを考えながら息子の顔をチェックする。どこにもバーコードは見当たらない。

「ほら、後ろも」

 背中を向かせて、首の辺りを拭く。やはり何もなかった。

 _________考えすぎか。やっぱり単なる見間違いだったのかも。

 息子の髪から漂ってくるシャンプーの匂いが鼻をくすぐった。



 __________あれはきっと気のせい。明日になれば、あんなまぼろしを見ることはもうなくなっている。

 自分の心の中で、そう決着をつけて眠りについた。

翌日、その願いはあっさりと打ち砕かれる。

「おはよう」

「おはよう」

「おはようございます」

「あっ、麻本さん、おはよう。___________どうしたの? なんか顔色が悪いけど」

「ううん、別に。なんでもない」

 そう言って、パート仲間から目を逸らす。彼女の左の頬には、バーコードがクッキリと印字されている。

 真弓は、自分の隣のロッカーで制服に着替えている女性のほうにチラッと目をやる。彼女は顔の右側面、右耳のすぐ近くにバーコードがあった。

 その二人だけじゃない。どの社員にも顔や首のどこかしらにバーコードがある。正社員も、パートも、アルバイトも、シルバー社員も……。少なくとも真弓の目にはそう映るのだ。

 ___________ この人にはない。

 一瞬そう思っても、前髪で隠れていたり、髪を結ぶときに首筋から見えたり。突然の変化に、頭が追いついていかなかった。しかし、

「ほかの人の顔にバーコードが見えて、気分が悪いので、早退させてください」

 こんな意味不明な理由で早退できるはずもなく、決められたレジにつく。

 店が開店し、お客が入ってくると、心拍数がさらに跳ね上がった。

 来る客、来る客、全員にバーコードがついている。杖をついた老婦人、頭の薄くなった中年男性、派手な化粧をした20代の女性、ベビーカーを押すショートカットの女性、その中でスヤスヤと眠る赤ん坊。いずれの顔にも、バーコードが印字されている。

「いっ、いらっしゃいませ!」

 平静を装い、いつも通りレジを打とうとする。でも動揺は抑えきれない。お客が来ると、つい目でバーコードを探してしまう。

 この人はおでこ。

 この人は右の頬。

 この人はあご。

 この人は喉仏の少し左。

 あっ、この人にはない!

 そう思ったのもつかの間、財布を開く手を見て体が震える。右の手の甲にバーコードが印字されている。

「カードでもいいかしら」

「はっ、はい」

 慌てて手を差し出すも、思わずカードを落としてしまう。

「失礼しました!」

 ____________落ち着いて、落ち着いて。

 必死の形相でレジ操作を行う真弓を、お客たちは怪訝な表情で見つめている。さほど客が多い時間帯でもないのに、自分のレジのところだけ列ができていく。

「お待ちのお客さま、3番レジも空いておりますので、こちらへどうぞ」

 別のレジの担当者がそう声をかけ、後ろに並ぶ客を引き取る。

 ___________早くしないと。

 焦れば焦るほど、つまらないミスが続き、客の舌打ちが聞こえてくる。すべてのバーコードが、自分を監視しているようだった。



「はぁ~」

 真弓はお昼休憩の時間帯、休憩室には行かず、トイレの個室にこもっていた。

「なんなの、本当に。だって、ほかの人には見えてないわけでしょ」

 便座に腰掛けながら、一人でブツブツとつぶやく。結局、午前中に来た客は皆、顔や首、手などにバーコードが印字されていた。それなのに、ほかのレジ担当者は無反応。驚いた様子を見せる客も、一人たりともいなかった。

 真弓は個室のドアを小さく開け、誰もトイレに入ってきていないのを確認してから、鏡の前に立つ。顔を近づけ、まじまじと見つめる。相変らず、自分の顔にバーコードはない。両方の手の平と甲、首を確認するも、何も変化なし。

 今度はさらに顔を鏡に近づけ、両目の眼球を確認する。少し充血しているくらいで、目立った変化はない。

 __________ 何なんだろう、心理的な問題なのかしら。

 考えても考えても答えは出ない。午後の仕事が始まる午後1時が近づいてきていた。鏡から目を逸らし、小さくため息をつく。

 _________ もう行かないと。

 憂鬱な気分で女子トイレから出ると、

「あっと」

「すいません!」

「いえ、大丈夫です」

 ドアの前で客とぶつかりそうになった。真弓は頭を下げて謝るも、相手の女性は特に気にしてはおらず、笑顔を返す。彼女は右眉の上にバーコードがあった。

 午前中にバーコードを見すぎたせいか、さすがに午後は少しずつ慣れてきた。

「89円が1点、456円が2割引きで……」

 夕方の時刻から店が混み合ってきたものの、それほどレジに長い列をつくることなく仕事を進められた。無心でスキャナーを当てていく。

 ___________気にしない、気にしない、客の顔なんか気にしない。

 頭の中でそう唱えながら、仕事に没頭。自分の勤務が終わる夕方5時が近づいてきていた。

「はいよ。じゃあ、おねがい」

 くたびれたジャンパーを着た中年の男がレジに来たのは、4時50分頃。男は買い物カゴを使わず、手で品物を持ってきていた。おにぎりが2つと魚肉ソーセージ、チーズ、缶チューハイ。

「134円が1点、138円が1点……」

 スキャナーを当てながら金額を読み上げていくが、不意に男が、

「ごめん、やっぱりチーズはいらねえや」

商品を手でどけようとした。しかし、真弓はすでにスキャナーを商品に近づけており……、

 ピッ!

 _________えっ!

 小さな電子音が耳の奥で響いた。反射的に画面を見ると、

『3089円』

という数字が表示されている。この客の商品の値段ではない。合計金額でもない、こんな大きな金額にはならないはずだ。

 _________ じゃあ、この金額は……

「なあ、ねえちゃん。聞いてる? これはいらねえから、ちゃんと引いてね」

「あっ、はい。わかりました」

 慌てて頷き、

「じゃあ、合計金額は……」

 視線を画面に戻すと、さっきの数字は消えていた。

「680円です」

「あいよ~」

 男は擦り切れた財布からお金を取り出す。真弓の視線は自ずと、男の右手の甲に印字されたバーコードに向く。

 この出来事が起きたのが、終業まで残り時間わずかなときでよかった。もし、午後の早い時間だったなら、また長い列をつくってしまっていただろう。



 時計の針は夜2時を過ぎようとしていた。真弓の隣で、夫と拓斗は気持ち良さそうに寝ている。その表情はそっくりだ。

 2人を起こさないように注意しながら寝室を出る。

 ダイニングの電気を点け、意味もなくテーブルの周囲をウロウロする。テレビのリモコンを取って、チャンネルをつける。寝室の2人に気づかれぬよう、音量を小さくして。

 焦げつきにくいフライパンを販売するネットショッピング。

 同じような顔をした10代の女の子たちがゲームに興じているバラエティ番組。

 今日放送する新ドラマの告知。

 どのチャンネルを点けても、くだらない番組しかやっていない。

「はぁ~」

 ため息をついて、テレビを消す。

 周囲の人間にある「バーコード」。それが見えることに畏怖の念を抱いていた。その一方で、頭の片隅ではずっと別のことが気になっていた。

 _________ あれは何を表しているんだろう。

 その答えが今日、わかったような気がした。

『3089円』

 今もはっきりと目に焼きついている、一の位までしっかりと。

 ________ 私の見間違いかもしれない……。

 そんな考えが一瞬浮かんでも、数秒も経たないうちに消えてしまう。それよりもっと確信に近い推測が頭の中でまとまりつつあった。

 _______ レジのスキャナーを使って、その人の「バーコード」を読み取れば、、その人の「値段」がわかる。店の商品と同じように……。

 しかしその考えもまた、完全には固まり切らない。結局一人しか読み取っていないからだ。

 _______ ほかの人の「値段」もわかるのかしら?

 そんな考えが頭に浮かぶまで、そう多くの時間を要さなかった。

 _______ でも、今日みたいなことはできない。

 今日の出来事は偶然起きただけ。あんな風にスキャナーを客の手や顔に当てようものなら、いよいよ奇人・変人扱いされる。

 _______職場の人にだってそんなことできない。

 そう思いながらも、真弓の頭にはある方法が浮かんでいた。

 自分の肩越しに寝室のほうを見る。

「……」

 足音を立てずに寝室に近寄り、ドアを慎重に開ける。相変らず夫も息子も、口を開けて夢の中。

 ________ 私の悩みも知らないで。

 後ろ手で戸を閉め、仰向けで寝ている夫のそばに行き、膝をついて寝顔を覗きこむ。眉と眉の間、そこから1センチほど上にバーコードが印字されている。

「ただいま~」

 今日、夫が家に帰って来たとき、疲れた表情よりも、襟元が黒ずんでいるワイシャツよりも先に、そのバーコードが目に飛び込んできた。

 そして……。

 ピクリとも動かない夫を足でまたぐ。夫婦の布団の間で横になり、小さい毛布に包まっている息子・拓斗のもとに歩み寄る。仰向けになって、小さな寝息を立てている。ときどき、鼻の穴がピクピク動く。

 ________ どんな夢を見ているんだろう。

 息子の横で両膝を突き、右手で彼の顔をなでる。そのまま手を前髪の方へ上げていき、おでこをさらす。すべすべで皴一つない。そこに印字されているバーコード。暗闇の中で、なぜかはっきりと見えた。

 


 3日後の夜、夫と息子はまた気持ちよさそうに眠っている。彼らの寝つきのよさがうらやましかったが、今日はそれが幸いした。物音を立てぬように布団から起き上がり、寝室を出る。外ではまた雨が降り出したらしい。

 真弓は自分の服やバックが置いてある部屋に行き、そこから茶色のトートバックを取り出す。その中に手を伸ばし……。

 取り出したのは、バーコードを読み取るスキャナー。もちろん、普段レジで使われているものではない。それらは担当の正社員がいつも管理しているので、1つでもなくなればすぐにばれる。

 真弓は、倉庫の奥から予備のスキャナーを持ってきた。新しく入ったパートやアルバイトがレジ操作を練習するために、何台か置いてあるのだ。店内で使われているものほど厳重に管理はされていないため、持ち出すのはさほど難しくはなかった。

 ____________ こんなものを持ってきて、どうしようって言うの。

 レジスターの画面につながっていない、ただのスキャナー。これをバーコードに当てたところで何も起きない。金額も、商品名も表示されない。

___________普通なら、ね。

「ふぅ~」

 真弓は小さく息をついてから、右手にスキャナーを握って、夫の顔に近づけていく。と、

「んんぅ~~」

 小さな寝息に思わず体が強張る。夫じゃない。

 真弓は顔を上げて、真ん中の布団に視線を向ける。拓斗が何か寝言を言っている。顔は微かに笑っている。それも長くは続かず、また泥のように眠りこける。

 真弓は自分の後ろに隠していたスキャナーを取り出し、ゆっくりと夫の眉間に近づける。

 これを当てたら何が起きる?

 もし、あのおじさんと同じように金額が出たら?

 それはいくら? あのおじさんより上、下?

 夫のバーコードまであと数センチというところで手を止め、拓斗のほうを見る。

 あの子は? あの子は父親よりも……。

 右手が震える。スキャナーを両手で力いっぱい握り締める。そうしないと、床に落としてしまいそうだった。

 喉はカラカラ、水でも何でもいいから飲みたかった。

真弓はゆっくり、ゆっくり、慎重に手を伸ばす。スキャナーとバーコードの距離はもう10センチ、5センチ、3センチ……。

____________ 起きないで。

もうわずか1センチ。そして……、

 ピッ!

 暗闇の中で小さな電子音が響いた。



「麻本さん」

「……」

「麻本さん? 聞こえてます?」

「あっ、すいません。何ですか」

 真弓は社員に話しかけられて、慌てて気を取り戻す。

「今、お客さんがちょっと途切れたから、品出し手伝ってもらっていい? 洗剤売り場のところ」

「はい、わかりました」

 真弓は担当レジの電源を切り、洗剤売り場のほうに向かう。足元はフラフラとし、さっきからお腹の奥がギュルギュルと鳴っている。今朝は朝食がのどを通らなかった。

「食べないのか」

 コーヒーを飲みながら、のん気に尋ねてくる夫。

 __________だれのせいだと思っているの。

 その言葉が思わず口に出そうだったが、何とか飲み込んだ。昨晩、自分が見たことを言ったところで、信じてくれない。夫だけじゃない。周りの誰も、まともに取り合ってくれないだろう。

 __________でも、私は見た。たしかに見たの。

 うつろな目をしたまま、洗濯用洗剤が入ったダンボールの箱を開け、棚に入れていく。

 洗濯用洗剤「レシーブ」 1・0kg 280円、

 衣料用液体洗剤「ホワイト きほんのき」 800g 130円。

 柔軟剤 詰め替え用「パーフェクトフラワー」 360g 300円。

 __________300円?

 思わず、その洗剤を手にとってしまう。同時に昨晩の光景が浮かび上がる。

『ピッ』

 電子音が鳴り響くと同時に、夫のおでこに刻まれたバーコードのすぐ上に数字が浮かび上がってきた。

『3000円』

 その数字を目にした瞬間、息が止まった。この前、スーパーで偶然「値段」を知った中年男よりも低い。

 _________うそでしょ……。

 震える手で、もう一度スキャナーを当てる。

 ピッ。

 もう一度。

 ピッ。

 さらにもう一度。

 ピッ。

 結果はすべて同じ。同一の金額が夫のおでこに浮かび上がってくる。

 _________これがこの人の値段。あんな、ヨレヨレのジャンバーを着たおっさんよりも安い値段。

 呆然とした表情のまま固まっていた真弓。すぐそばで口を開けて寝ている夫。その姿が脳裏に蘇ってくる。

 今手にしている1つ300円の柔軟剤。夫はこれ10個と等しい値段。

 _________じゃあ、あの子は? 拓斗は一体、いくらなの?

 その疑問は昨晩も当然浮かんできたが、とてもじゃないが、試す勇気はなかった。

 _________あの子の値段が夫よりもさらに安かったら……。

 そう考えるだけで恐ろしい。その疑念を振り払うように必死で品出しをしていると、

「麻本さん」

 副店長の近藤が声をかけてきた。

「あの、来月の勤務時間はいつも通りで問題ないですか」

「はい、大丈夫です」

「わかりました。新しいシフトを掲示板に貼っておくので見ておいてください」

 笑顔でそう言うと、近藤は足早に別の売り場で向かう。相変らず、彼の首の後ろにはバーコードが印字されている。あそこにスキャナーを当てたら、どれぐらいの金額が表示されるのか。夫より若く、会社からも将来を期待されているホープ。やはり、夫より高い金額が出るのだろうか。

 _________調べてみたい。

 近藤の背中をジッと見つめながら、そんな衝動に駆られていた。



 夕食後、洗面所で歯を磨いていると、

「ねえ、お母さん、ねえ、ねえ」

 拓斗が足に絡み付いている。彼の顔をあまり見たくなかった。前髪の隙間から垣間見えるバーコードにどうしても目が行ってしまう。

「何?」

 鏡を向いたまま、低い声で答える。ここ数日の間で、顔のしわが増えた気がする。

「“激走”買って!」

「何それ?」

「靴、スポーツシューズ。それを履くと、足が速くなるの。次のリレー大会はそれで出たいの」

「え~、春に買ったばっかりじゃない。あれで十分でしょ?」

「あの靴じゃ速くなんない。“激走”は反発力が全然違うの。ねえ、買って」

「ちょっと待って。後にして。考えておくから」

「本当? 絶対だからね」

「はいはい。ほら、もうすぐアニメが始まるよ」

「あっ、やばい」

 拓斗をリビングに追い払ってから、鏡に顔を近づける。目がどんよりとして、化粧ののりも悪い。イライラしながら口の中に水を含み、うがいをした瞬間、

「つっ!」

 奥歯に突き刺すような痛みが刺す。

 _______虫歯?

 真弓は口を開け、奥歯の様子を鏡で確認しようとした。そのとき、

「えっ」

思わず声をあげ、鏡から後ずさる。右手が口元を覆っていた。

 _______今のって……。うそ? 影の具合じゃなくて?

「はははっ」

 リビングから拓斗の笑い声が聞こえてくる。

 強ばった表情で目を見開く自分が鏡に映っている。

 どれくらいその場に立ち尽くしていただろうか。歯の痛みはどこかに消えてしまった。

 _______そんなのはどうでもいい。それよりも……。

 小さく深呼吸を繰り返してから、恐る恐る鏡に近づく。細くて印象の薄い目。丸い頬、尖った鼻、白い肌にはシミが点在している。代わり映えしない自分の顔。多少顔色が悪いとはいえ、いつもと変わらない自分の顔だ。

 _______でも……。

 洗面台に手をかけ、さらに顔を近づける。そうすると、おでこや頬に刻まれた皺がより鮮明になる。だが、そんなことを気にしている余裕はなかった。ひざが震え、冷たい汗が背中を伝う。

 真弓は口を真一文字に結んだまま、鏡の前に晒し出す。

 _______やっぱり。

 腹の奥から逆流する胃液を押さえつけながら、下唇を隠すようにして、ゆっくりと舌を出す。薄汚れたピンク色の舌ベロ。その中央にバーコードが印字されている。

「……」

 真弓の視界にはもう、自分の顔も、皺も、歯も入っていない。あるのは黒い縦縞だけ。バーコードが視界を覆い尽くしていく。

 ピッ!

 鼓膜の奥で電子音が響いた。

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