花祭りの日(後)
翌朝は昨日の予想通り、すっきりと晴れ渡って気持ちのいい天気だった。少しばかり乾いた風も吹いていて、外で動くのも苦にならなさそうだ。
朝の挨拶をしようとしたけれど、アイーダ先生はもう宿を出ていた。先生はとても早起きで、僕は一度も先に起きた事がない。それは外で泊まっても同じらしい。
そういえば先生はいつか、山で採れたものしか口にしないと言っていたけれど、食事はどうしたのだろう。
食堂でぼそぼそした粗末なパンと薄っぺらいチーズの食事を摂りながら、ぼんやりそんなことを考えた。
宿を出ても特にする事があるわけでもなく、昨日よりも豪奢になった町の飾りを眺めながらふらふらと歩く。
街路に並ぶ、色鮮やかなゼラニュウムの鉢植え。薄い花弁の折り重なった薔薇の花は甘い香りを漂わせている。
町のあちこちには浅い水場が作られていて、子供たちが楽しげに足を浸して遊んでいるのが見える。
遠く、駅のホームには、鈍く銀色に光る車体が静かに滑り込んでいく。あれが噂に聞いた特別車両というやつで、遠くから観光客を運んで来ているのだろう。
本当に短い間にずいぶん町の様子が変わってしまったものだと思う。
そろそろ陽が真上に差し掛かるかという時間に広場に歩き着くと、エマが椅子に腰掛けてお茶を飲んでいた。
エマは、今日はスカーフを巻くのをやめて帽子にしたらしい。控えめに花飾りのついた帽子のせいか、昨日よりちょっとお嬢様っぽく見える。
「おはよう、エマ」
「おはよう、ラスト。まだ、少し時間があるかも? 出店でも見てようよ」
広場の周りには昨日にも増して多くの店が並び、人々の目を惹いている。
エマが昨日食べ物を色々試したのは正解だ。今日はどこも盛況で、並んで待たなければなかなか食事にありつけそうにない。
出店の一つに木彫りのお面が売られているのに気がついて、なんとなく目を惹かれた。
日常的に売れるものではないだろうけれど、だからこそ、こういうものは魔法で作るより手仕事の需要があるのかもしれない。杖作りをするようになったからか、木で作られた物には前よりも親しみを感じる。
道化師や獣のお面に混じって、魔女を模したお面があった。といってもだいぶ誇張されていて、金色の目はつり上がっているし、真っ赤な口は耳まで裂けている代物だ。
(先生には絶対に見せられないな、こんなの)
苦笑しながら眺めていると、ふと視線を感じた。エマが引きつった顔で僕の手元をじっと見ている。
「やめて」
「え?」
「やめて。そんな物、手に取らないで。戻してよ」
低い声で放たれた言葉に戸惑いながら、僕はお面を棚へ戻した。
「どうしたの」
「昔、友達がね。魔女に攫われたの」
俯き、暗い表情でエマは呟く。
「……魔女なんて、迷信じゃない?」
僕はそんな風に、心にもないことを言わなければいけなかった。本当は魔女は子供を攫って食べたりはしないんだよ、と言いたい気持ちを堪えて。
「とても頭のいい子だったの。道に迷ったり、川に落ちたりして居なくなるなんてありえない」
「そんなことは……」
思わず否定しかけた言葉を止める。そんなことは誰にも言い切れない。でも、エマはそれを信じている。
僕の中で何かが繋がった。
たとえば、突然子供が居なくなった時。それが事故とわかっていればまだいい。理由がはっきりわからなかったら、家族はやりきれない。
そんな時は、魔女のせいにしたほうがましなのかもしれない。
「やめよう。こんな話しても楽しくないよね」
エマの愛想笑いに、同じように返そうとして、うまくいかない事に気がつく。
「……ごめん」
「えっ?」
「僕、用事があった。やっぱりもう行かないと」
呆気にとられているであろうエマの顔を、まともに見ることができない。自分がとても不自然なことを言っているのはわかっている。
それでも、この場に居るわけにはいかなかった。これからどんなに楽しげな音楽がかかったとしても、僕はきっとここで笑うことも踊ることもできない。
「ラスト?」
エマの声は不安げだ。
出会ったばかりでよく知っているわけじゃないけれど、エマは特に頭の悪い子ではないと思う。性格が捻くれているわけでもない。
それでもエマは、起こってしまった出来事を魔女の仕業だと考えることに、疑いを持っていない。
それは仕方のないことなんだ。なぜって、誰もそれを間違いだとは言わないから。
僕自身、そう主張することはできない。迂闊なことを言えば、僕が実際に魔女を知っているということ、あの山に先生が住んでいるということまで知られかねない。そうなった時に、先生を守る力は僕には無い。
「……わかった。そのうち、また会える?」
「次、いつ来るかわからないから」
声が震えそうになるのを必死に押しとどめながら、そう言うのが精一杯だった。僕はエマに背を向けて歩き出す。
澄み切った青空の下で、すれ違う人々は楽しげに笑い合っている。少し調子を外した子供の歌声が響いている。
楽団の演奏が始まった。跳ねるような太鼓の音。伸びやかな笛の音。石畳を踏み鳴らす足音。
その何もかもが、僕の心をかき乱した。僕は自分でも気がつかない間に走り出していた。
チックさんの店で荷物を受け取り、町の正門を潜り抜け、街道をひた走った。
僕は何もわかっていなかった。先生と暮らし続けるうちに、魔女を怖がる事が馬鹿馬鹿しくなって、何かきっかけさえあれば世間の人たちの誤解も解けるんじゃないかと思っていた。
これはそんなに簡単な話じゃない。
いったい、いつからこうなっているのだろう。おそらく僕の生まれる前からだ。
エマのような考えの人は、きっとどこにでも居る。
慎重に登らなければならないような険しい坂道もひたすら走り続け、何度も滑って転び、泥で汚れた膝がずきずきと痛んだ。
それでも足を止めて休む気にはなれなかった。あの、華やかな色彩と喧騒が後ろから追いかけてくるような気がして、恐ろしくさえあった。
ようやく、山中のボロ小屋のような家にたどり着く。扉を開き、転がり込むようにして入った室内は、静まり返って人影がなかった。
(……いない)
上がりっぱなしの息を整えながら立ち尽くしていると、先生が自室から顔を出し、声を上げた。
「ラスト? ずいぶん早かったな。祭りは見てこなかったのか」
その顔を見て、声を聞いて、僕は心底ほっとしていた。ここが自分の帰ってくるべき場所なんだと、確かにそう感じる。世間の誰かから見たらおかしな話かもしれないけれど、僕にとってはそうなんだ。
返事を返さない僕に、先生は不思議そうな視線を向けている。いつまでも黙っているわけにはいかない。
「……ただいま、です」
考えた挙句に言えたことは、そんなありふれた一言。
それでもきっと、何かがあったらしい事は察してくれたのだと思う。少し間を置いて先生は一言だけ返した。
「……おかえり」
こうして、僕にとっての花祭りの日は終わった。
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