第十五章 紐育(4)


 万三郎の内臓のどこかの器官が明らかに何かのホルモンを勢いよく体内に放出した。意識していないのに突然何かがこみあげてきて、万三郎は演壇を見つめたまま、それを必死に飲み込んだ。喉が大きく鳴った。横から見ていた杏児が思わず声をかけてくる。


「万三郎、大丈夫か」


「ちょっと佐東さん、彼にプレッシャーかけないでよ」


 不満を口にしたユキに、佐東はびっくりするほどの権幕でかみついた。


「プレッシャー……。じゃあ聞くが、ことだまの力って何だ? 気休めの祈りに過ぎないんじゃないの? 僕にはあまりにも馬鹿げているように思える。そんなものに力があるなんて、とても信じられないんだよ。死を前に、心の安寧を図れということを別の言葉で説明しようとしているだけじゃないのか? 牧師が死刑囚の話を聴いてあげて、最後に『祈りなさい』と。それとどう違うんだ」


「佐東さん、いい加減にして!」


「福沢さん! あなたは僕に向かってそう言う資格はない」


「な、何ですって!」


「あなたはそれを自覚しているはずだ。あなたはなぜここにいる? どう責任を取るんだ」


 佐東はひるむことなくユキを責め立てる。ユキはなぜか顔を真っ赤にして目を大きく見開き、わなわなと手を震わせながら佐東を睨んだ。反論すべき言葉が見つからない風だった。


「うええっ」


 その時、万三郎が、こみあげてくる何かを飲み込み得ず、ついに嘔吐えずいた。胃は空っぽなので、何も出ない。数秒間、下を向いていた万三郎は、青くなった顔を上げると、弱々しく佐東に言った。


「用意してくれている部屋に行って、原稿、見直して来ます」


「おい、万三郎……」


 心配そうに声をかけてくる杏児を手で制して、万三郎は出口に歩き始める。


「一人に……させてくれ」


 興奮した佐東は、その万三郎の背中にさらに言葉を投げかけてきた。


「妻と子がいるんだ。君らが日本に帰る専用機に乗せて、親兄弟が待つ日本に返すことにした。僕は、こっちに残って日本国に殉ずる。代表部や領事館の仲間たちは皆、家族と別れて最後の瞬間まで職に奉ずる覚悟だ。だけど……だけどさ、頼む……。頼むよ、中浜さん。助けて……助けてくれ」


 万三郎は一瞬立ち止まったが、後ろを振り返ることなく、総会議場を後にしていった。

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