円環の緑の杖(前)

「これ、何ですか?」


 それは何の変哲も無い、節くれだった木の棒だった。片手で持てるほどの長さで、先端にはやはり木の枝を蔦で結んで作ったらしい輪っかが取り付けられている。


「杖だ。まずはこれを作る」


 アイーダ先生の言葉に、僕はもう一度まじまじと目の前に置かれたものを眺めた。どう見ても、魔法の杖というよりは原っぱを走る子供が手に持っている遊び道具という感じだ。


「この杖が基本だ。これを作れなければ何も作れない」

「はあ」


 思わず生返事をしたところで、先生に睨みつけられる。


「つまらんと思っているな」

「いえ、そんな事は!」


 正直に言えば少し戸惑ってはいる。僕は杖に惹かれたのであって木の棒に惹かれたわけではない。しかし、これが最初の一歩だというなら真剣に取り組む必要があるのだろう。


「まずは材料を集める。外に出ろ」


 先生に促されるまま、僕は扉を開けて家の外に出た。なんだか相当な時間が経ったような気がしていたけど、まだ日は高い。木漏れ日に目を細めて、それからつい今まで自分が居た場所を外から眺めて、僕は閉口した。

 それは家というより、ボロ小屋と言うのが相応しい建物だった。崩れかけて全体が傾いていて、一面に蔦が絡んで、とても人が住んでいるようには見えない。魔女の家と言われれば、確かにそれらしくはあるけれど。


「北側は木が少ないから避けた方がいいが、それ以外ならどこに行ってもいい」


 指で方角を示し、先生は樹皮を編んだ籠を僕に渡した。


「木の枝を集められるだけ集めてこい。ただし、絶対に折って取らないこと」

「折らない?」

「そうだ。自然に落ちた枝だけを使う」


 どういう理由だろうとは思いつつ、頷く。


「野草の食べられる種類は分かるか」

「ええと、簡単なものなら」

「なら、それも摘んできてくれ。キノコは?」

「素人はやめておいた方がいいって言われました」

「賢明だな。暗くなる前に戻れよ」


 それだけ言うと、先生はさっさと家の中に戻って行った。

 取り残された僕は、仕方なく特に木の多そうな東側へと歩き出す。道は細い獣道があるかないかという具合で、なるべく分かりやすい道を進もうと思っていたのに、それも難しいほど歩きづらい。

 注意深く地面を見渡してみても、草や葉ばかりで意外に枝は落ちていないし、かといって下ばかり見ていると現在地がわからなくなるので忙しい。

 山で迷いやすいのは目印がないからだ。ちょっと変わった形の木なんかを目印にしてしまうと、同じような物が出てきてすぐに迷う羽目になる。何度も振り返って、自分が出てきた家が小さく見えるのを確認しながら進む。


 目についた野草を摘みつつ用心深く進んでいると、行く手に一本の手ごろな枝が落ちている。その枝を拾い上げようと屈んだ瞬間に、ふと僕は重要なことに気がついた。


(しまった。さっきのあれ、もっとよく見ておけばよかった)


 拾うにしても、どんな枝を拾って帰ればいいのだろうか。見せられた杖は割とまっすぐな枝だったと思うけれど、長さ、硬さ、重さはどんなものだったか、細かい特徴が全然分かっていない。拾っていった枝が使えないものだったりしたらまずくないだろうか。

 一度家に戻るべきか。それとも、わからないなりにこの枝を拾って帰るべきか。

 悩んでいるうちに、今度はいまにも樹から落ちそうな一本の枝が視界の端に映った。おぼろげな記憶の中の杖と、見た目が似ているような気がする。


(……人が折るのと、風とか獣に折られるのと、何が違うんだろう)


 何かが違うようには思えない。あの枝を取って帰ればそれで済むんじゃないか。そんな誘惑が頭をよぎる。

 ざざざ、と風が木の葉を揺らす音。遠くから聞こえてくる鴉の鳴き声。折れかけの枝は僕を誘うようにぶらぶらと揺れている。


 それでも結局、僕は地面に落ちていた枝を拾うことにした。僕は魔法の杖作りに関しては全くの素人だ。基本も覚えていないのに勝手な判断をすべきじゃない。そう思ったからだ。

 一本を拾い上げると少し離れた場所にもう一本落ちているのが見つかって、また拾う。それを繰り返して、籠はいっぱいになった。


 帰路をたどって家に着く頃には、紫色に染まった空に蝙蝠が舞い始めていた。山の中だと日が暮れるのがあっという間に感じるのは何故だろう。今日は一度道に迷って散々な目にあっていることもあって、明かりが見えると心底ホッとする。どんな場所であれ、帰る場所があるという事はありがたい。


「戻りました」


 ドアを開けて中に入ると何やらいい匂いが漂っていて、先生が夕食を作って待っていてくれたことが分かった。それだけで僕はもうすっかり、先生に対する恐れや不安が消えつつあった。魔女が人をさらって食べるなんて言われているのは下らない迷信だろうという気持ちになっている。


ニレの枝だな」


 先生が籠の中を一瞥して思案顔になったので、僕は恐る恐る尋ねる。


「ダメですか?」

「いや。何を選んでも不正解という事はない。ただ、お前が最初に何の枝を選ぶかが重要なだけだ」

「えっ」


 そんな話は聞いていない。


「あの、何も考えずに拾って来ちゃいましたけど」

「あれこれ教えるとお前の意思ではなくなるから言わなかった。ニレは素直だから、初めて作るには向いている。この先も世話になるだろうさ」


 ホッとする一方で、何だか自分にはわからない決まり事で話が進んでいる気がして、ちょっと落ち着かない。もしもあの時、枝を折って持ってきたらどうなっていたのだろう。


「座れ。食事にする」


 食卓に着くと、木の器に入ったスープと炒った木の実が並んでいた。てっきり食事の支度なんかは全部自分がやらなければいけないと思っていたので、感無量だ。

 魔女は人を攫って食べる。そんなものはきっと迷信だ。もし本当だったら、魔女の家で眠っていた僕はこのスープの具材になっているはずだ。


「いただきます」


 山の中を歩き回ってかなり空腹だった僕は、勢いよくスプーンを口に運んだ。少し塩気が足りないけれど、疲れた体に染み渡るようにおいしい。馴染みのない香りと独特の風味がある。なにげなくたずねた。


「これ、何のスープですか?」

「魔女が何を食べるか知らないのか。聞いた事がないのか」


 スプーンを持ったまま固まっている僕を先生は愉快そうに眺め、自分は黙々と口に運んでいる。僕の考えが甘かったのだろうか。


「食べないのか」

「う、うう」


 スープの中に、刻んだ野草と一緒に何かの肉が浮かんでいるのを見た瞬間、ついさっき消えていったはずの魔女に対する不信が湧き上がってくるのを感じた。顎を動かそうとしても、悪寒がぞわぞわと背筋を走り抜ける。とても飲み込めない。


「私はこの山で取れたものしか食べない。塩くらいは足すが。それはヒキガエルの肉だ」


 ホッとした後に、もう一度驚いて喉の奥から変な声が出た。ヒキガエル。食用にする地域もあると聞いた事はあるけれど、これがそうだなんて不意打ち過ぎる。せめてもっと心の準備が出来てから聞かせてほしかった。


「人の肉だと思ったか」

「いえ、全然そんなことは……」

「実際食べていたらしいがな。昔は」


 衝撃的な告白に、僕は再び言葉を失った。


「この国の南部の方で、葬儀の際に親族や親しい友人が遺体の腕や足の肉を切り取り、口にする。そういう習わしがあった」

「えっ。いや、それは……全然別の話じゃないですか?」

「そのうちに廃れた。誰もそんな事はしなくなって、するべきではない、するはずがない、そういうものになっていった」


 次第に、先生の口調に静かな熱が籠り始める。


「そうすると、遡ってそれはになったのさ」


 僕は何も言えなくなってしまった。先生は怒っていた。金色の瞳に怒りが燃えていた。今語られた事が真実だと証明するものは何もない。ひょっとしたら、都で歴史を勉強しているような学者の人達ならば知っているのかもしれないけれど、世間一般では誰もそんな事は知らない。


「……それが本当なら、みんなに分かってもらう事はできないんでしょうか」

「何度もあった、そう言う試みは。何度も失敗したんだ」


 僕はスプーンを動かして、ヒキガエルの肉を口に詰め込んだ。もぐもぐと噛んで無理やり飲みこんだ。僕には歴史を変えることなんてできないし、長い時間の中で多くの人の中に染み付いた偏見を取り払う事だって、できる気がしない。それどころか僕自身も、きっと知らずに色々な偏見が染み付いているんだろうと思う。


「おいしいです」

「無理をするな」


 何もかも先生に見透かされながら、それでも僕は言った。


「本当に、おいしいです」


 こんなことから始めるしかないんだと、そう思ったから。

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