魔法の杖(前)

 その杖は、僕の胸ほどまでの長さがある。

 滑らかに磨かれた表面には、円から網目、網目から様々な意匠へ、変化を複雑に繰り返す紋様が彫り込まれている。あまり艶のない透明なニスを使っているのは、木目を活かして美しく見せるためだろうか。

 持ち手には白と黒の糸で編んだ飾り紐が付き、そこから上方はゆるくカーブして、美しく青い石を抱え込むように丸まっている。


 僕がこの家に来て、最初に見た杖。目標として掲げ、目指し続けてきた杖。


「この杖には名前が無い」


 出し抜けにアイーダ先生が妙な事を言った。


「どうしてですか?」

「この杖は、魔女が、それぞれに自分が一番良いと思う形で作り上げる。これは私が作ったからこの形になっている。決まった形がない。そして名前も無い」

「言うなれば、アイーダの杖、ですね」

「……それは少し気恥ずかしい。ただ、魔法の杖とでも呼べばいい」


 先生はそう言って、一度軽く咳払いをした。


「もしも作っていて、お前がこうしたいと思うところがあれば、変えていい。手本通りに作る必要はない」

「……そんな事言われても」


 急に不安になってくる。良いと思うように作れなどと言われても、今までずっと先生の杖を手本として、そこへ近づくようにやってきたのだ。自分なりの工夫なんてものは、一番やってはいけないことのように思っていた。


「そこまでやって、お前の杖が出来る。今までやってきた事から大きく逸れなければ大丈夫だ」

「……わかりました」


 あまり想像はできないけれど、やってみるしかない。

 ひとまず材料を集めるために支度を整えて外に出ようとすると、先生が背中を丸めて咳き込んだ。


「先生、風邪ですか? 休んでいた方が……」

「いや。早く取り掛かってしまおう。忙しいぞ」


 きっぱりとそう言って、先生は先導して歩き始めた。

 とはいえ、先生は片手で杖をつき、片足で歩く。必然、歩みはゆっくりとしたものになる。


 ニレの枝。宿り木のついたオークモミと栗、トネリコ、それから山査子サンザシハシバミ。イチイ。杜松ネズに、白樺。


 森の中を歩き回り、木の枝を集めていく。


「こんなに色々使うんですか?」

「ラストの杖に何が必要になるかわからない。まず全て揃える必要がある」


 集めて回るのに骨は折れたけれど、これらはどれも今までに使ったことのある材料ばかりだ。ある程度性質もわかっている。

 僕が気になったのは、杖についた白と黒の飾り紐と、青い石だった。これは今まで使ったことのない材料だ。


「この紐は、木の皮を細かく裂いて、撚り合わせて紐を作る。黒い紐はそこに渋を加えて、煮出して染めたものだ」

「これも木で出来ていたんですね」

「近いものを作ったことがあるだろう? 鱒を取るのに、網を使った」

「あ……」


 僕は思わず間抜けな声を出した。あの網は単に生活のために必要で作ったものと思っていたけれど、魔法の杖を作るのに必要なものだったのだ。

 要は網を作る時よりも細く裂いて、それを元にして紐を作ればいい。


 と、聞いただけならば簡単に思えるが、実際は木の皮を細かく裂くだけでもとてつもない根気と時間がかかった。細く裂きすぎると切れてしまうし、逆に太すぎると固く、撚り合わせることができない。

 紐を撚る作業もまた、力任せにはできない。何度も折り曲げて柔らかくし、撚り合わせ、緩ければ解いて直す。その繰り返しだ。

 結局、必要な長さの紐を二本作るのに三日もかかってしまった。



 ようやく紐が出来上がると、今度はもう一つの材料が気にかかる。


「先生。この石は何なんでしょうか」


 杖に納まっている青い石は、宝石か何かのように見える。そんなものをどこから手に入れるというのだろうか。


「それは廃光晶の欠片だよ」

「これが?」


 僕の知っている廃光晶といえば、透き通った無色の石だ。そうでない色はせいぜい白く濁った時のものくらいしか見た事がない。


「ごく稀に、青色が混ざったものがある。特に力が弱まりにくい。普通に使う分にはいつも通りのものでも構わないが……」


 小さな咳をして、先生はまっすぐに僕を見つめた。


「完璧を目指すならば。お前が取りに行って、見つけなければならない」



 北の岩場を抜け、蔦の絡んだ岩を押して洞窟の中へ入る。先生が同行するのはそこまでだ。

 左右に曲がりくねった、冷たく硬い通路を歩いていると、いつかこの場所を一人で通り、一歩も動けなくなって蹲っていた事が思い起こされた。

 その場所を、今の僕は通り過ぎる。


 程なくして、行き止まりに辿り着いた。

 ランタンに覆いをかぶせると、淡い輝きを放つ結晶が闇の中にいくつも浮かび上がった。顔を寄せ、その一つ一つを食い入るように見つめる。

 廃光晶の光は眩しいほどのものではない。僕の足元や手元は真っ暗だ。どこからか吹き込んだ風の音が洞窟の中で反響し、不気味な響きとなって伝わる。外套越しにも身を切るような寒さが身体を襲う。

 それでも怖くはなかった。あの日の記憶が僕に勇気をくれる。


『あの杖が作れるようになるまで教えると、そう約束した』

『約束は守る。それは信じてほしい』


 先生は今、確かに約束を果たしている。どうして今更、暗闇程度を怖がる必要があるのだろう。

 壁の光はどれも同じく、無色の明かりが続く。地面に手をつき、屈みこんで光を辿る。


(あるはずだ。きっとある……見つけられる)


 ふと、一度通り過ぎた場所へ視線を戻すと、他のものよりも若干頼りない輝きがそこにあった。

 闇に紛れて見落としてしまいそうな、深い青。布を被せ、力を込めて折り取ると、残された壁の光が一斉に震えたようだった。



「……一通り、揃ったな」


 作業場の机の上には、大小さまざまな木の枝と、飾り紐。青い廃光晶。毛皮と獣骨、毒を持つ茸、拾い集めた鳥の羽根。時期的に手に入らないようなものを除けば、今まで使ってきたものが不足なく揃っている。

 そして、紋様の下絵を描くための細い木炭、枝を削るための石のナイフ、素材を磨くための砂や布も整然と並べられている。


(大丈夫だ。きっと間に合う)


 頬を叩き、自分に言い聞かせる。緊張はしているけれど、不快なものではない。ここまで来たら自分が今までやって来たことを信じるだけだ。


 ぴい、と鳥の鳴くような音がした。

 壁に遮られているとはいえ、叩きつけるような冬の風が甲高い音を立てて隙間から入り込み、僕たちを凍えさせる。作業に入る前に暖炉に薪を足そうと近付くと、また先生が咳込み始めた。


「先生? やっぱり、休んでいた方がいいんじゃ」


 先生は答えず、膝をつき、なお苦しそうな咳を繰り返した。

 何かおかしいと、僕はようやく気付いた。


 震える指が棚の一画を指し示す。そこには、煎じた薬草が入った壺が並んでいる。先生の意図を理解した僕はお湯を沸かし、指示されるままにいくつかの薬草を煮出した。

 いかにも薬臭い匂いがする、黒っぽい薬湯が出来上がると、それを少しずつ飲んでようやく先生は落ち着いた。


「……先生」


 先生の背中をさすりながら、僕は妙な胸騒ぎを覚えていた。

 これはただの風邪だろうか。先生はひゅうひゅうと耳障りな息を繰り返している。顔色もいつにもまして悪い。


「先生。まだ、僕に話していないことが……あるんじゃないですか」


 なぜだか、そんな気がした。

 でも、聞いてから僕は後悔した。顔を向けた先生は穏やかな笑みを浮かべていた。

 こんな風に笑う人は、きっと全てを諦めていて、そこから紡がれる言葉は僕が受け止めきれるものではないと、直感で理解できた。


「……あるよ。一つだけ」


 無慈悲に唇が開く。


「私の命は、もう長くない。この冬は越せないだろう」


 言葉を失った僕とは裏腹に、強く吹き込む隙間風だけが、笛のような音を立てていた。

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