四足の影の杖(前)
矢をつがえ、両手を起こしていく。弓は垂直に、矢は水平になるまで。
弦にかけた三本の指を顎先のあたりまでぎりぎりと引き絞る。まずはしっかりと姿勢を維持し、固定すること。身体のぶれがない状態になったら木の板に描かれた二重の円、その中心に狙いを定める。
狙いが定まったからといってすぐに射てはいけない。さらに集中を高めて、指を離すべき瞬間を待つ。待つ。待つ……今だ。
びん、と間の抜けた音を立てて放たれた矢は的の手前の地面に落ちた。
「ああ、もう!」
悔しさに叫びながら、止めていた息を吐く。
「なかなかうまくいかないようだな」
いつの間にか家の中からアイーダ先生が姿を見せている。僕は地面に落ちた矢を拾い上げ、格好悪いところを見られた気恥ずかしさから、少しふてくされたように応じる。
「止まってる的に当たらないどころか、まっすぐ飛ばないんですよ」
「まあ、しばらくは仕方ない。まだ筋肉が足りないんだ。特に背中だな」
杖をつきながら歩いてきた先生に背中を指でつつかれ、顔をしかめる。本気で痛いわけではないけど、脇腹から背中にかけて突っ張ったような違和感がある。この後熱をもって痛むのだろう。治っては痛み、また治り、その繰り返しだ。
「ちなみに、先生は当てられるんですか?」
「やって見せたほうがいいか」
先生が手早くつがえて放った矢は、見事に二重円の中心に突き刺さった。さして狙いすました様子もなく、軽々と弦を引いて撃ったのに。
呆然とする僕に向かって先生は肩を竦めてみせる。これは長い戦いになりそうだ。
魔法の杖の材料にするために、獣を獲る。獣を獲るために、弓の練習をする。
なんとも迂遠な道のりのような気がしてくるけれど、杖作りは杖の材料を手に入れることから始まるわけで、こうするしかない。
そういうわけで、僕はもうかれこれ1ヶ月近く毎日弓の練習をしている。
そろそろ実家に顔を出すことも考えた方がいい頃だと思っていたけど、弓の練習は一日休んだら勘を取り戻すのに相当かかりそうな予感があって、先延ばしにした。
どこまで先延ばしにしたら良いのかは見当もつかない。
合間に今まで作ってきた杖のおさらいをする方がまだ楽しいと思えた。少なくとも、こちらは上達を実感できる。円環の緑の杖などはかなり早くきれいな形で組めるようになってきた。それでも、まだ先生の作るものには及ばないけれど。
「弓が使えるようになったとして、今度は獲物を獲らなきゃいけないんですよね。どんなものを獲るんですか?」
休憩時間にお茶を飲みながら尋ねると、先生は少し思案顔になった。
「栗鼠や、兎では足りない……できれば狐くらいの大きさは欲しい」
狐というとすばしっこくて頭のいい生き物という印象がある。たしか、普通は猟犬を使って追い立てるような狩りの仕方をするのではなかっただろうか。それを一人で弓矢で狙うのに、どれだけ練習が必要なのだろう。
「鹿はどうですか?」
鹿ならば森の中で時々足跡や、糞が落ちているのを見るし、実際何度か遠目に見かけたこともある。けっこう数が多いのかもしれない。
「大きすぎる。毒矢を使わないと、仕留めるのは難しいだろう」
「じゃあ、その毒矢を使えば」
「やめておけ。まともに弓を使えないうちに毒に手を出すのは、自分の命が危ない」
確かにその通りだ。つい先日も、うっかり矢じりを触って指を傷つけてしまった事を思い出す。
「結局、今までと同じなんですね。楽な道はないか」
「そういうこと。根気よくやるんだな」
そう言ってから、先生は思い出したように付け加えた。
「まあ、ひとつ、今のお前でも狩れる獣があるとすれば」
「あるとすれば?」
「行き倒れたようなものは良くないが、手負いの獣でも問題はない。とどめを刺して持って来ればいい」
「そんなに都合のいいことって、ありますかね」
「期待はしない方がいいだろうな。ただ、機会があれば逃さないことだ」
それからも弓の練習と杖作りを平行して行う毎日が続いた。
罠の仕掛け方も教えてもらったけれど、苦労して仕掛けても餌だけ取られていることが続いて、だいぶ気が滅入った。
繰り返しが止まったのは、狐の姿を見かけて山の中を歩き回っていたある日の事。
狐が潜んでいるかもしれない場所を忍び足で探っていると、ふと、荒い息づかいが耳に入った。
(……人がいる?)
この森に、先生と自分以外の人がいる。全くあり得ないことではないけれど、今までなかったことだ。息を殺して、用心深く静かに歩き近づいていく。
いよいよ、息づかいははっきりと耳に届くようになる。もうすぐそこだ。
(どうしよう。近づかない方がいいかもしれない)
でも、もしもあの時の自分のように、道に迷って怪我をしている人だったりしたら。そう考えると放っておくわけにもいかない。
意を決して茂みを手でかき分け、前に出る。そして僕は自分の間違いに気がついた。やっぱり、この森に人が入るようなことは滅多にないのだろう。
それは狼だった。
間近に見るのは初めてだった。
犬に似ているけれど、ずっと体が大きい。顔つきには家畜にない険しさがあり、見つめられると有無を言わさず身体が竦み上がってしまうような、そんな目をしている。
その狼は地面に横たわり、首を強引に曲げるような体勢でこちらを睨んでいた。口元からは低い唸り声がずっと漏れている。
引きつった喉を動かし、呼吸を再開して、僕は地面に点々と血の跡が付いていることにようやく気がついた。
血の跡は狼の腹部へと続いている。
手負いの獣。期待をしてはいけない。機会を逃さないように。
先生の言葉が、ばらばらになって脳裏をよぎる。
僕はほとんど無意識のうちに日頃の練習通りの動作を取っていた。つまり、背負った弓を下ろし、矢をつがえ、持ち上げる。
(……もっと、近づくべきだろうか)
今の狼との距離は、大きく七、八歩というところ。普段練習している的よりはずっと近い。
でも、どうせ動けない標的ならば、うんと近づいて外しようのない距離から射ればいいのではないか。それとも、いっそ弓で射るまでもなく、手に持った矢を突き立てれば確実かもしれない。
(……違う)
狼の目は爛々と光り、口からは鋭い牙が覗いている。唸り声も継続している。
手負いと侮ってこの矢を外したら、狼は飛びかかってくるのだろうか。そうなれば、あの牙には充分に僕を殺す力がある。これは一方的な狩りではなく、殺すか、殺されるかの関係じゃないのか。
弦を引き絞り、狙いを定める。
(狙うのは……眉間。違う。喉元)
ここ数日の練習で、僕は弦を持つ指を離すとき、弓を持つ手までつられて動いているせいで狙いが外れる事に気がついた。
もう一度弓を持つ手に力を込めなおす。
(集中……待つ。待つ。待つ)
風の音も、狼の唸り声も、さっきからうるさかった自分の心臓の音も聞こえなくなった。
(……待つ)
狼の目が、一際眩しく光ったような気がする。
その瞬間に僕は矢を放った。
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