四足の影の杖(中)

 狼の大きな身体を運んでいる最中に鋭い爪や牙で傷つかないよう、口と脚の先端を木の皮で覆う。だらりと脱力した身体は柔らかくて重くて、半ば引きずるような形になってしまうのはどうしようもない。


 仕留めた狼を運びながら、僕は味わったことのない興奮と達成感を噛み締めていた。

 こんなに大きな狼が偶然傷を負って目の前に現れるなんて、僕は運がいい。さすがにこんなことがそうそうあるわけじゃない事は分かっているし、弓の練習はもっと続ける必要があるだろう。

 それでもやっぱり嬉しいものは嬉しいのだ。


(先生、どんな顔するかなあ)


 期待に胸を膨らませながら、家に帰り着く。抱えた獲物を一度下に降ろそうか、それとも先生を呼んで扉を開けてもらおうか、と一瞬迷ったその時だった。


「家の中に入るな!」


 びりびりと空気が震えるような声がして、僕は思わず狼の身体をその場に放り出した。

 裏手に居たのだろうか。石造りの壁の陰から、先生がひどく険しい顔をしてこちらに近づいてくる。そのまま狼の亡骸の前に屈み込む。


「この狼は一匹だったか。近くに他の狼は居なかったか」


 静かに、緊張した声でそう問いかけられて僕はようやく我に帰った。


「居なかった、と思います……けど」

「狼は群れを作る生き物だ」


 僕を見上げていたアイーダ先生は、もう一度狼の死骸を一瞥する。


「取り返しに来るかもしれない」


 言葉の意味を理解して、頭の芯が急激に冷たくなってくるのが分かる。足はがくがく震えだして、立っているのも難しい。

 運がいいなんて、冗談じゃない。もしかしたら僕は狼の群れに襲われて噛み殺されていたかもしれない。


「ど、どうしたらいいですか」

「この狼はどこで?」


 僕は来た道の先を必死に指差した。


「こっちです。上りの多いところを避けて進んで、ナナカマドがたくさん生えているあたりの……て、手前で」

「少し様子を見てくる。何か異変があったらわたしの肩を叩いて知らせてくれ」


 そう言うと、先生は手にした杖を地面に突き刺し、両手でしっかりと握った。



 その言葉が終わると共に、地面に落ちている先生の影がゆらゆら揺れて形を変えていく。やがてそれは四つ足の獣のような姿になり、地面から起き上がった。


 唖然としてる僕の前で、影の獣は一度尾を振り、駆け出した。先ほど僕が示した方向へ。


「先生……あれは?」


 返事はない。目を閉じたまま、先生は微動だにしない。かろうじて呼吸はしているのが見て取れる。

 どういうことかとその場に立ち尽くしていた僕は、ふと気がついた。

 多分、先生の意識は今ここに無い。あの影の獣になって走り回っている。そういう魔法なのだ。


 僕は必死で周囲の様子に気を配る。もし今ここに狼が現れたら、無防備な先生はひとたまりもないし、僕一人では何もできない。

 茂みがかすかに揺れるだけで、思わず飛び上がりそうになる。


(頼むから……何も出てこないで)


 どれほど時間が経ったのか。全身が汗でぐっしょりと濡れ、息苦しさで頭がぼうっとしてくる。


 木陰から真っ黒なものが飛び出してきて腰を抜かしそうになり、それがここから駆けていったものであることに気がつく。獣の影が先生の足元へと歩み寄り、横たわる。水に垂らしたインクのように影はぼやけ、やがて人の形を作った。同時に先生が目を開く。


「近くに狼の姿は無いようだ。警戒は必要だが、ひとまず問題ない」


 僕は大きく息を吐き、そのまま項垂れる。


「……ごめんなさい」

「ラストの責任じゃない。狼のことは教えていなかった」


 知らないことには気をつけようがない。それでも何か申し訳なく感じてしまうのは、さっきまで浮かれていた事の反動かもしれない。


「そもそも、この辺りで狼は滅多に見ない。まず会うことも無いだろうという思い込みがあった。群れを追われてこの山に迷い込んだのかもしれない」

「群れを追われて?」

「そういうことがある。集団に馴染まない狼は居場所がなくなり、はぐれ狼になる」


 僕の中から獲物を狩った興奮が消え失せ、このずしりと重たい命を自分の手で殺したという、今までにない実感だけが残った。


「川の近くまで運ぼう。解体する」


 解体という言葉の響きに改めてどきりとする。それはこの狼を切って、裂いて、ばらばらにするということ。毛皮と肉と骨と内臓を分けるということ。


 僕は動物の肉を食べている。リスやヒキガエルだけでなく、町に降りた時、そしてこの山に入る前も合わせたら数え切れないほどたくさんの動物を食べている。

 身につける革製品を作るためには、どこかで牛や馬が殺されているし、魔法の杖を作るために魚を捕ったりもした。


 それらと、今目の前にいる狼と、何が違うかと言われたら何も違わない。なのにどうして足が竦むのか。手が震えるのか。


「ラスト?」


 立ち尽くしている僕に先生が呼びかける。

 きっと僕は、居場所を失ってここへ来た狼と自分を重ね合わせている。もしかしたら、人の社会から突き離されている先生のことも。


「……ラスト。この狼を仕留めたのはお前だ。どうするかは自分で決めていい」


 先生は腕組みして、責めるでもなく、諭すでもなく、ただ静かに問いかけた。

 僕は横たわっている狼を見つめて考える。


 ごめんなさい、とか、ありがとう、とか、何を言ったところで狩られた獣にとってはもう遅い。殺してしまった生き物にできることは何もない。

 だから、これはただ僕自身の中で許せなくなるだけだ。殺した上にそれを何の糧にもできないなんて、許せないと僕が思うだけだ。


「やります。教えてください」


 僕は顔を上げ、魔女に向かって宣言した。この狼を使う魔法の杖の作り方を、僕は覚えなければならない。

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