第十四章 覚醒(8)
八
小一時間後、三人と新渡戸がリンガ・ラボの瞑想室から疲れ切って出てくると、石川と古都田の見送りを済ませた恵美が、三人の救国官のビジネススーツを用意してくれていた。
「ユキさんは着替えを持ってこちらへどうぞ」
恵美の案内でユキが別室へ案内されていった。万三郎と杏児は囲炉裏の前で着替えにかかる。
着替えながら万三郎が、誰に言うともなくつぶやいた。
「瞑想室の鹿威しの音って、ことだまワールドまで聞こえて来てた」
新渡戸が説明する。
「時間の物差しみたいなものだ。あの間隔で、今何倍速の世界にいるのか、おおよその見当がつく」
「何倍速って? 部長、こっちの時間とあっちの時間は進み方が違うんですか。私には同じ間隔でしか聞こえませんでしたが」
万三郎の驚きに新渡戸は真顔で小さく頷いた。
「ひとつ、大事なことを明かしておこう。君たちはことだまワールドで一年の実務経験を積んで覚醒したと思っているだろうが、その間、リアル・ワールドで経過した時間は一ヶ月だ。つまり、君たちはことだまワールドにいる間、リアル・ワールドの約十二倍のスピードで時間の経過を経験していたことになる」
万三郎はさらに目を大きく見開いた。隣りで杏児も茫然としている。
「なっ、なっ、何ですって! どういうことですか、部長!」
「君たちは一年かけて学んだのではなく、実際は一ヶ月で体験し、記憶し、情報処理していたのだ」
あまりのことに、万三郎はにわかに思考の整理がつかない。もちろん、杏児も同じだろう。
「そ、そんなスピードで僕が物事を覚えられるはずがない……」
「実はそこがマシン・レシプロケーションの真骨頂なんだ。検体に本来備わっている潜在脳力を強制的に引き出して高速学習に対応させる」
「とても信じられません。僕の中ではたっぷり一年経過した感覚です」
新渡戸は急に不機嫌な口調になって、続く言葉を吐き捨てた。
「レシプロ・マシンによる高速学習メソッドによって、理論的には、学習効率を何十倍にも高めることができるし、通常の人の一生の何倍もの経験ができるという。ふん、実際はそんな 簡単なものだとは思えんがね」
「でも、今のレシプロでは鹿威しの音はリアル・ワールドと同じペースでした」
「そりゃあそうだ。カプセルでのレシプロなら時間の進み方を自由に設定できる。しかし、機械に頼らないレシプロで時間の尺度を自分の意思で変えるのは相当な熟練を要する。社長や 石川さんにはできるようだ。ラボ創始者の内村元事務次官とか、先代社長にいたっては達人の域らしい。私はまだできない。もちろん君たちは、セルフ・レシプロすら完璧ではない」
「なんてこったい、ホーリー・マッカラル……」
万三郎は隣の杏児と顔を見合わせてため息をつく。新渡戸は彼らの混乱や不安を払しょくするように口調を明るく変えた。
「しかしまあ君たちが、おっかなびっくりながらも、カプセルなしでレシプロできるようになって良かった。一時間でできるようにさせなければ、私は社長に顔向けできないところだった」
ユキと共に囲炉裏の前に戻ってきた恵美が杏児に言った。
「さっきラボのお茶を飲んだから、レシプロできたのよ。そうでなければ、今のあなた方は、刺激的な情報を聞きすぎて、とても瞑想できるような精神状態ではないはずよ。ラボのお茶はお薬じゃないのに、すごい鎮静効果があるの」
「あ、恵美さん、着物じゃなくなってる」
ビジネススーツ姿の恵美は、着物の時の同じく、爽やかな笑顔を浮かべた。
「ユキさんと一緒に私も着替えたの。このラボでお茶を出す時は、あの格好の方が『らしい』でしょう? 鎮静効果を上げるために、できるだけそうしてくれと社長から言われてるの。着替えたのは、今から出かけるからよ」
杏児は恵美の言になるほどと頷きつつも新渡戸に訴えた。
「でも、まだ僕、セルフでやるレシプロ、自信ないです」
新渡戸は、杏児から、恵美と一緒に着替えてきたユキに視線を移しながら畳みかける。
「だがもう時間がない。空港へ向かわないと。ニューヨークへ着いてからも、もし時間が取れたら練習しておくといい。ただし、慣れないうちは危険だから、少なくとも一人はリアル・ ワールドに残ってレシプロ中の仲間の身体を見守れ。交代でレシプロするんだ」
その時、ホトトギスの鳴き声がして、振り子時計の横の壁面に設置してあるモニターが自動的に映像を映し出した。
それを見て恵美が言う。
「迎えの車が一階車寄せに到着しました」
「よし、行こう」
恵美が、スーツのポケットからスマホを取り出し、それをリモコン代わりに操作して、三和土の大戸口のエレベーターの扉を開ける。
皆に続いて靴を履きながら、新渡戸が思い出したように三人に言った。
「ああ、それから、ことだまワールドから自力で帰ってこられなくなった場合や、リアル・ワールド側から緊急で呼び戻す手段として、君たちの脳に合い言葉を刷り込んである。レシプロ中の身体に、リアル・ワールドからそのメロディーを聞かせれば、強制的に覚醒させることができる」
最後にエレベーターに乗り込んだユキが言う。
「部長、それ、教えておいてください」
皆に遅れてエレベーターのかごに乗り込んだ新渡戸は、おほんと咳払いして口ずさみ始めた。
「♪山寺の、和尚さんが、毬を蹴りたし毬はなし――」
エレベーターの扉が閉まった。
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