始まりの火の杖(後)
ネズの葉は赤く色づくことがない。針のような形の葉は爽やかな香りがして、その焚き火は魔除けになると、小さい頃に聞いたことがある。この場合の魔というのは何のことだろう。恐ろしい生き物か、邪な力か。あるいは、歪んだ心だろうか。
もしも歪んだ心のことならば、今の僕にはこの焚き火は毒かもしれない。
炎と、そこから立ち上る煙を眺めながら、ふとそんな事を考える。
先生は何も言わずに黙々と自分の作業を続けていた。呆れているのだろうか。もう見放されているのだろうか。
余計な事を考えながらも、白樺の枝に火が当たらないよう、火かき棒でこまめに位置を変え、煙だけが当たるようにする。
そのくらいのことしかできない。
枝を手に取っても、同じことの繰り返しになるような気がして手を止めている僕に、先生が問いかけた。
「うまく行かないか」
「……才能が無いのかも。ずっとやってきたのに、全然上手くなりません」
杖を作り始めたころにも似たような事を言った気がする。
先生はナイフを振るい、枝を削る作業を中断しなかった。ひと段落ついたところでようやく返事が返ってくる。
「才能なんて、私もない」
「そんなこと無いです。僕には、先生みたいに作るのは無理です」
「諦めていれば無理に決まっている。私はお前に同じことができないとは思わない」
「そんな自信……ないです」
自分で言いながら惨めな気持ちになってくる。先生だってこんな風にぼやかれても困るだろうに、どうして気を遣えないのだろう。
「私だって自信があるわけじゃない」
「先生みたいに作れても、自信はつかないんですか……?」
それはとても絶望的な話に思えた。
「自信がない……というよりも、恐ろしい。作っても作っても、結局何も残らないのではないかと思うと、恐ろしくなる」
「でも、先生は立派な杖をたくさん作っているじゃないですか」
「どの杖も私が作ったと知っている者はいない」
確かに、魔女である先生は名声とは遠い場所にいる。どんなに立派な杖を作っても、それが先生の作ったものだと知って使っている人間はいない。
まして先生の杖はよその国で売られているのだから、使っているところを見る機会さえないのだろう。いいものを作っているという実感は得られないのかもしれない。
「それに、母が作ったものにくらべると、やはり劣る」
先生のお母さんが作った杖というのはいったいどれほどの物なのだろうか。先生ですら及ばないとなると、もはや見当もつかない。
「だからいつも焦っている。無駄な事をしているのではないかと自問する。逃れるように手を動かす。ずっと、その繰り返しだ」
「先生……」
思いもよらない言葉だった。
僕と先生はこんなにもかけ離れているのに、それでも、先生は先生で、常に打ちひしがれているのだという。目指す先があり、そこへ到れない自分を歯がゆく思っているのだという。その気持ちに限れば、僕と全く違いはない。
その瞬間に、自分の思い違いに気づいた。半年以上も続けているのに進歩がないと嘆いていたけれど、この苦しみとの戦いはまだ始まったばかりで、きっと、この先もずっと続くのだ。
細工師の仕事をしている時は、長い時間をかけて一人前になればいいと思っていたはずなのに、どこかでまだ杖の事を侮っていたのかもしれない。もっと簡単に、劇的に進歩できるはずだと思っていたのかもしれない。
「母の杖は、ずっと変わらない私の原点で、目標だからな」
「僕にとっては先生の杖がそうです。初めて見たのが先生の杖で、それに惹かれて……」
記憶を辿り、一つ誤りに気がつく。
「あ……でも、そうだ。ここに来る直前に、町で初めて魔法の杖を間近で見たんでした」
「ダーネットの町でか?」
「はい。杖を運んでいる行商人の人とぶつかって……怒られました。でも、僕は杖ばかり見ていた気がします。あの時初めて、綺麗なものだなって思って」
懐かしく、今ではなんだか遠い昔の出来事のような気がする。
「……それは私の杖だな」
「え?」
思わず聞き返すと、先生は記憶を辿ろうとするように目を閉じて続ける。
「今ならともかく、あの時期にダーネットの町から他へ運ばれていく杖などそうそうあるものじゃない。ちょうど、ラストに会う少し前にも納品をした覚えがある」
(なんだ。最初から、そうだったんだ)
思わず苦笑してしまった。
あの杖を見た僕は心を奪われて、それで山道に迷い、あげく岩の裂け目から落ちた。
そんな僕を見つけた先生は、命を落とすつもりで僕を助けてくれた。
命を救われた僕は、自分の手で杖を作れる事を知ってここに居着いた。
狭いところで運命が巡っているようで、こんなことがあるものかと、笑わずにはいられなかった。
一つ何かに気がつくと、引きずられるように見えていなかったものが目につくようになる。いつの間にか、先生の手は擦り傷だらけになっていた。慣れない片手での作業で付いたものだろう。先生は今、自分の本来の技術を取り戻すのに必死なのだった。
それは僕に教えるために必要なことだから、見放されるなんてとんでもない。
「……先生」
「うん?」
「彫り方を見て下さい」
「うん」
今までの失敗が嘘のように、作業は進んだ。
古くからある杖だからか、杖の材料は少なく、複雑な造りでもない。落ち着いて、今までに習ってきたことをきちんと活かせば作り上げられるものだったのだ。
どうにも僕は余計な回り道をしてしまう。時間も限られているのだから、もっと動じない心を持てればいいのにと思うけれど、それこそが何かを作るためには一番難しい事なのかもしれない。
紋様を彫り終え、杖に塗ったニスが完全に乾くまで二日ほどかかった。
肌寒い夜の空気の中で、杖の出来を試すための呪文が唱えられる。
「凍えるものを暖め 夜を照らす力を此処に」
杖の先から火の粉が散り、連なって細い線を描く。やがて縄を糾うように無数の線が折り重なって、いっそう眩く輝きながら、炎の繭を作り上げた。
それは杖に刻まれた紋様によく似ている。
炎の繭は積み上げた枯葉と薪に燃え移り、ぱちぱちと音を立て始める。
闇の中に灯る暖かな橙色の光を眺め、溜息をつく。この小さな火が僕の試行錯誤の成果で、遠い昔に魔女が目指した明かりなのだと、そう思うと不思議に胸がつまった。
「魔法は、まだ使いたいか」
「……やっぱり、教わらなくていいです。変なことを言ってごめんなさい」
「ああ」
そう答えるのがわかっていた、と言わんばかりのそっけない返事が今は嬉しかった。
「でも……先生は憎くないんですか。やり返したいと思わないんですか」
「憎くないわけではないが、全てをあの男のせいと考えるのは、違うと思っている」
「どうしてですか」
僕から見れば、先生の置かれた苦しい状況の殆どはあの人のせいに思える。
けれど、後に続く先生の言葉はそれを覆した。
「私にこの呪いをかけたのは、私自身だからだ」
「え……?」
どうしてそんなことになるのか、見当がつかない。炎が、俯き気味の先生の顔を照らし、金色の目の中で光が揺れていた。
「強い呪いは、魔法よりもずっと複雑で繊細で、守らなければならない決まりがある。一つ、呪いの言葉は一字一句間違えてはならない。一つ、既に呪われているものに呪いをかけてはならない」
指を折りながら、先生は強い呪いの条件を挙げていく。
「……そして最後の一つ。呪いに使う道具は、全て自分で作らなければならない。魔法の杖も。この決まりを一つでも破れば、呪いは失敗する。かけた者に返ってしまう」
「先生は……何故失敗したんですか」
少なくとも最後の条件に関しては、何も問題はないように思える。先生は魔法の杖を作ることができるのだから。
「杖だ。呪いをかけた時。私が自分の杖だと思っていた物は、私の杖ではなかった」
意味が分からず、相槌を打ちそびれた。
「あらかじめ、すり替えられていたんだ、ガーランドに。いつからか、マナを見る眼をもってしても見抜けないほど正確に、私の杖とそっくりに作られていた」
「すり替え……」
思わずおうむ返しをしてから、慌てて付け足す。
「そんなの……罠じゃないですか」
「そう、罠だ。私はまんまとそれに引っかかり、自分で自分の呪いを受けることになった」
「それじゃあやっぱり、先生が悪いことなんて何も無いじゃないですか!」
叫ぶように言うと、先生は僕の目を見て緩やかに首を振った。
「ガーランドに呪いをかけようとした時、私は笑っていた」
今でもその時をまざまざと思い起こせるのか、悲痛な表情と声で、先生は言う。それはきっと、思い出したくもなければ、語りたくもない出来事。
「私よりも母に認められ、私が得るはずだったものを持っている……それを引き摺り下ろせるという喜びで、笑っていた」
僕はその様を幻視する。
先生が笑みを浮かべ、呪いの言葉を吐く。でも、膝をつくのは先生で、それを見下ろすのはガーランドだ。
想像の中の先生の姿は、容易に僕自身の姿に重なった。付け焼き刃の魔法など覚えて立ち向かったところで、確実にそうなる。落ち着いてよく考えれば当たり前のことだ。
「だから、必要以上に奴を恨むのはやめた。そこに囚われると、自分がどんどん醜いものに落ちるようで、恐ろしかった」
誰の中にも毒はあり、先生も例外ではなかった。これはそういう話だ。
でも、先生はその毒に呑まれないように自分で押し留めている。どうとでもなれとばかりに突き進む僕の姿は、いかにも危うく見えただろう。
それ以上は聞かないことにした。
不意に冷たい風が吹き、先生が背中を丸めて咳き込んだ。短い秋はもう終わる。
「家の中に、戻りましょうか」
そう言って火の後始末をする僕の背に、先生の独り言のような言葉が重なる。
「……ようやくここまで来た。次に教えるのが、最後の杖になる」
冬の訪れと、別れの時が一緒に近づいてくるのを、僕は痛いほどに感じていた。
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