第十九章 前夜(11)

十一


 琴代志乃ことしろしのは、そこにいるように見える。鑑三郎の目には。


 今の鑑三郎は、二枚の布を上下にうねる縫い針のように、リアル・ワールドとことだまワールドをほとんど瞬時に、自在に行き来していた。その意識の往復運動があまりにも早く、あたかも彼は、両方の世界に同時に存在しているように見えた。今や鑑三郎は究極のレシプロケーターだった。


 志乃は、ことだまワールドで、鑑三郎が気に入って購入したこの中古の古民家と、同じ空間座標に存在していた。パラレル・ワールドにまたがる鑑三郎にとってみれば、この古民家に志乃と同居しているも同然だったが、縁側に立つ志乃の姿はリアル・ワールドの住人には見えていないので、鑑三郎の言動を目撃した者の目には、しばしば奇異に映っただろう。


 鑑三郎は、縁側にあったラジオを切ると、サッシを開け放ったままの居間の畳に座り、ことだまワールドで志乃が淹れた茶をすすった。


 絹糸のような雨が「シーッ」という音を立てて一斉に辺りを濡らし始めた。風も伴うので、春雨というには少し風情のない降り方にも思えたが、湿った地面や草木からむせるような匂いが立ち昇るのは、ここ数日の陽気のせいだろうと鑑三郎は思った。志乃には悪いが、ことだまワールドで味わう茶の何倍も、雨の匂いにはリアリティーがあると思った。


「若い奴らがニューヨークでやりおったそうだ」


「そうですか。では手伝わない訳にはいきませんね」


「うむ。しかも三人の救国官の一人は、万三郎という名前らしい。もちろん本名ではないが、俺とよく似た名前なんて、ちょっと愉快だ」


「あなたにちなんで古都田社長がつけたのではないですか?」


「いやあ、大泉万三郎総理にちなんだんだろうよ」


 鑑三郎は壁際の柱に掛けられた日めくりカレンダーと、その横の振り子時計に目をやって志乃に言った。


「この時間ならもう帰国しているはずだ。また愉快なことに石川の話では、彼らは伊勢の神宮で祈りたいと、大泉総理に直接願い出たそうだ」


「まあ、伊勢へ?」


「うむ。良い選択だ。ただ、民間の飛行機と高速道路の通行は制限されているから、ひょっとしたら、自衛隊のヘリあたりで伊勢へ向かうのかも知れんな」


 鑑三郎はそう言うと茶を飲み干した。


「では、今夜にいたしますか?」


 志乃は柔らかな表情で鑑三郎に問う。


「うむ。俺もよく生きた。志乃とも連れ添えたし、思い残すことはない。この蕾が開くのと富士山頂を見られんことを除いてはな」


 そう言うと鑑三郎は立ち上がってひとしきり桜を眺め、麓しか見えない富士を眺めて、それからサッシ窓を閉めた。


 小さくなった雨音に紛れて、振り子時計が微かに「カ……カ……」と音を主張し始める。


 志乃は鑑三郎に寄り添った。


古都田ことだ現社長の了承を得ていますので、会社の方も、これまで千七百年ほど蓄積してきたエネルギーを全部、吐きだしますわ。きれいさっぱり」


「む。古都田くんがそれを了承したのか」


「私の願いを喜んで聞き入れてくれました。『千七百年もこの会社を切り盛りしてこられた創業社長のご意見に、わずか十余年の経営経験の私が、何の異論がありましょう』と言ってくれました」


「うむ。会社が総力を挙げて挑むのであれば、これは可能性がさらに高まる。さすが志乃、いや、邪馬台国女王、壱与いよだ」


「やだ、昔の名前で呼ばれると、何だか恥ずかしいじゃないですか」


 リアル・ワールドに在世した三世紀頃と変わらず、二十歳そこそこにしか見えない志乃は、着物の袖で赤ら顏を隠しながら、隠されていない目で鑑三郎に微笑んだ。


 雨脚が強まり、春雷が近づいた。

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