第十九章 前夜(10)
十
内村鑑三郎は、畑仕事の手を止めて上空を見上げた。朝九時の時報とともに、どんより真っ暗な空からポツリポツリと雨が降ってきた。縁側に置かれたラジオが時折りザラザラいうのは、どこかで春雷が電波を邪魔しているのだろう。
NHKラジオはニュースの第一報に台風情報を流した。
「……超大型で猛烈な台風一号は、四日午前八時五十分現在、奄美大島の東百六十キロの海上にあって、一時間におよそ四十五キロの速さで北北東へ進んでいます。中心の気圧は八百六十五ヘクトパスカル、中心付近の最大風速は七十五メートル、最大瞬間風速は百メートルで、中心から半径二百キロ以内では、風速二十五メートル以上の暴風となっています。また、中心の東側八百キロ以内と西側六百キロ以内では風速十五メートル以上の強い風が吹いています。気象庁によりますと、この時期には異例の台風が、太平洋の南(みなみ)海上で発生、高い海水温と気流の関係で大きく発達して、観測史上最大級の勢力を保ちながら日本を直撃する見込みで、充分な警戒が必要です。先ほど暴風域に入り、雨風ともに強まってきている鹿児島市内、NHK鹿児島放送局の平岩さんと電話がつながっています。平岩さん……」
――やれやれ。明日、史上最悪の台風に襲われるかも知れない、地球が消滅するかもしれない、そんな悲惨な状況になっても、この冷静沈着な報道。さすがはNHKだな。
鑑三郎はひとり、少し皮肉めいた笑いを浮かべながら、移植ごてやら剪定ばさみやらの農具を片付けた。
ベテルギウスの超新星爆発からこのかた、確かに異常と思えることが多い。先日は富士山をバックに赤いオーロラが輝いた。もちろん、その幻想的な映像はテレビで流され、地球滅亡の噂に油を注ぐ、全国的な騒ぎになった。
鑑三郎は、山梨県側から見る富士が好きだったが、ここ数日、富士は五合目より上はその姿を見せてくれていない。このまま悪天候が続いて、アポフィス衝突で地球が滅びるまで、もうその勇姿が見られないのかと思うと、数日前まで毎朝会ってきた友人を失うかの如き寂しさを感じた。
内閣府の事務次官を退官した後も、元部下や関係者がひっきりなしに内村を慕い、意見を求めて東京白金台の自宅へやってきた。あまり来るのでうるさがって、三年前、ついに東京を引き払って、富士を仰ぎ見る山梨県のこの村に独り隠居し、手すさびに庭で土いじりをして暮らすことにしたのだったが、やはり一部の部下たちは鑑三郎と深い交わりを続けた。その中には内閣府情報調査室審議官の石川卓もいた。
総理官邸に呼び出されてから後は、アポフィス衝突予定日時と回避行動の検討や準備に関する情報は逐一、石川を通じて鑑三郎の耳に入っていた。
一方、日頃付き合っている近所の人は、鑑三郎のそのような過去を知らない。退職をしおに田舎暮らしを始めた男やもめが三年も土地に居着くと、近所の人は次第に心を許し、時には漬物だの餅だのを差し入れたり、野菜の植え付けや、地元の味噌の作り方の指南をしたりと、よく面倒を見てくれた。
鑑三郎は人当たりが良いので村人から好かれてはいたが、ただ――時々、そこに誰か人がいるかのように独り言を言う――と、その風変りな素行を噂されたりもした。
近所の親父が軽トラックを減速させて、自給用の畑にたたずむ鑑三郎に声をかけて行く。
「おーい内村さん、野良仕事は今日はだめずら。おしめいなって。こりゃあ、本格的に降るずら。
「ほだなあ。おおきんよう」
鑑三郎は手を上げて親父の軽トラックを見送った。これまで親切にしてくれたことに心から感謝する。
「あら、降ってきましたね」
サッシを明け放った縁側に、奥から黄八丈を着た若い女が出てきて、風で降り込む雨粒が縁板をまだらに濡らすのを見て天を仰いだ。ラジオはまだ各地の台風情報を報じている。ポツリポツリの雨粒を時折風が吹き流す。遠雷が聞こえた。
「いよいよ、明日か」
そう言いながら沓脱石に履物を揃えて縁側に上がり込んだ鑑三郎は、首に掛けた手ぬぐいで濡れた顏を拭きつつ、庭を振り返る。
平地より少し気温が低いこの山裾の庭でも、ソメイヨシノの蕾がいっぱいに膨らんでいた。
「アポフィスも、花が開ききるまで待っていてくれたらいいものをなあ、
「本当に、ねえ」
志乃と呼びかけられた女は鑑三郎に寄り添うように立って桜を眺めた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます