四足の影の杖(後)
「生き物は死んだ時から腐り始める。本当は水辺近くで仕留めて、すぐに血を抜き、内臓を抜いて冷やすのがいい」
「えっ、じゃあ、もう遅いんじゃ……?」
慌てる僕を見てアイーダ先生は苦笑し、補足した。
「今回は肉が目的ではないから、そこまで焦る必要はないよ」
「どこを使うんですか?」
「毛皮と、骨だな。いずれにしろ時間をかけるほど匂いがひどくなる。休みなしの作業になるぞ」
「……頑張ります!」
川辺まで運び、吊るして血を抜いた狼の身体。喉笛から腹にかけて縦に裂き、胸骨を割って、内臓をかき出す。初めて目の当たりにする大きさの肺や心臓を前に、胃の中のものがこみ上げてきそうになった。
「平気か?」
先生に少し心配そうに尋ねられて、僕は口をぎゅっと結んだまま首を縦に振った。
息を吸いこむ度に血の匂いがする。この匂いがさらにひどくなると思うと、下手に休むより早く終わらせた方が楽なのは間違いない。
必死の思いで内臓を掻き出したあとは二人がかりで川の中へ運び、水洗いをする。洗い続けるうちに、川面を染める赤い色が薄くなっていく。
「獣を獲るのって、仕留めるまでも、仕留めた後も、同じくらい大変なんですね」
「そうだな。これは別に魔女に限ったやり方ではないから、狩人は誰でも同じことをしている」
そう言った後で、先生は少し考えて付け加える。
「いや。今は、獲るのも捌くのも魔法を使っているかもしれないな」
おそらく、そうだと思う。皮の鞄が、細工師の見習いをしていた頃の僕でも買えるほど安くなったのはそのためだろう。
血生臭い作業が終われば、今度は単純に力の要る重労働が待っている。毛皮を剥ぎ、頭と四肢をナイフで胴体から切り離すのだ。
狼の脚は筋肉がしっかり付いて骨も太く、きちんと関節の部分に刃を入れなければびくともしない。
悪戦苦闘しながらなんとか頭と足を外してしまうと、いっぺんに生き物というより肉のかたまりという印象になってしまうのが不思議だった。
つい数時間前までは山の中を走り回り、獲物を捕らえ、吠え声を上げていたはずのものなのに。
次いで、肉を外した骨を鍋で煮て、細かい筋や油を全部こそげ落とす。
大きな鍋でぐらぐらと骨を煮ていると、そういえば子供の頃に聞かされた魔女の姿というのはこういうものだったなと思い出す。
案外、こういう作業をしているところを誰かに見られてしまった魔女が居て、そこからおどろおどろしい印象がついてしまったのかもしれない。
休んでいる暇もなく、毛皮の処理も進める。トチの実の皮を剥き、乾燥させて粉にしたものを使って洗うと、よく泡立って毛の間に付いていたダニやノミがぼろぼろ取れた。
その後は皮に残った脂を丁寧に削ぎ落とす必要がある。脂を削ぐのに力を入れすぎると毛皮が破けてしまうし、脂が残っているとそこから腐ってしまうので、加減が難しい。
「……穴だらけになっちゃいました」
広げると、あちこち擦り切れて反対側が見えて、ぼろ布のような惨めな有様だった。
「まあ……うん。無事な部分もある。これだけあれば足りるだろうから」
言葉尻に微妙に慰めの色が感じられる。
脂を削いだ毛皮は塩を擦り込んで乾かしておく。完全に乾ききる前に次の工程に入る必要があるそうなので、気が抜けない。
「体の大きい狼で良かったな。小さいものだったら、もう一匹必要になっていたところだ」
「そうなったら、しばらくは弓の練習ばかりになっていたかもしれないですね」
たまたま手負いのものを仕留められたから良かったものの、そんな偶然が二度も続くわけがない。
「そういえば。脂を削ぐ時に、毛皮を固定して、両手で作業できた方がいい気がするんですけど」
そんな風に提案をしてみると、先生は少し眉を上げて、それから頷いた。
「なるほど。作業台を作るか」
「今度、試しに作ってみます」
そのくらいなら、自分でも作れそうだ。次の機会までに色々考えてみることにした。
毛皮はそのままひとまず置いておき、鍋から骨を上げて丁寧に掃除をする。加工した骨は白っぽく、どこか木の枝にも似ている。僕はしげしげとそれを眺めた。
一瞬、骨の表面に何か光るものが走ったような気がした。汗がまつ毛に付いたのかと思い、袖口で目元を擦る。
改めてもう一度骨を見つめても、特におかしなものは見えなかった。
(……なんだろう)
少しひっかかるものはあったけれど、とにかく慣れない作業の疲れで一刻も早く休みたかった僕は、深く考えない事にした。
作業はまだまだ続くけれど、毛皮と骨を乾かす必要があるのでひとまず今日はここまでという事になったのだ。
その日の夕食は、狼の肉を串に刺して焼いたものだった。先生が言うには、仕留めてから血抜きをするまでにだいぶ時間をかけてしまったのであまり美味しくはないだろう、とのこと。
確かに臭みが強くて、筋が固くて、お世辞にも美味しいとは言えない肉だった。それでも僕はなんとかかぶりついて飲み込んだ。
肉はまだまだあり、干し肉にしてしばらくは食べ続けなくてはいけない。
次の日からはトネリコの枝を集めていく。灰色の滑らかな樹皮を持つこの枝は、生木の状態でも燃えやすくて薪にうってつけなので、今までも何度か採ってきたことがある。
それを、狼の後ろ足の骨を芯にして籠を編むように巻きつけていく。
「骨は足先を地面に向けるように。上下を間違えるなよ」
「大丈夫です。分かってます」
これは何度か言われている事で、魔法の杖の材料はなるべく元あった状態に近づけるようにして使うのが良いらしい。つまり、木の枝を使うときも根に近い方が下になるし、獣の骨も同じ理屈だ。
生乾きの毛皮は木に打ち付け、引っ張って伸ばしながら、さらに二日ほどかけて乾かした。このままだとばりばりしていて固いので、塩を落としたら油を塗り込み、柔らかくなるまで石で擦って仕上げる。
それを杖の外周に巻いていく。その頃には毛皮の持っていた獣臭さも薄れて、触れた時に柔らかく、温かさを感じられるようになっていた。
ばらばらになった狼の足、その骨に木の枝と毛皮を纏わせるというのは、なんだか、材料を変えてもう一度同じものを作り上げている気がする。
枝を編み込む時に歪みがあったり、毛皮の巻きが甘かったりすると、立てた時に解けてすぐばらばらになってしまう。
円環の緑の杖を作るときの過程を思い出しながら、それに引きずられ過ぎないようにして作業を進めた。
素材が違えば特徴が変わってくる。例えばトネリコは叩くと固いけれど、弾力があって、少しくらい曲げても割れない。一方で、縦に刃を入れると割合素直に裂ける。
様々な杖を作る上で、その素材の特徴を掴むことは何より大事なことだ。
作ってはばらし、編んでは解きを繰り返す。その中で、自分が扱っているものの性質を覚えていく。
それは退屈でも苦痛でもなかった。同じことをしていても、毎日新鮮な発見がある。自分が好きで学んでいる事だからこそ、そういう心持ちで取り組めるのだと思う。
そんな繰り返しの日々は過ぎて、ようやく杖が使えるかどうかを試せる段階までやってきた。
すでに陽は沈んでいるものの、月明かりで十分に影は見える。先生が僕の作った杖を地面に突き立て、一度聞いたことのある呪文を唱える。
「たましいを影に落とし」
僕は祈るような気持ちで拳を握る。
「土を掴み、走るものとなれ」
先生の影が、ゆらゆらと揺れて形を変えていく。立ち上がった影の獣は静かに歩き、遠吠えをするかのように空に向かって顔を上げた。
その大きさは紛れもなく僕が仕留めたあの狼のものだったけれど、輪郭はぼやけて判然としない。そこが気にかかる。
(僕が、もっとうまく作れていたら)
そうしたら影はもっとはっきりとした形になって、風のような速さで野を駆けることもできるのだろうか。
杖が完成したことは嬉しいけれど、僕はあまり笑えずにただ影を眺めた。
「これは四足の影の杖という」
先生が目を開き、杖を僕に手渡す。影は既に人の姿に戻っている。
「難しい杖だよ。よく頑張った」
「え……」
先生が家の中に引き上げていくのを見送り、僕はしばらくその場で惚けていた。
先生に真っ直ぐに褒められるのは滅多にないことだ。それだけで、疲れなんかいっぺんに吹き飛んでしまった。
僕は、きちんと前に進めている。そういう保証を貰えた気がする。
杖を握りしめ、飛び跳ねたくなるような気持ちを抑えて空を見上げると、丸く、とても綺麗な月が出ていた。
その日の夜、僕は不思議な夢を見た。いつか見た夢と同じく、暗い道を手探りで歩いていると、いつの間にか下からぼうっと淡い光に照らし出されている。
足元を光る水のようなものが流れているのだった。
水かさは次第に増していき、やがて膝のあたりまで浸かってしまう。でも、別に冷たくもないし、暗くなくなって歩きやすいな、とそんな風に思った。
僕がこの日見た夢の意味を知るのは、もう少しだけ先のことだった。
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