第十五章 紐育(15)

十五


「という名前の人……?」


 杏児は万三郎の問いに頷く。


「おかしな言い方だろ?」


 杏児はそれから、ユキを見て続ける。


「ユキが言ったように、羽田へ向かう車の中で、恵美さんは泣いて僕に言った。僕の帰りを待っている人がいると」


 万三郎が反応する。


「杏児、それは俺も聞いていた。パトカーに乗り移る直前のことだ。それで恵美さんは杏児のことが好きなんだなと俺は思ったんだ」


 杏児は石に視線を移し、ぼんやりと見ながら続けた。


「確かに恵美さんは僕を想ってくれていたのかもしれない。僕は飛行機の中でつらつら考えた。『小村ちづるという名前の人については、いません』という答え方は不自然だ。そして気づいたんだ」


 杏児は再び万三郎を見た。


「僕の本当の名前は、馬込颯介まごめ そうすけだ。だけど、KCJでは三浦杏児ということになっている。あのカプセルの検体につけられた名前が、小村ちづるじゃなくて、別の名前なら存在している、と恵美さんは言いたかったんじゃないか。漏えいしてはならない機密事項だからああいう言い方しかできなかったんじゃないか。そして、『あなたの帰りを待っている人』というのは、恵美さん自身もそうかもしれないが、本当はリンガ・ラボで眠っている、ちづるのことなんじゃないか。もしそうなら、ちづるともう一度会えるかも知れない」


 万三郎は頷いた。


「なるほど、その可能性は、ある」


 ユキは相変わらず下を向いていた。


「ビバークするべきか下山道をさぐるべきか。万三郎、あの時僕は、迷っていたんだ。そしてその優柔不断さが最悪の結果を招いた。彼女が頼れるのは僕だけという状況で、僕は彼女を絶望に巻き込んでしまったんだ」


 一瞬、沈黙があった。そして杏児が万三郎に言った。


「僕は信じることにした。ちづるはあのカプセルの中で生きている。それなら、僕にはまだできることがある。ちづるを守る。大切なものを守る。それがたまたま人類を守ることと同じなのなら、僕は人類を守る。最後まであきらめずに、為すべきことを為して、僕は、僕を待っている人のもとに帰る」


 杏児は万三郎に向かって上体を倒し、片手を万三郎の肩に置いて言う。


「大切な人を守るためにできることが残され、することを許されている僕らは幸せなんだ。万三郎、僕はやるよ。お前のスピーチの間、ことだまワールドで、タッチ・ハート作戦に最善を尽くす。いいか万三郎。人類を守ると思うな。大切な人を守ると思え。それがたまたま人類を守ることと同じだっただけだ」


 杏児は目だけをユキに向けた。


「お前の、大切な人を守れ。できるな、万三郎」


「ああ、分かった」


 万三郎は杏児に二度、頷いた。


「杏児、ありがとう。やれるだけのこと、やってくる」


「ああ、お前ならできる」


「ワーズたちのこと、よろしく頼む」


「ああ、僕とユキに任せとけ」


 万三郎は頷くとユキを見た。


「ユキ……、このミッション成功させて、一緒に日本に帰ろう」


 ユキは泣いている。


 ノックがあった。


「行け、救国官、中浜万三郎!」


 万三郎は杏児と握手を交わし、ユキの肩をポンと叩く。


 扉を開けて顔を出した佐東に頷いて、万三郎は瞑想室を出て行った。


 声を上げて泣いているユキに杏児がポツリと言う。


「ユキ……やっぱり君も、恵美さん同様、全て知ってたんだな」




◆◆◆

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