第十九章 前夜(1)


 雨と相当な強風の中、日本政府専用機は辛うじてJFケネディー空港を離陸し、上昇を始めていた。


 揺れる機内の後ろの方のセクションは、帰国を許された在米邦人高官とその家族で満員だった。


 そのセクションとはカーテンを隔てて、こちら側、随行員席のシートに、救国官たちは席を得ていた。横並びで、窓側から杏児、万三郎、そして通路を挟んでユキだ。まだ意識のないユキが横たわる席は、特例で離陸時からフルフラットに倒されていた。点滴を施され、体温や血圧や脈拍がモニターされている。


 三人の前数列と後ろ数列は、ニューヨークを発った時点ではまだ空席となっている。


 上空に至り、多少揺れが収まったところで、シートベルトサインが消えた。


 ブリーフケースを提げて前のセクションから歩いてきた石川の指示で、濡れた服を着替えるために万三郎が席を立った。その万三郎の席に石川は一時的に座り、ブリーフケースから書類を取り出しながら、コール・ボタンを押して客室乗務員を呼んだ。


 間もなく、自衛官でもあり、かつ医師免許も持っているという女性乗務員がやって来て、フルフラットシートに横たわっているユキのモニターの数値をチェックした。そして書類から目を離した石川審議官に落ち着いた声で報告した。


「バイタルが安定しているので、しばらくしたら目が覚めると思います」


「そうですか、ありがとうございます」


 石川は頷いてから乗務員に尋ねた。


「ところで、この飛行機はロスに立ち寄るのですよね。羽田にはいつ着きますか」


「はい。ロサンゼルスでは数十名の邦人高官を収容するため、三十分から一時間トランジットします。その先、日本の近くにも強い台風が近づいているので、影響がどのくらい出るのかまだ分かりませんが、日本時間で四月三日の朝六時頃に羽田空港に到着することを目指しています」


「なるほど、ありがとうございます」


 石川は腕時計をちらりと見て、それから乗務員に礼を言った。乗務員が頷いて石川のもとを離れると、石川の横に座っていた杏児が石川の耳元で囁いた。


「石川さん、僕は……僕はいったい、どちらの世界の住人なんでしょうか」


 石川は杏児の方を見もせずに、ブリーフケースを取り出すと、ふたを開けて今まで目を通していた書類を仕舞い込んだ。


「喜ばしいことじゃないか、お前の機転の利いたレシプロのおかげで、こいつらの着水衝撃を緩和できたんだろう? 奇跡的に二人の命を助けた。お前の瞬間レシプロ能力の賜物だ」


「自分でも驚きました。石川さん、だからこそ、怖いんです。僕は……何者なんでしょうか」


 石川はもう一枚の書類を取り出して腕時計と見比べ始めた。


「三浦、今お前の哲学問答に付き合っている暇はない」


「ユキから全部、聞きました」


 杏児がそう言うと、石川はギロリと視線を杏児に向けた。


「古都田社長がユキに監視を命じた、ということは石川さんの意向を受けてということですよね」


「……知らん」


「高速学習で何人かの人が精神異常をきたしたと聞いています。何の権利があって危険な人体実験をするのですか」


「……」


「小村、ちづるって名前に聞き覚えがあるでしょう?」


「……」


「今、何て名前でリンガ・ラボのカプセルに収容されているのですか。あの子におかしな人体実験したら、僕はあなたを許さ……」


 石川はいきなり、書類を放り出した右手で杏児の襟首をガッとつかんだ。びしょ濡れのまま搭乗して、さっき機内で着替えたばかりのシャツの第二ボタンが吹き飛んだ。


「若造、口のききかたに気をつけろ」

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