第十五章 紐育(13)

十三


「万三郎、ユキも、まあ座れよ」


 万三郎は言われるがままに石の前に置かれた椅子に座る。ユキは杏児にもう一度目で促されたが、「のんびり座ってなんか……」と口の中で小さく言いかけた。杏児は語気を強めて、「まあ、座れって!」と言う。その迫力に気圧されて、ユキは床に座った。杏児は部屋の脇に置いていた自分の肩掛けカバンから、一人用の保温水筒を取り出して、それを手に二人と三角形に向き合うように杏児も座る。


「万三郎、スピーチ、準備できた?」


 万三郎は杏児をジロリと睨んで答える。


「やっぱり、俺には無理だ」


 ユキが呆れたようにつぶやく。


「無理って、そんな無責任な……」


 万三郎は今度はユキを見やってムキになって言い返す。


「無責任? ああ、そうだな、俺は無責任だ。俺一人で七十億人は救えない。悪いか」


「あなた一人じゃない! 私たちも……」


「だったら君がスピーチすればいいじゃないか! 俺は喜んで譲るよ」


 ユキの言葉にかぶせるように喰ってかかる万三郎。


「俺が望んだんじゃない。どうして俺がこんな役目に……」


 万三郎はそう言うと頭をかきむしって、右手でこぶしをつくると傍らの壁をドンと叩いた。


「そうだ万三郎。お前が望んだことじゃない。なのに世界を救えという。勝手だよな。理不尽だよな。そりゃあ悩むよな」


 杏児はそう言いながら、水筒のふたをコップにして中身を注いだ。


「よくセキュリティー・チェックで没収されなかったよ」


 次にそのコップを脇に置き、内ポケットから白い錠剤を三つ分取り出した。杏児は錠剤の一つをプチッと開け、中身を手のひらに置くと、コップを手に取り、錠剤を口に含んで、液体でゴクリと流し込んだ。万三郎とユキはその様子をただ怪訝な表情で見守っている。


 杏児はすぐに二杯目を注いで、そのコップを万三郎の前に差し出した。


「飲んでくれ」


 杏児はコップを手渡し、さらに錠剤をひと粒、自らプチッと手のひらに落とし、それも万三郎に手渡す。


「これもだ」


 万三郎は両方を受け取ると怪訝な顔で杏児を見つめる。


「杏児、何これ」


 杏児はわざと気楽な顔をつくっておどけたように言った。


「ほら、リンガ・ラボで恵美さんが出してくれたお茶、あったろ? 心が落ち着く効果がある特別なお茶だと言って。あれの冷茶だよ。錠剤はさ、KCJ特製、精神安定剤だってさ」


 言われるがままに手元を見つめた万三郎が、顔を上げて不思議そうに問う。


「なんで杏児がそんのなもの、持ってんの」


 杏児が少し笑った。


「リンガ・ラボの出発直前に、恵美さんが僕に手渡してくれた。一日や二日なら傷まないから、ミッション遂行の前にみんなで一杯ずつ飲んで。錠剤と併せると本当によく効くらからと。ただ、効果はせいぜい一時間しかもたないから、本当に直前に飲んで欲しいと。そして今がその時だ」


 杏児はそう言って万三郎に目で合図した。万三郎は少しの間杏児を見つめていたが、やがて小さく頷くと、錠剤とお茶を飲んだ。

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