第十五章 紐育(5)
五
ユキは、処理しきれない感情の中で、過呼吸めいた症状が出始めていた。とうとう万三郎にそれ以上の声をかけあぐねて、こちらへ戻って来た杏児が、今度はユキの異常に面食らった。
「おい、どうした、ユキまで!」
ユキは喘ぎながら佐東から杏児に目を移して言った。
「大丈夫よ」
それからユキは息を整え、気持ちを落ち着けて、佐東にトイレに行きたいがと訊いた。
「ああ、案内します」
「俺も、行きたい」
三人は総会議場を出てトイレに向かいかけた。
その時、首からIDプレートを提げた、国連事務局のスタッフとおぼしき数人の取り巻きから報告を聴きながら、アフリカ系の身体の大きな男が三人に向かって歩いてきた。いや、正確には、三人と入れ替わりに総会議場の扉へ向かって来たのだ。
「あ!」
向こうの一団と三人が今にもすれ違おうかとする時、ユキが思わず声を上げた。その声の方に一瞬目を向けた男が、ユキを認め、それから足を止めて二度見した。それに伴って取り巻きのスタッフの足も止まり、こちらの三人と対面する形になる。男はニコリと笑って声をかけた。
「ああ、君は確か……ミズ・フクザワ! ユキ・フクザワじゃないか」
男に親しげに見つめられ、ユキは仰天して瞳を目まぐるしく左右に動かした。
「あ……」
彼はユキに握手を求めながら、強いアフリカ訛りの英語でユキに言った。
「ユキチャン、元気そうな君にまた会えて嬉しいよ」
ユキは男の握手に応えながら、当惑した表情で愛想笑いを浮かべ、小さな声で答えた。
「ビヌワ総会議長閣下、お声をかけていただき、光栄です……」
杏児から見ても、ユキは明らかに立ち去りたそうな雰囲気だった。なのに、ビヌワ議長はユキの手をしっかり握ったまま、話を続ける。
「各国の代表団が、まもなくここへ到着すると報告が次々に入ってきている。まもなく全加盟国の代表がこの総会議場へ集うだろう。今日最後に予定されている君たちの提案に、私もおおいに期待しているよ」
佐東が言葉を挟んだ。
「議長閣下、在ニューヨーク日本総領事館付書記官の佐東です。閣下がこの度、日本を信じ、再度世界に向けて提案の機会を持てるようご尽力下さったと、わが国の政府代表部から聞いております。感謝に耐えません」
佐東はそう言って深くお辞儀をした。もちろん、頭を下げることが日本風の感謝の表現だと議長が知っていると思ってのことだ。ビヌワはユキとの握手を解き、表情を引き締めて佐東に言った。
「日本はこれまでも国連運営に誠実に貢献してきた。今日の日本の提案がどのようなものであれ、それは傾聴に値すると、私は心から信じている」
「閣下、ありがとうございます」
佐東が再び敬礼をする横から、スタッフの一人がビヌワを急かす。
「議長……」
「分かった。行こう」
歩みを再開しようとするビヌワは、再びユキを見て柔和な笑みを浮かべ、ユキの肩をポンと叩いて言った。
「今回は倒れずにうまくやりなよ、ユキチャン!」
ウインクを残して、大きな体は取り巻きと共に議場内に消えた。
とても人類滅亡の危機が迫っているとは思えない議長の陽気な振舞いは、しかし意図的に演出されているのだと杏児には分かった。
――それにしても……。
杏児はビヌワ議長の背中が議場内に消えてから首を傾げた。そしてユキを振り返ったが、ユキはそれを予期していたかのように、杏児の視線を避け、佐東に話しかけていた。
「佐東さん、建物内に瞑想室がありますよね。トイレの後、そこに行きたいのです」
「メディテーション・ルームですね、石川さんの指示で、押さえてあります」
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