早瀬の鳴り杖(前)
強い陽射しを照り返す水面の眩しさに思わず目を細める。鮮やかな緑の葉が一枚、小舟のようにゆらゆらと揺れながら僕のすぐそばを流れていく。
山の中を歩いてくる間は汗だくになっていたというのに、川の流れは思ったより冷たくて、長く浸かっていると凍えそうなほどだ。のんびりしてはいられない。
川底に沈んでいる網を、両手で勢いよく持ち上げる。網の一端は川岸に石で留めてある。ばしゃばしゃと激しい水音がして、いくつもの魚影が跳ねた。
網の中には大きめの鱒が五、六匹は入っていて、激しく暴れているせいで両手に感じる重みが不安定に変化する。
それでも、木の皮で編んだ網は簡単に破れたりはしない。これはアイーダ先生に作り方を教わって、僕が編んで作ったもの。
その先生はといえばさっきから僕の頭上、粗末な丸木橋の縁に腰掛け、足をだらりと垂らしたまま物思いに耽っている。
このところずっと、先生は心ここに在らずといった状態が続いていた。何も言わないけれど、きっかけは僕が持ち帰った新聞ではないかと思っている。
あの日、先生は僕が渡した新聞を熱心に読んでいた。眉間に皺を寄せながら、本当に隅から隅まで目を通していた。
「チックさんが、いずれ戦争になるかもしれないと言ってました」
「そんなに簡単にはならない。二年か……三年か」
「二年か、三年」
やっぱり、このまま行けば避けられないということだろうか。
そうなのであれば、やはり気がかりなことについて確認しておかなければならない。
「その、魔法の杖が原因っていうのは、本当なんですか?」
「それだけではないが、原因の一つではあるだろうな。この国は杖を持ちすぎている」
僕にも何となく理解はできている。元々の資源に大差が無くても、杖があって魔法が使える人が居れば、農業にしろ工業にしろ効率が全く違ってくる。交通や貿易でも差をつけることになる。魔法蒸気列車なんてものが走っているのは今のところこの国くらいだという。
「なんでそんなに杖の数に差がつくんでしょうか」
「単純な話だ。杖の作り手としては……ガーランドの一派が最大手で、あそこは他の国には杖を回さないから」
先生の口調には、明らかに苛立ちが含まれている。
ガーランドというのはたびたび耳にする名前だ。禁を破って魔法の使い方を人々に広め、魔法の杖を作って売っている人物。
一派というからには大人数で杖を作っているに違いない。先生と一対一で作り方を教わっている僕とは全然環境が違いそうだ。
「どうしてそんなことをするんだろう……」
「そういう主義の人間も多いということだ。自分の国だけを豊かにしたいような」
僕は暗い気持ちになる。どうしようもない事だと分かっていても、自分もやっている仕事が、巡り巡って争いの種になっていると思うといたたまれない。
そんな僕の様子を見かねたのか、先生が付け足した。
「一応、私の杖はこの国ではなくよそに売っている。どれほど意味があるかわからないが」
「そうなんですか?」
「チックに、そのように手配してもらっている」
それを聞いて少しほっとした。確かに、先生一人がそうしたところでどれだけの影響があるのかわからないけれど、少なくともむやみに国同士の差を広げるようなことにはなっていない。
安堵すると同時に。先生がそういったことをきちんと考えている可能性に思い至らなかったのに気がついて、恥ずかしくなった。僕とは違うのだ。
「……もっとも、本格的に争いが始まればそれも難しくなるだろうが」
そう呟いて、先生は再び紙面に目を落として食い入るように読み始めた。
あの時、先生は何を思っていたのだろうか。
「先生。魚、獲れましたけど」
呼びかけてもぼうっとした表情のままで、視線が合わない。
「先生!」
「ん」
大きく声を張り上げる僕にようやく気が付いて、先生は返事をした。
「小さいものは逃していい」
指示通りに、少し小さめの魚を網の外へ出してやる。魚が減りすぎないようにそうするのだということは何となくわかった。
川に網を仕掛けて獲ったこの魚は、別に食べるために獲ったわけではない。先生によれば、次に作る魔法の杖に必要な材料なのだという。
「じゃあ、あとは戻りますか?」
岸に上がり、水を張った皮袋に魚を移しながらそう尋ねた時。突然大きな水音が響いて、僕は顔を上げる。橋の上に先生の姿が無かった。
「……先生?」
川の中央から大きな波紋が立っている。
網を川岸に放り出して、僕はもう一度流れの中へ駆け込んだ。
さっきまで居た辺りは、僕の腰くらいまでしか水位はない。全然深くはない。
それでも、川は危ない。足が滑ったり、急に深さが変わったりして、大人でも溺れることがある。まして先生は片足が動かない。
必死に水を掻いて進んでいく僕の目の前で先生が立ち上がり、濡れた髪を掻き上げた。見たところ、怪我をしたり溺れたりしている様子はない。
「どうしたんですか!?」
「少し頭を冷やしたかったんだ」
事故ではなく、故意に飛び込んだということ。それがわかってほっとする一方で、別の感情が湧いてくる。
「それなら一言いってくださいよ。心配するじゃないですか」
「ああ」
胡乱な返事。その目が見ているのは遠い過去か、未来か、いずれにしろ今を見ていない。
僕は先生の手を掴んで、無理やり視界に入りこむ。そうでもしないと、いつまでもこんな状態が続きそうな気がした。
「居ないみたいに扱われるのは嫌です」
「うん。すまない」
先生の濡れぼそったまつ毛からぽたぽたと水滴が落ちる。ようやく金色の瞳がこちらを向く。僕は急に気恥ずかしくなって、今度は自分から目を逸らした。
家に戻ると、鱒の腹わたを抜いて、切り落とした頭と身を別の鍋で煮る。
ぐつぐつと音を立てている鍋を前にして、なんだか魔法の杖を作っているのか料理を作っているのかわからないなと思っていたら、身の方を煮ていた鍋には塩と香草も入った。そちらは本当に料理だった。
煮えた魚の頭を取り出して少し冷ましたら、次の工程に入る。
「頭の骨を割って、中身を取り除く……ここだ。小さな石があるのが分かるか」
先生が爪の先で示した場所に、よほど注意しないと見落としてしまいそうな一対の小さな骨のようなものが付いていた。
「小さいですね」
「ああ。でも必要な材料だ。これをよく洗って乾かす。きちんと洗わないと後で臭うぞ」
本当に小さな欠片なので、すぐに指先から滑り落ちてしまいそうで、おっかなびっくりで洗う。鱒は何度か食べたことがあるけれど、頭の中から石を取り出したのは初めてだ。
「耳のような役割をしているものらしい」
「魚に、耳……?」
「私も詳しくは知らない。母の受け売りだ」
先生の口から家族の話題が出るのは初めてのような気がする。
「先生のお母さんも、やっぱり魔法の杖を作っているんですか」
「私より、ずっと素晴らしい杖を作る魔女だったよ」
素晴らしい杖を作る魔女だった。過去の話だ。
「十年も前に死んだ。教わりたいことが山ほどあったが」
魔女が死ぬ。当たり前のことだけれど、僕は何だか意表を突かれたような気がした。
「ラストの母親は元気か」
「元気……だと、思います。身体は丈夫なので。しばらく、連絡を取ってないですけど」
「そうか」
普通なら、生きているうちに親孝行をしろとか、たまには顔を見せた方がいいんじゃないかとか、そんなことを言う場面だと思う。
でも、先生はそれから何も言わなかった。
そこに何か複雑な気持ちが感じられて、僕も迂闊なことが言えなかった。
先生の母親は何故亡くなったのか。父親は生きているのか。ずっと一人でここに住んでいたのか。
何一つ、気になることを聞けなかった。
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