私欲の為に育った子は

月夜 裏兎

私欲の為に育った子は

 お父さんのお使いで、街に来ていた。


 お父さんは仕事の都合上、部屋から出てくることが少ない。だから、子供である僕が、お父さんの食事を買っていく。


 お姉ちゃんに教えられた、栄養価の高い食べ物を次々と籠に入れていく。僕は文字が読めないから、なぜこれを買っているのか、根本的な意味では分かっていない。でもお父さんに尽くしたい気持ちは同じだから、何も考えずに黙々と放り込んでいく。


 家の近くの、小さなスーパー。ごっそりと食料の入った買い物袋をゆらゆらしながら運ぶ。何度も転びそうになりながら、少しずつ家へと向かう。


 ふと――


 窓を開けっぱなしだったラーメン屋の隣を通った。


 そして、天井から下がったテレビから、ひとつのニュースが流れた。


「次のニュースです。昨日未明、10歳の柴田しばた よんちゃんが自動車に轢かれ意識不明の重体、病院で死亡が確認されました。」


 僕は足を止め、黙ってそのニュースを見た。


「運転手は“急に女の子が飛び出してきた”と供述しており、四ちゃんの父は“慰謝料2千万円を請求する”としました。」


 僕は袋を落とし、その場で膝をついた。


「――お姉ちゃん……」


 僕の頬を、一粒の涙が伝った。






――――――――――






「ただいま、お父さん」


 涙を拭き、袋を担いで玄関に上がる。


 お父さんは部屋に居なかった。普段は地下室で仕事をしている。僕は袋を机に上げ、地下室へと続く階段を降りていった。


 やはり、地下室の奥まった所にお父さんは居るようだった。何やら書類を書いているが、それが何かは知る術もない。


「お父さん、ただいま」


 するとお父さんは、ゆっくりと笑顔で振り向いた。


「……おかえり、ろく


 よわい四十にしてはしわの多い顔、眼鏡の奥から発せられる優しい眼光が懐かしく、僕はどうしても涙が堪えられなくなった。


「どうしたんだい、六」


 お父さんが手を広げてこちらを向く。その愛情に逆らうことなど出来ようはずもなく、僕はお父さんの胸に顔を押し付けた。


「お父さんっ……お姉ちゃんが……四お姉ちゃんがぁ……」


 嗚咽混じりに呟く。するとお父さんは静かに微笑み、言った。


「知っていたのかい。そう、四は、死んでしまったんだよ」


「もう、四お姉ちゃんに会えないの……?やだよ、そんなの!」


「違うよ、もう会えないわけじゃない」


 僕の顔を身体から離し、僕の両目を見てお父さんは断言した。


「六はもう今年で8歳だ。あと2年後に、お前はお姉ちゃんに会える」


 それがどういう事か、その時の僕には分からなかった。しかし、“お姉ちゃんに会える”という言葉で、僕の肩の重さは吹き飛んだ。


「ほんと……?」


「ああ、本当さ。今日はもうお休み。お使い、ご苦労だったね。」






――――――――――






 そんな会話をしてから、もう2年が経つ。


 僕にとっては、この年が楽しみで仕方なかった。なぜなら、居なくなってしまったお姉ちゃんにもう一度会える年なのだから。


 学校に通わず、父の言うことだけを知識として育ってきた。だから、2年前の“お姉ちゃんに会える”の本当の意味が、六はあまり良く分かっていなかった。


 誕生日を迎え、晴れて10歳となった六。いつも通りの買い物を終え、地下室に駆け込む。


「お父さん、お父さん!」


 転ぶ寸前の前傾姿勢のまま、僕はお父さんに話しかけた。


「やぁ、六、誕生日おめでとう」


 そのお父さんの顔は、とても嬉しそうだった。


「えへへ、ありがとう!ねぇ、憶えてる?2年前の約束!」


「覚えているとも。お姉ちゃんに会いたいんだもんな」


「うん!今日、会えるのかな?ねぇ?」


「そんなに会いたいのかい。そうだねぇ……もうほとぼりも冷めてきた頃だ、今日にしようか。」


 僕は嬉しくなってお父さんの肩を叩き、二人で外に出かけた。思えば、お父さんが外に出る所を見るのは、物心ついて初めてのことだった。






――――――――――






 到着したのは、薄暗い路地裏だ。


 車が行き交う道路の裏。人なんて通るはずもない。実際その辺りにはゴミや動物の糞が散らかっており、ここが人間社会とは切り離された場所だということを思わせる。


 こんな所で何をするのだろうと、どうすればお姉ちゃんに会えるのだろうと、僕はわくわくしながら隣のお父さんに視線を投げかけた。


 お父さんは、2年前と全く同じ、優しい微笑みを浮かべながら一言、ぽつりと呟いた。


「あっちへ、まっすぐ走りなさい」


 指さしたのは、車が行き交う道路、その先だ。全ての通る車は、飛び出す子供を視認してからのブレーキでは到底止まれるはずもない速さだった。


 僕は、脚が震えるのを意識しながら、お父さんに問いかけた。


「でも、あそこに行ったら、車にぶつかっちゃうよ?」


「いいんだよ、それで。お前は、車に轢かれる事で、お姉ちゃんに会えるんだ」


 車に轢かれる。それが何を意味するか、六は2年前に知っていた。それは唯一、父親が六に教えていない、六が知っていることだった。


 脚の震えが強くなる。息が荒くなる。お父さんの影に埋もれ、人との関わりを最大限まで削られた彼がほとんど味わったことのない感情、つまり、純粋な死への恐怖が、六の身体中に纏わりついた。


 六が知るはずもないことだが、今は亡き四は死というものを知らなかった。車に轢かれると兄弟に会える、今よりもっと幸せになれるという父の言葉を疑いもなく信じ、車通りの多い道路へ走り出したのだった。


 死というものが具体的に何を指すのか、六は知らなかった。しかしその存在を知った以上、それは容易に受け入れられる出来事ではなかった。彼にとっての、死という概念は、それほどまでに絶対的なものだった。


「……ゃだ」


 六の異変に気付き、お父さんが顔をしかめた。


「どうしたんだい、六」


「……いやだ、死にたくない!」


 はっきりと言葉に出した。それは周辺に響き渡り、消えた。


 お父さんは驚き、周囲を見渡して異変がないことを確認して、僕に詰め寄った。


「大きな声を出しちゃだめだろう、六。ほら、早く行くんだ」


「いやだ。行きたく――」


「行きなさい」


 抑制された、純粋な怒りが籠った言葉が、六に向かって放たれた。


 怒りという感情を父から向けられたのは、六は生まれて初めてだった。お父さんには絶対に逆らってはならない。六の頭に、そういう思考がぎる。10年間の親子関係、いや主従関係で築かれた、無意識内の六の脳内の最優先項目だった。


 だからと言って、死を易々と選ぶことなど、死を少しだけしか知らない六には出来なかった。


「いやだっ!!」


 僕は大きく息を吸い、恐怖を呑み込んで続けた。


「僕は死にたくない!お姉ちゃんの所へは、まだ行きたくないんだ!これからも、ずっと生きて――」


 眉間に皺を寄せた顔で僕の言葉を聞いていたお父さんが、僕の言葉が終わる前に、僕の首に手を掛け、そのまま近くの壁に打ち付けた。


 首を絞められた状態で頭を強打し、思考が一瞬途切れた。目の前には、憤怒の表情を浮かべたお父さんが居た。


「お前は俺の子供のくせに、何生意気なことを口走っている!!」


 いつも冷静で、微笑んでいたお父さんは唾をまき散らし、僕を絞める手に更に力を入れた。


「お前らは何も考えず、ただ俺の言う事を聞いていればいい!お前らが俺に意見するなど……絶対に許されることではない!!」


 霞む視界の奥にあるお父さんの顔を見つめ、誰も知らない自分だけが知るお父さんの素顔があると認識して、嬉しくなった。例え本性がどうあろうと、彼は六にとっての、唯一無二の父親なのだ。


 自身の首を絞める手に右手を乗せ、手首を握る。


「僕に…とっての、お父さんは……あなた、だけ……!それは、いつまでも…変わら…ない、から!」


 そして僕は、思い切りお父さんの腕に爪を立てた。勢いよく、握りしめるように力を込める。


「ぎゃぁっ!?」


 爪を切るということをあまりしなかった六の爪は容易に父の腕を抉り、出血させた。力の抜けた腕を振りほどき、喉を押さえながら立ち上がる。


 四つの傷跡の出来た右腕を抑えるお父さんを見下ろしながら、塞がった気道を咳で開き、大きく息を吸った。


「わああああぁぁぁぁぁぁッ!!!」


 人生最後と覚悟を決めた、人間の出し得る最大音量の叫びが、路地裏を通り越して街全体に響き渡る。たちまちその叫びを聞いた近くの人が路地裏に駆け込んでくる。


 父が教えておらず、六が知っていることはもう一つだけあった。四の死を告げるニュースの、次に流れたニュースだ。


 小学生がとある強盗犯に拉致されたが、その学生が防犯ブザーを鳴らし、それを聞いた警察が駆けつけ救助されたというニュースだった。六はその前のニュースの衝撃のあまり聞き流していたが、絶体絶命の状況で、突然頭に浮かんできたのだった。


 “悪い人に捕まったら、大きな音を出しましょう。”


 お父さんが起き上がり、僕に掴みかかった。自分を遠目に見ている人たちに気づいていないのか、僕を思い切り殴りつけた。周囲から悲鳴が巻き起こる。2発目が振り下ろされる直前、青い服を着た男性が二人、お父さんの腕を抑えた。そのまま、男たちは尚も喚き散らす父を白い車に乗せた。


 僕は、その車の上で回っている赤い光を見つめながら、意識を失った――






――――――――――






 本当に、これで良かったのだろうか。


 ふと、そう思う時がある。


 その後俺は病院に搬送された。入院後すぐに意識を取り戻し、怪我の治療とカウンセリングを行った。怪我は軽傷だったものの、精神面は相当重大なものとみなされ、治療には困難を極めたそうだ。


 父はその後逮捕され、懲役30年という刑が下された。俺の《六》という名前が示す通り、その前に5つの命が失われたことは、警察も気づかなかったそうだ。俺も敢えてそれを言おうとはしなかった。


 父は慰謝料目当てで、子供を車で轢かせていたそうだ。10の年になると子供を言葉巧みに操り、車道に飛び出させる。子供が轢かれる瞬間の悲鳴が好きだったとも言っていた。


 世間は無期懲役、または死刑にすべきだという意見が多く挙がった。しかし、俺は彼の処遇を極力抑えてくれと頼んだ。結果、無期懲役となるはずだった父は懲役30年の刑を受けた。


 俺にとっては、彼は父親だ。その事実は変わりなく、それがどんな形だったにせよ幸せな時間があった事は確かなのだから。俺は彼を見捨てることなど、出来なかったのだ。




 ――その事件から、もう8年が経つ。


 13歳から教育を受けはじめ、今は中学の分野を勉強中だ。同年齢の高校3年生の領域には現在手も足も出ないが、いずれ追い付ける時が来るだろう。


 頬には最後殴られた後のあざが残り、首には絞めつけられた痕が残っている。しかしそれも、俺は父の愛情の一つだったのではないかと、この頃思うようになってきている。


 そんなことを思う俺は、どこかおかしいのだろう。


 でも、俺にとっての父、俺にとっての家族はあの人で、10年間俺を育ててくれたのだから、敬意を示すのは当たり前だろう。




 ――本当にこれで、良かったのだろうか。


 もう一度、そう思う。


 あの時、俺の名前の由来を警察に教えていれば。あの時、父の判決を最小限に抑えて貰うよう言わなければ。父との縁は完全に切れ、もっと新しい人生を歩めたのではないだろうか。


 しかし、俺はこれでいいと思っている。


 だって、俺の目に映る空は、こんなにも青く、綺麗なのだから。


《柴田家》と彫られた墓に花を飾り、手を合わせる。四姉ちゃんに、また会おうねと、いつか、ずっとずっと後になったら、この世界が広く、素晴らしいものなんだということを伝えに行くからと、心の中で念じた。


「じゃあね、また来るよ、姉ちゃん」


 俺は鞄を持ち、帰った後に待っている宿題のことを思い浮かべながら、帰り道を急いだ。




墓の前の花瓶に差した一輪の花が、風に吹かれて静かに揺れた。

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