魔法の杖(中)

 北風が家を揺らしている。

 僕は眠れないままベッドの中で身体を丸めていた。目を閉じても、開いていても、思い起こすのはアイーダ先生が告げた言葉ばかりだった。



 その時の僕は、言葉を発することも、身動きも出来ずに、長い間固まっていたと思う。暖炉の薪の一本が崩れて小さな音を立て、それを合図のようにして、僕はようやく口を開いた。


「……いつから」


 口に出せたのはそれだけ。

 いつから分かっていたんですか、と聞きたかった。それでも先生にはきちんと伝わったようだった。


「ダーネットで、溢れた川の流れを止めた。あの時に」


 よく覚えている。あの時、先生は倒れ、杖は折れた。僕は必死になって先生を運び、隠れ、嘘をついて人を騙し、ここへ戻った。


「負担を杖に押し付けたが……それでも無理があった。目覚めてすぐ、一線を超えたのがわかった」

「何とかならないんですか……」


 混乱しっぱなしの考えを、なんとか前に向けようと努める。


「呪いを……解けるなら、僕は何をしたっていいです。ガーランドに頭を下げて、頼み込んだって……」

「それは、意味が無い」


 首を横に振って、また少し咳き込みながら先生は否定した。


「どうすることも出来ないのは、あの男も認めた」

「いつ、そんなことを」

「ここへ来た時に言っていただろう」



『さて。それでいいのか? 残った時間も、そう長くはないだろう』

『……だとしても。お前にそれを解決できるわけではない』

『残念ながら、それに関してはその通りだな』



 あれは、僕の話ではなかったのか。

 今度こそ僕は何一つ語ることができなくなり、ただ立ち尽くした。取り掛かるはずだった作業の準備もそのままに。



 眠れなくても、夜は明ける。朝が来る。

 どんな顔をすればいいのかわからないまま、僕は着替えを済ませて自分の部屋を出た。

 すぐに違和感に気づく。

 必ず僕よりも早く起きて作業場にいるはずの、先生の姿がなかった。


「……先生?」


 静まり返ったその光景に心からぞっとしてしまう。まさかという思いと、あるいはという想像が胸の中でせめぎ合った。

 部屋の扉を叩き、呼びかけてみる。返事はない。心臓が痛むような強さで鳴り始めるのを感じた。僕は先生の部屋には一度も入った事がない。


 扉を開いても、誰もそれを咎めなかった。部屋の中は静かだった。


「先生」


 何度呼んでも、返事はない。

 一歩ずつ歩みを進めるにつれ、ベッドに横たわる先生の白い顔が目に入る。

 緩やかな呼吸の音と共に、その胸が静かに上下しているのがわかって、僕は思わずその場にへたり込んだ。


 先生の枕元には、何か茶色く干からびたものが置いてある。すぐに、それがいつか僕が先生にあげたローズマリーの花冠である事にも気がついて、思わず顔を背けた。

 大切に持っていてくれた事は嬉しい。でもその変わり果てた姿は、まるでこの先に起きることを象徴しているようで、とても見ていられなかった。


「……勝手に、部屋に、入るな」


 返事をすることも、顔を上げる事さえ出来ずに、僕はその声を聞く。掠れた、途切れ途切れの小さな声。それは何よりも雄弁に、残された時間の短さを語っている。


「何か……僕に出来ることは無いんですか」


 先生はまだ、身体を起こさないままだ。


「何でもいいです。何か、欲しいものとか、やりたい事とか」

「……旅がしたい」

「旅?」


 意表を突かれ、僕はふいに顔を上げる。先生は天井を見つめ、どこかぼうっとした表情で呟いていた。


「生まれてから、この国を、出たことがない。海や、広い砂丘や……王都には、大きな鉄の橋や、塔もあるというが。そうした場所を、話に、聞いたことしかない」


 それは僕も同じだ。


「……見知らぬ街を、歩いてみたかった。言葉も、通じないような、異国の地を。欲を言えば、誰も、私の姿を、気にしないような……」


 その光景を夢想する。この国よりも陽射しは強いのか、それとも弱いのか。知らない鳥が舞い飛んでいたり、鮮やかな花が咲いたりしていて、街を行けば、見たこともない食べ物や不思議な飾りのお店が並んでいて、服装もまるで違っていて。

 通り過ぎる人々は僕たちを振り返ることはあっても、それはあくまで物珍しさからで、すぐにまた目の前の楽しみに熱中し始めるのだ。


 急に、熱が引いたように先生は顔を曇らせた。


「……すまない。こんな事を、ラストに言っても、仕方がない」

「いつか行きましょう。連れて行きます」

「私は、そもそも、まともに、歩けない」

「なら僕が手を引きます。駄目なら背負って行きます」


 そう言って僕が手を握ると、先生は少しだけ笑った。


「……それは、いいな」

「必ず連れて行きます」


 何の意味もない約束だった。果たせるはずがないと分かっているのに、どうしてこんな約束をしてしまうのだろう。

 ふいに、先生がまた顔を顰める。胸の内が伝わってしまったのかと思い、僕は取り繕うように笑った。それでも、先生は顔を手で覆い、何かしきりに悔やむようなそぶりを見せている。


「ああ……そうか。そういうことか……」

「どうしたんですか。何が分かったんですか、先生」


 先生は、ついさっきまで話していた事柄もすっかり忘れてしまったように狼狽えていた。


「お前の中に、僅かに、私のマナが、見える」

「……先生の?」

「自分の、マナほど、見慣れている、ものはない。だから、気がつかなかった……」


 それを聞かされても、僕は困惑するしかなかった。何がどうしたらそんな事が起きるのか。それはどの程度不思議なことなのか。その結果として、何が起きるのか。何一つ分からない。


「落ち着いて下さい、先生。どうして、そんな事に……?」

「傷を、癒した時に、入り込んだ、のだろう。魔法を使うと、そういう事が、よく起こる。色が付く、などと、言う……」


 聞き覚えのある言葉だった。魔法の杖を作るときに魔法を使うと、余計な色が付く。確かに、以前先生がそう言っていたのを覚えている。それこそが魔法の杖を魔法では作れない理由だったはずだ。


「魔法をかけると、マナが混ざってしまう……だから、魔法の杖は、魔法では作れない」

「眼が開くのが、妙に早かったのも、ガーランドが、お前に、手を出さなかったのも、それでか」

「ガーランドが……? 何か、関係があるんですか。それは」


 少し躊躇いがちに聞く。気にはなるものの、今の先生をあまり長く喋らせたくはない。


「私のマナを、持っているということは、ラスト、お前もまた、呪いを受けている」


 ぞくりと冷たいものが背筋を走る。


「呪いを、受けている、者に……呪いは、かけられない。だから」


 それは、呪いについての三つの決まりごとのうちの一つだ。決まりを破れば、呪いはかけた者に返るという。

 ガーランドは僕の中に先生のマナがある事に気がついて、僕に呪いをかけて無理やり従わせるようなことはできなかった。そういう話なのだろう。

 知らず知らずのうちに、僕はまた先生に守られていた。


「お前の中の、私のマナは、いずれ、消えるよ。だが……すまない、ラスト。私の、せいで……」

「大丈夫です」

「すまない、許して、くれ」

「先生。もうわかりましたから」


 謝罪を繰り返しながら、先生はまた苦しげに咳き込み始める。半ば無理やり寝かしつけて、僕は部屋を出た。

 呪いを受けているとか、そんなことはどうでもよかった。魔法を使わない僕には何の害もない。むしろ、先生のマナが僕の中にあるというのなら、それが呪いと共にあるとしても、ずっと持っていたいくらいだ。でも、それも適わないらしい。


 先生を助けたい。でも、そのために僕ができることが何も無い。

 どうにかするための手段を探しに行くとして、何処へ行くと言うのだろう。誰を頼ると言うのだろう。魔女を診てくれる医者などいない。

 そもそも、今の先生を一人残してここを離れることなんて出来るはずもない。


 解決の糸口も無いまま、日が昇る。日が沈む。

 その度に先生は痩せ、眠る時間が長くなり、意識が曖昧になっていった。食事を摂ることもできず、ただ薬湯を飲み、それも残すようになった。

 話しかけても、三度に一度は返事が返ってこなくなった。杖の作り方を教えることなんてできるはずもない。

 僕は一人で作業場に立ち、先生の作ったものを手本にして魔法の杖を作り始めた。


 ダーネットの人々が山狩りを始めたり、ガーランドが訪ねてくるようなことはなかった。それだけは幸いだった。これ以上外から何かの問題が持ち込まれたら、僕はもう耐えられない。



 作業場で一人佇み、手にした杖を眺める。僕の魔法の杖。

 基本になっているのはトネリコとオーク。形の近い二つの枝を揃えて磨き、組み合わせている。先生の杖をよく観察してみて、数カ所に宿り木とハシバミが差し込まれているのもわかった。

 持ち手の部分は獣の皮で補強して、彫り込む紋様は細かく複雑だけれど丁寧に写した。飾り紐の長さ、石をはめる位置もおかしくはない。

 それでも。


(質の悪い模造品。違う。もっと酷い)


 作ったばかりの杖を叩きつけて壊したい衝動に駆られた。美しいものどころか、それはただ素材を組み合わせただけの寄せ集めに過ぎなかった。誰が作っても、作り方さえ指示されれば同じものが出来上がるだろう。


 いったい、僕は今まで何を学んできたのだろうか。これまで身につけてきたものが自分の中からすっかり抜け落ちてしまったように思える。


 何もできない。何も作れない。何もかも、願った形にならない。目に見えない大きな檻が僕の周りを覆っていて、どこにも行けないような、そんな気がする。


 僕は、何を間違えたのだろう。どこで間違えたのだろう。

 尋ねたくても、一人だった。

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