第十五章 紐育(14)
十四
「恵美さん、どうして杏ちゃんに……」
「ユキ、どうして僕じゃいけないんだよ」
万三郎からコップを受け取ると、杏児は三杯目のお茶と錠剤をユキに差し出しながらちょっと不満気に言った。
「そう言えば恵美さん、カーチェイスの時、きっと帰って来てって杏ちゃんを見て泣いてた」
「ユキ、早く飲めよ。恵美さん、ユキのことを一番心配してたぞ。彼女、極度の上がり症だからって」
「ふん、大きなお世話よ」
ちょっとふて腐れながらもユキは、スマホを上着の内ポケットにしまい、杏児からお茶と錠剤を受け取って、すぐに飲んだ。錠剤をのどに流し込んで飲み込むと、すぐユキが訊く。
「ひょっとして、杏ちゃんと恵美さんって……」
「えっ、杏児、そうなのか?」
ユキからコップを受け取ると、軽く拭って水筒の蓋を閉め、カバンにしまいにかかる。
「違う。そんなんじゃない」
「恵美さんは杏ちゃんのこと好きなんじゃないの? お似合いなのに……」
杏児は閉じたカバンをじっと見たまま、答える。
「僕には恋人が……」
万三郎もユキも驚いた。
「ええっ! 誰? KCJの人?」
杏児は顔を上げて真っ直ぐユキを見た。
「僕……思い出したんだ」
「な、何を」
ユキは上目使いにのぞき込むように杏児を見つめ、次の言葉を待った。
「KCJに来る前の自分の記憶だ」
目を見張るユキから視線を万三郎に移しながら杏児は、思い出した記憶を咀嚼するように、話し始める。
「大学を卒業する春、ちづる……小村ちづるという恋人と、北海道の大雪山へ登山に行ったんだ。三月の大雪山はまだまだ冬。僕はN大の登山部に所属していたから冬山登山の経験と技術はあったけれど、後輩でもある彼女は夏山のみで冬山は初めてだった。僕は彼女に冬山の美しさを教えたくて誘ったんだ。無事登頂したものの下山する途中で天候が急変してひどく吹雪いた。ビバークするか悩みながら、僕らはなお歩いた。視界のない冬山で、結局、道に迷い、ルートから外れて、最後に二人して滑落したんだ」
万三郎は杏児をじっと見守っている。ユキは杏児の座っているあたりの床を黙って見つめている。杏児は手にしていたカバンの肩ベルトをぎゅっと握りしめて、「僕の判断ミスのせいだ」と言った。
「ふと気がつけば、僕はKCJ社長室に立っていた。その時、遭難したことや、ちづるのことは全く記憶に残っていなかった。ラボで覚醒した時、僕らのカプセルの向こうに、何台も同じようなカプセルが並んでいたろう?」
ユキは無言だったが万三郎は頷いた。
「その後、古都田社長たちから事実を聞かされて、僕らは新渡戸部長の指導でセルフ・レシプロの練習をした。三人が代わる代わる練習をしている合い間に過去の記憶を取り戻した僕は、そっと恵美さんに訊いたんだ。『あのカプセルの並びに、小村ちづるという女性はいませんか』と。すると恵美さんは……あの恵美さんが、とても悲しそうな顔をしたんだ。彼女はしばらく黙って考えていたけれど、やがて、『小村ちづるという名前の人については、いません』と答えた」
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