第十二章 騒乱(16)

十六


 その少し前、ユキは、ほうほうの体で会場を抜け出し、トイレに逃げ込んだ。


 機嫌が悪かった。


――あいつらァー、私を置いてどこへ逃げたァ!


 万三郎と杏児が二人して会場にいない間、ユキは女性ワーズからの記念写真攻撃と、男性ワーズからの名刺交換攻勢にさらされ続けた。いや、この中座でそれらが終わったわけではない。営業マインド旺盛なワーズたちは、少しでも他を出しぬいて特別な印象を得ようと、女子トイレの外で名刺を片手に待っているのを、ユキは知っていた。


「あのー、ユキさん、体調でも悪いんですかあ? 大丈夫ですかあ?」


 さっきからユキに付きまとっている女性ワーズ【urinalysis】(尿検査)が、個室の外から心配そうにユキに話しかける。


 ユキはため息をついた。


「大丈夫よ」


 逃げ切れないと悟った。


 いつまでも便座に座っている訳にもいかないので、ユキは鈍い動作で個室を出ると、尿検査に愛想笑いを見せた。


 トイレを出ると案の定、スマホカメラを手にした数名の男女ワーズたちが、ユキを待っている。


「すみません、さっきから機会をうかがっていたのですが、他の方々とお話されていたので、近づけませんでした。私、【endoscope】(内視鏡)と申します……」


 名刺を差し出そうとする内視鏡を出しぬいて、より積極的な【drip】(点滴)がユキに話しかけた。


「ユキさん、この吹き抜けに垂れている、桜の花の装飾をバックに私たちと写真撮っていただいていいですか?」


「え、ええ……」


 出しぬかれてあからさまに口を尖らせた内視鏡の名刺をとにかく受け取り、片手に持ったまま点滴に向かって頷く。頷きながらユキは、憎むべき同僚たちがどこかに隠れていないか、回りを見回す。


 見当たらない。つい不機嫌が顏に出てしまう。


 ユキの顔色を見て、【mastitis】(乳腺炎)が気を遣っている。


「ほらドリップさん、早く撮らないと、ユキさんはお忙しいんだから」


【drip】が謝る。


「はい、ごめんなさい、そうしたら、皆さん、ユキさんを中心に、そこの手すりのところに集まっていただけますか」


 こうしてユキが、【hand over】(引き継ぎ)、【autonomic ataxia】(自律神経失調症)、【laxative】(便秘薬)、【osteoporosis】(骨粗しょう症)などと記念写真を撮っているさ中、後方階下から叫び声が聞こえてきた。


「【hope】、今のお前は偽善者だ!」


「う……うぉ、うぉーッ!」


 声につられてユキは振り返って階下を見下ろした。


 半ズボンの男の子がステージの上で突っ伏している。それを、スーツ姿の男と、金髪で赤いワンピースの女が見下ろしている。もう一人の半ズボンの男の子はステージの端に数歩、後ずさりした。


「あっ!」


 ユキはその子のいる辺りのステージ下に、後ろから羽交い絞めにされた万三郎らしき人物がいるのに気が付いた。

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