第十九章 前夜(3)


 万三郎は目を丸くした。杏児は万三郎越しに、まだ目覚めないユキを見やった。


「こいつ、本当に死ぬ気で身投げしやがった。考えてみればさ、ユキも可哀そうなんだよな……。高速学習の後遺症と、心の傷を抱えたまま、もう一回、同じ高速学習環境に押し込められて……。しかも、不本意な監視の任務まで命じられて、俺たちと一緒の間、ずっと罪悪感にさいなまれていたんだ、きっと。一言も相談できずにさ」


「そう……だな」


 万三郎も杏児につられてユキを振り返った。杏児が続ける。


「こいつ、タッチ・ハート作戦でお前の演説中も、必死で働いてたぜ。半年前の贖罪のように、相当なことだまのエネルギーをワーズたちに載せて送り出してた。よく気力と体力が持ったもんだ」


「そうか……」


「あの時、俺は裏切られた怒りで、ユキを認めようとしなかったけど、今考えると、死ぬ気で働くって、ああいうことを言うんだなって、思う」


「……」


 万三郎は、ユキの苦悩に思いを馳せていた。往きの飛行機の中で、「手を握っていて」と万三郎に言った時も、自分だけが仲間を監視するミッションを担っていることや、半年前に致命的な失敗をした場所を再び訪れなければならないことを決して口にできない代わりに、彼女が発していた悲鳴だったのではないだろうか。


 ユキは寝息ひとつ立てずに眠っている。


「万三郎……」


 杏児の呼びかけに万三郎は振り返る。


「今度は三人、一緒だ。次は実際に【hope】をアポフィスに向けて送り出す『偉大なる絆グレート・ボンズ作戦』だな。ユキに負けないように伊勢神宮で一丁、やらかそうぜ」


「ああ」


 二人は改めて目の前でがっしりと右手を組み合った。


 手を組んだまま、杏児が眉をひそめた。


「万三郎、お前……いやに手が熱いぞ。大丈夫か」


 万三郎は笑いながら手を解き、その手でボタンを押して自分のシートを倒し、仰向けに寝転がって、供え付けのものと併せて三枚の毛布を重ねて拡げた。


「決戦は明日だ。お互い、体力を取り戻そうぜ」


 杏児は訝しんだが、万三郎が話をはぐらかしたのを、あえて問いただそうとはしなかった。杏児もシートを倒して横になり、供え付けの毛布を被った。


 毛布の陰から万三郎が言う。


「杏児、一瞬でことだまワールドへ飛べる瞬時レシプロの技術、いつ習得したんだ?」


 杏児も毛布の陰から答える。


「あの時が初めてだ。直感的に、何とかしなきゃって思いがよぎって、そしたら僕の手が突然、ぐんぐん伸びて、スローモーションのように、落ちていくお前たちに届く感覚に襲われた」


「カーチェイスの最中、古都田社長と新渡戸部長がやっていた技と同じじゃないのか」


「そうかもしれない。恵美さんが言ってたように、確かに、ほんの一瞬ですごい体力と精神力を使った。年配の人には生死に関わるかも。僕でさえ、しばらくあの場に座り込んで放心状態になったよ」


「杏児、お前、レシプロケーターの才能、あるんじゃない? 古都田社長の後継者になれるよ」


「やめてくれ。僕は望んでETになった訳じゃないし、KCJの社長になんか……」


 そこまで言って杏児が話すのを止めたのは、万三郎の寝息が耳に入って来たからだった。


 万三郎は杏児が言葉を止めたところまで認識したものの、もう会話を続けることができなかった。


 ――万三郎のやつ、もう、落ちたのか。


 杏児がそう思うのと時を同じくして、機内の照明が暗くなった。


 杏児は毛布の中で寝返りを打ち、何気なく顔を出してみてぎょっとした。窓越しに、ベテルギウスが赤い妖光を放っていたからだ。杏児は慌てて目をそむけ、毛布を引き上げる。


 ――アポフィスが……今、この時も、地球に向かっている……。


 にわかに杏児の腹にアドレナリンが分泌される感覚が襲ってきた。


 ――そうだ。今はまだ、状況は何も変わっていない。石川さんの話が正しければ、おおよそ三十六時間後、アポフィスは、確実に地球に衝突するんだ。


 毛布の中で目を閉じた杏児の瞼の裏に、ちづるの顔が浮かんだ。

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