ニート君とOLさん

織江 莉央

ニート君とOLさん

 片倉あずさは鏡の前で口紅を引くと、ベッドで眠る恋人に声を掛けた。

「浩太、行ってくるね」

「んー。もう朝?」

「そうだよ」

浩太は眠たい目を擦って起き上がった。

「……あずさ、こっち来て」

「え、もう行かないと電車が」

「良いから」

「もう」

あずさは呆れながら、ベッドに近づいた。

「何……きゃあ!」

ベッドに近づくと浩太はあずさの腕を引っ張り、抱きしめた。

「ちょっと!?」

「こうしないと起きれない」

「何言ってるの。自力で起きなさい、ニートくん」

「厳しいなあ、あずさは」

「厳しくないよ。行ってくるね」

「いってらっしゃい。気をつけてね」

「うん」

そう言って、浩太をギュッと抱きしめた。浩太の抱きしめる手が離れると、あずさは鞄を手に持ち、寝室を後にした。


 浩太は大学の1年後輩で、サークルで知り合った。歓迎会ですぐに仲良くなり、知り合って半年もしないうちに付き合い始めた。大学卒業後、あずさは大手企業の事務職に、その1年後に浩太はメーカー会社の営業職に就職した。浩太が大学卒業したのと同時に同棲を始めた。お互い給料は少なかったが、幸せな生活を送っていた。ところが半年前、浩太は突然、会社を辞めてしまった。理由は「上司ともめた」の一言だけ。恋人でも干渉してはいけないと思い、それ以上追及することはなかった。それから短期のアルバイトをいくつかやってきたが、現在は働かず、ニートでいる。


「それはどうかと思うよ」

同じ部署で同期の美里はコンビニで買ったパスタをフォークで巻きながら言った。昼休み、2人はオフィス街を望める食堂で昼食を取っていた。

「でも、家事やってくれるからすごい助かっているよ」

「そうだけどさ、働いてないんでしょう? お金とかってどうなってるの?」

「バイトしているときはお金入れてくれるけど、そうじゃないときは入らないよ」

「え、じゃあ、今はあずさの給料で生活しているってこと?」

「そうだね」

あずさはそう言って、浩太が作った弁当を食べた。今日はあずさが好きな醤油で味付けしたウズラの卵があった。

「ちょっとそれはどうなの? 彼女の稼ぎで生活するって。男としてどうなのって思わない?」

「んー、別に。ちょっと生活はきついけど、節約すればなんとかなっているし」

「探しているの?」

「探していると思うけど」

「ねえ、仕事する気ないんじゃないの?」

「え?」

里美の言葉に箸で掴んだウズラの卵が滑り落ちそうになった。

「あり得るよ。あずさが怒らないから大丈夫だろうと家でゴロゴロしているんだよ」

「いやいや。この前、“あずさには申し訳ないと思っている。一日でも早く仕事見つけて、あずさを楽にしてやるから”って言ってたよ」

「それは口だけだよ。将来、結婚して、自分は専業主夫になろうと企んで、ああ言っているんだよ」

「専業主夫?」

「そうよ。この前テレビで、どこかの男子大学生が今は女性も社会で働いているから、自分は専業主夫になって楽するって、馬鹿げたことを言ってたよ」

「そ、そうなの」

「良い? そんな奴とは別れて家から追い出さないと、あずさが損するだけよ。そんで、ちゃんと働いている高収入男を捕まえて、私たちが専業主婦になるのよ」

「えー、今の時代、専業主婦になるなんて難しくない?」

「なんのためにこの会社に入ったのよ!」

「いや寿退社するために会社に入ったんじゃないよ」

あずさはそう言って、紙コップに入ったお茶を飲み干した。


 残業を終えて退社したときは20時を回っていた。最寄り駅に降りると、すぐ近くのコンビニエンスストアに寄った。ホームで電車を待っているとき、浩太から牛乳買い忘れたから帰りに買ってきて、とおつかいメールがきた。店に入り、頼まれた牛乳を買うと出入口の近くにある、求人誌のフリーペーパーが目に留まった。今日、昼休みに里美が話していたことを思い出す。節約すればなんとかなるとは言ったが、本当のことを言うと少し苦しい。それに短期のアルバイトが終わると、家に求人誌のフリーペーパーが置いてあるのを見かけるが、今はそんなものが家のどこにもなかった。浩太、どうするつもりなのかな。あずさは不安を感じながら、求人誌を1冊取って店を出た。


「ただいま」

「おかえり」

玄関でパンプスを脱いでいるとリビングから浩太がやってきた。まるでご主人が帰ってきて喜ぶ犬のようだ。パンプスを脱ぎ終わるのと同時に浩太はギュッとあずさを抱きしめてきた。

「苦しい」

「こうしないとホッとしないの」

「長期間、家を空けてたわけじゃないのに。牛乳、買ってきたよ」

「ありがとう」

浩太は牛乳が入ったビニール袋を受け取った。

「今日のご飯、あずさが大好きなオムライスだよ」

「やった! 嬉しい」

「早く着替えてきて」

浩太はそう言ってニコニコしながらキッチンに戻ってしまった。


「どーぞ」

着替えを終えてリビングに行くと、ローテーブルの上にはコンソメスープとサラダ、そして黄金のように輝くオムライスがそれぞれ2皿ずつ並べられていた。席に着くと目の前にあるオムライスには真っ赤なケチャップでハートマークが描かれていた。浩太はオムライスのときはこうしてケチャップで何か描いているのだ。これも専業主夫になるための作戦なのだろうか。

「どうしたの?」

「ううん、なんでもない。いただきます」

あずさはそう言って、ハートマークにスプーンを入れた。


 寝る前に浩太が今日スーパーで買ったものが印字されたレシートをもらい、家計簿をつけているとため息がこぼれてしまった。

「厳しいなあ」

また今月もギリギリになりそうだ。給料が入るまでまだ数日ある。もしダメなら貯金をおろさないといけない。ここ数ヶ月、残業続きでその分の手当は入るので、なんとかなっていた。浩太が働いていたときはそんなにきつくなかったのに。すると、里美の言葉が頭の中でよみがえる。

――そんな奴とは別れて家から追い出さないと、あずさが損するだけよ。

「どうしよう」

「何が?」

あずさの独り言に反応して、浩太があずさの隣に座った。

「え。あー、今月ちょっと厳しいなあって」

「マジで。特売日狙って買っているんだけど」

それはそれで食費や生活用品費は少し抑えているが、電気代が一番掛かっているのだ。原因は、浩太が使うパソコンやゲーム機の使う頻度が、バイトが終わってから高くなっているのだ。時間があるからと言って、少し抑えても良いんじゃないかと思う。

「もっと安いところ探さないとな」

「そうだね」

そう思っても言えず、あずさは家計簿を閉じた。

「ねえ、あずさ。明日は早く帰ってこれる?」

「明日?」

「明日はプレミアムフライデーだよ」

今年の2月から月末の金曜日は少し早めに退社して買い物や旅行、飲みに行くなど有意義な時間を過ごす、プレミアムフライデーが始まった。あずさの会社でも積極的に休暇を取るようにと社内回覧が回ってきた。

「もう月末なんだ」

「で、明日の夜、お花見しない? 早めに行って、明るいうちにお酒飲みながら桜見よう。場所取りとご飯の用意はオレがやっておくからさ」

毎年、2人で見に行くが、場所取りしてお酒やご飯食べながら見るのは大学のサークル以来だ。良いとは思うけど……。

「明日は年度末だし、休暇取れないかも」

「そうなの」

「また別の日に行こう。ごめんね」

「うん」

浩太は拗ねた子供みたいに顔を俯かせた。

「明日はダメでも明後日とかどう? 休日だし」

「休日になると一日中寝てるじゃん」

確かに平日は残業の毎日。せめて休日は平日に取れない睡眠を取りたい。

「平日は残業の毎日でクタクタだから休日は休みたいの」

「じゃあ、残業減らせないの?」

「今は年度末で忙しいからそうはいかないの」

「年度末だろうが、去年からずっとそうじゃん。定時で帰ってくるなんて去年は数回ぐらいだよ」

「仕方ないじゃない。今の生活、苦しいの」

「そうなの?」

「そうよ。浩太がニートの間なんてそうよ」

「それは悪いと思ってる。できるだけ早く見つけて働くから」

「それ何回も聞いた。そう言って、短期バイトばっかりじゃない」

「正社員探しているとき、長期のバイトだと難しいんだよ」

「そんなの知らない! というか、家で求人誌広げているところ見ないけど、探す気あるの?」

あずさは近くにあった鞄からコンビニでもらった求人誌を出して、浩太の胸に押しつけた。

「見つけないと、家から追い出すからね」

そう言い残して寝室に行き、ベッドの中に入った。


 翌朝。目を覚ますと、いつも隣で寝ているはずの浩太の姿がなかった。リビングに行くと、浩太はソファーで寝ていた。寝室からブランケットを持って来て、浩太に掛けてあげると、あずさは大きな音を立てないように朝の支度をして、何も言わず家を出た。


 今日が年度末だろうか、会社は朝から慌ただしかった。午前中があっという間に終わり、昼休みになっていた。食堂で里美に昨夜のことを話すと、

「それぐらい言わないと気づかないから、良いんだよそれで」

と腕を組んで頷いた。それで真剣に職探ししてくれれば良いが、本当に出て行ったらどうしよう。それに今朝は声を掛けずに出掛けたから、帰るのが億劫だ。でも、今日も残業だ。わざと帰るのを遅くして、そのままベッドに直行すれば、気まずくならないはず。そう考えながら、浩太が前日に作ってくれた弁当を食べた。


 意図的に遅くまで仕事しなくても、年度末がたくさんの仕事をくれて、いつもより遅い時間に退社した。会社を出て駅に向かう途中、繁華街を通るとプレミアムフライデー限定のサービスが書かれた看板が目に留まる。夕方から飲んでいるだろうか。次のお店どこにしようか話し合うスーツ姿の男女のグループがいくつかいた。もし早めに退社ができたら、浩太と夜桜見に少し遠くに行けたかもしれない。今、浩太は何しているんだろう。本当に出て行ったりして……。

「そうだったらどうしよう」

浩太の所在が気になり、急いで駅に向かった。


「ただいま」

鍵を開けて入ると、部屋は静かだった。

「浩太?」

明かりが点くリビングに向かって呼んでみるが返事はなかった。

「浩太、いる?」

「いるよ」

「うわぁぁあ!」

突然、後ろから声を掛けられ振り向くと、そこには浩太がいた。

「びっくりした」

「それはこっちのセリフ。今日遅くなるって言ってたから、駅まで迎えに行こうと思ったけど、すれ違ったね」

ハハハと浩太は笑った。

「お帰り、あずさ」

それを聞いた直後、急に安心してしまい、あずさは浩太をギュッと抱きしめていた。

「ど、どうした?」

「……お帰り」

「え、ああ、ただいま」

「出て行ってなくて良かった」

「え、何が?」

「ううん、何でもない」

「まあ、とりあえず靴脱いで上がって。あずさに見せたいものがあるんだ」

「何?」

「良いから、良いから」

そう言われるがまま、リビングに向かった。


「どうぞ」

「え!」

リビングに入ると、そこは桜色であふれていた。天井から桜色のフラワーペーパーで作った花が吊るされ、ソファーにはピンクのブランケットが敷かれ、ピンクのクッションがいくつか置いてあった。ローテーブルには桜の造花が花瓶に挿されて置いてあった。

「すごい」

「この前、朝のテレビで、家でお花見を楽しむ『エア花見』が流行るんじゃないかって、言ってたんだ」

「へえー」

「で、テレビを点けると……ホラ」

テレビの電源が入ると、そこには桜の映像が流れていた。

「これって」

「今日、公園に行って撮ってきた。結構、咲いていたよ」

「すごい」

あずさはテレビの前に来て、じーっと見た。

「それと新しいバイト、決まった」

「え、決まったの!」

「来週から。そんで、そのバイト先が頑張り次第で正社員にしてくれるって」

「そうなの。どこ?」

「駅前の洋食屋。キッチンで働くんだ」

「料理作るの?」

「そう。前からやってみたかったんだ」

「浩太、料理得意だから向いてるね。私、浩太の作るオムライス、すっごく好きよ」

「ありがと。だから、家から追い出さないでください」

そう言って浩太は腰を直角に曲げて頭を下げてきた。

「え、ちょっとやめてよ。私も昨日は言い過ぎた。ごめんね」

「いや、オレがダラダラしていたから、あずさがボロボロになってたんだろ?」

「ボロボロだなんて、そこまでなってないよ。浩太が毎日、家事全般やってくれて、すごい助かっているよ。ホント、ありがとうございます」

そう言って浩太に頭を下げた。

「いえ、こちらこそ。ありがとうございます」

浩太も下げた頭を上げて、また下げた。

「ご飯食べない? 冷蔵庫に冷えたビールがあるよ」

「ビール! まだ今年入って、一口も飲んでないんだ」

「着替えてきな。今日はあずさが好きなものいっぱい作ってあるから」

「うん。ありがとう」

あずさは寝室に行き、部屋着に着替え始めると、キッチンから楽しそうに夕飯の準備をしている音が聞こえてきた。

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