第十五章 紐育(6)


 総会議場ビルのロビーは次第に人が増えてきた。ビヌワ議長が言ったように、続々と各国代表団が到着しているようだ。


「万三郎は大丈夫かな」


 トイレを済ませ、ユキと共に瞑想室に案内される杏児がつぶやくと、佐東が答えた。


「お二人がトイレに行っている間にケータイを鳴らして見ましたが、出ませんね」


「そうですか……」


 杏児は上着の内ポケットから自分の貸与ケータイを取り出して開いたが、ボタンを押そうとした指を止め、それからパタンと携帯を閉じた。通常のスピーチとはわけが違う。凄まじい重圧の中、万三郎は一人、身悶えしているだろうか。


 リアル・ワールドに覚醒してすぐ、意識不明だった自分や、ことだまワールドでの十二倍速体験や、地球に小惑星が衝突する危機など、立て続けに衝撃的事実を聞かされた。それだけにとどまらず、銃弾飛び交うカーチェイスをようやくしのいで生きて空港にたどり着いた直後に、世界を救ってくれと総理大臣から直々に念を押された。そういう心理状態で機内でスピーチ原稿を渡されて、まだ二十四時間も経っていない。ミッションは、原稿を覚えて、卒なくスピーチすることではない。各国代表の心に訴えて、共感を得、世界の思いを一つにしなければばらないのだ。失敗は許されない。それは話者が誰であっても到底なし得ないことのように思われる。わずかな救いは、原稿は推敲して、自分の思いが伝わるように自由に変えて良いという、石川審議官の許しだった。万三郎にできることは、自分の言葉で話す、ということだけだ。だからといって、同時通訳に頼って、日本語でスピーチすることは許されない。同時通訳を介すと、「想い」のエネルギーが変質してしまうからだ。たいていの場合、元の話者のエネルギー・レベルから著しく低下すると、石川が言っていた。各国代表は皆、外交官レベルだから、無論、英語そのままで理解してもらえる。だから万三郎は英語でスピーチしなくてはならない。KCJで英語を学び始めて、「一ヶ月」の万三郎が。


――がんばれ、万三郎。


 杏児は一人、眉を引き締める。


 佐東に案内されて瞑想室の扉の前にきた。


 事務局から預かった鍵で佐東が瞑想室の扉を開け、照明の明るさ調整つまみを操作した。


 奥に向かってすぼまっていくような形状の、窓のない部屋。その中ほどに、百二、三十センチほどの高さの黒い直方体の石が安置してあった。一番奥には幾何学模様の壁画がはめ込んであり、その両側から間接照明がじんわりと部屋全体を照らしだしている。


「こんなところが、あるんだ……」


 部屋の雰囲気が、杏児の声を自然とひそやかなものにした。


 石が置かれたあたりから少し手前に、高さの低い台か、あるいは背もたれのない椅子が三つ、置かれていた。


 杏児は部屋のその部分へ上がっていく。


 ユキが佐東を振り返って言った。


「私たちは、あなたが『信じられない』と言った、ことだまの世界にアクセスする練習をします」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る