第十九章 前夜(2)


 石川は杏児を睨みつけ、声を押し殺して言う。


「お前など本来、まだ山でカチカチに凍っているはずだったんだ。国が動いて、お前が生前、保険に加入していたことにしておいた。すべての費用が保険から出るとお前の親には警察から話が行っている。だがお前が望むなら、これまで国庫から出ている、お前の救出と生命維持に関わるすべての費用――まあ、一億は下らんだろうがな――を、あらためて親に請求した上で、お前ひとり冬山に戻して、永遠の眠りにつかせてやってもいいんだぞ」


 杏児は目を見開いて石川を見つめた。首を絞められる形になっているので、声が出せない。


「国家権力を甘く見るな。機密を不用意に口にすると、ある日突然、存在自体がなくなるぞ。これは警告だ。分かったか」


 押し殺した声で「分かったか」と言われても、襟首をねじ上げた手が顎を下から突き上げているので、頷くことも声を出すこともできず、杏児は石川の手に自分の手を重ねて、外してくれとただ目で懇願するしかなかった。


 二、三秒の後、石川は手を離し、念押しするように絡めていた視線をようやく杏児から外して、床に飛んだ書類を拾った。


 そこへ前の通路から万三郎が蒼白な顔で歩いてきて、石川の前で立ち止まった。


「石川さん、着替えてきました」


「ああ」


 石川は拾った書類をブリーフケースに戻して口金を閉めて立ち上がる。


「福沢は、大丈夫だそうだ。俺は戻る。前のセクションで統合幕僚副長と打ち合わせを済ませてから休む。しばらくは起きているから何かあったら報告に来い」


「はい、分かりました」


「ああ、それから、伊勢行きのヘリに羽田からすぐ乗り換えて飛べるよう、副長に念押ししておいてやる」


「ありがとうございます、石川さん」


 石川は万三郎ではなく、杏児にチラリと目をやり、さらにまだ目が覚めないユキを一瞬見やってから通路を前へと歩いて行った。


 石川が座っていた席に、万三郎が座った。


 石川と入れ違いに先ほどの客室乗務員が万三郎に毛布を持ってきた。


「あ、すぐに持って来ていただいてすみません。もう一枚、それもお借りできますか」


「もちろんです。二枚で大丈夫ですか」


「足りなければまた、お願いすると思います」


「かしこまりました。いつでも」


 そう言って客室乗務員の女性は万三郎に毛布を手渡して、ユキが先ほどと変わりないのを確かめてから歩き去った。


 杏児は、飛んだシャツのボタンの所在を求めて視線を巡らせたが、結局見つからず、チッと舌打ちをして、ひじ掛けを叩き、「クソッ」と吐き捨てた。


「杏児、どうした」


「いや、何でもない」


「そうか……で、ユキは」


 万三郎はユキを振り返った。杏児が答える。


「石川さんの言った通りだ。怪我も障害もない。もうすぐ眼が覚めるだろうって。おぼれなくて済んだのは、お前がすぐ水の中から引き上げたからだろう」


「そうか……よかった」


 万三郎はしばらくユキの寝顔を見てから、杏児に向き直って、その手を取った。


「杏児、改めて言う。ありがとう。お前が助けてくれなかったら、俺もユキも死んでいたかもしれないし、生きていても飛行機に間に合わなかった」


 杏児は万三郎を見返して言う。


「万三郎、俺はユキを赦すよ」

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