第十一章 裏表(15)

十五


「ヨッシー、その鍵は何やの?」


 後部座席に、ユキと京子に挟まれて小さくなっている祖父谷は、借りてきた猫のようにおとなしい。というより、やっぱり顔色が悪かった。乗り込む前から終始うつむいていて、明らかに異常だ。


「まだ気分悪いの? 吐きそう?」


 ユキの問いかけを背中で聞いていた運転手がバックミラー越しにわずかに声を荒らげる。


「お客さん、車内で吐くのは勘弁してくださいよ」


 祖父谷が蒼白な顔を少し上げて答える。


「だ、大丈夫です。車出してください」


 タクシーは繁華街の中心地方面の駅へそろそろと動き出した。ユキは即座に訊き始める。


「祖父谷くん、雉島さんと何の話をしたの」


 すぐ隣の祖父谷の口からぼそりと言葉が漏れ出る。


「お……俺達は、どうしてKCJにいるのか」


 ユキは頷く。


「この間会った時に訊きたかったことだわ。それで? それで雉島さんは何と……?」


 祖父谷は顔を上げ、ユキの目を見た。信号で止まったタクシーの窓から緑のネオンサインの点滅光が差し込み、そのたびに祖父谷の目の毛細血管を黒く目立たせる。あるいは泣いていたのか?


 祖父谷の答えはつれないものだった。


「言わない。ユキちゃんには、関係ない」


「はァ? どうして」


 祖父谷は手にしていた一万円札を裏返した。おさつなら自分のエネルギーで間に合っているからと【bad!】に返そうとしたユキに、「雉島さんの好意に失礼だから」と言って代わりに受け取ったお札だ。【bad!】は「分かってんじゃねえか、兄弟」と満足そうだった。


「ユキ。君は、俺たちスピアリアーズとは違うから」


 そう言いながら、ふと思いついたように祖父谷は、ユキの肩越しに一万円札をネオンサインにかざしてみる。


「でも諭吉さん、透かせば裏からでも見えるんだよな……」


 反対の隣に座っている京子がその様子を見て何ともなしに言う。


「その、裏に載ってる鳳凰って、うちらの社章と似てるな」


 数秒の沈黙があった。すると祖父谷が下を向いて「くっ、くっ」と言った。ユキは驚いて祖父谷を見る。最初、何かを思い出して笑っているのかと思ったけれど、彼は嗚咽していた。


――な、泣いてる! 祖父谷くんが?


 その向こうで京子も驚きで口を開けていた。それでも彼女は、数回つけまつ毛をばさつかせると、後ろから腕を回して祖父谷の背中を抱き、ポンポンと叩いた。


 祖父谷は、両肘を左右の膝につき、おさつとルームキーをつかんだまま、手を組んで背中を丸めた。フロントガラスに向けて祈るような姿勢で、歯を食いしばって嗚咽を噛み殺そうとしている。だが嗚咽は行き場のない憎悪か運命を呪う言葉に形を変えて、祖父谷の口から絞り出されてきた。


「くそっ! なんだって俺はETさせられてんだ!」


 ユキはただ目を丸くして祖父谷の尋常ならざる姿を見つめるのみで、かける言葉も思いつかなかった。一方、京子は同僚をいたわるように背中をさすってやった。


「ヨッシー、あんた、よっぽど辛いこと、聞かされたんやね」


 運転手が驚いてちょっと振り向く。


「あ、あんたたち、ETなのか?」


 祖父谷の肩を抱く京子がはっと気付いて、祖父谷の手からルームキーを取り上げる。そのキーホルダーに彫られたホテル名と、タクシーの中から見える看板が一致するのを見て、慌てて言った。


「運転手さん、ここで止めてんか!」


 タクシーはホテル前に静かに止まった。


「福沢、あんたはこのまま乗って帰りな。うちら、この鍵、ホテルに返しに行かなあかんから」


 歩道側に二人を下ろすため、ユキもいったんタクシーから降りた。


 京子は珍しく白目と黒目が判別できるくらいにユキをまっすぐ見つめてきて、念押しするように言った。


「今日あったことは全部、誰にも内緒やで」


 結果的に祖父谷と二人で食事したこと、クラブ・サラマンダーのような危険な店に行ったこと、祖父谷が雉島と接触したこと、京子がゴリラの真似が上手いこと、祖父谷が人目をはばからず泣いたこと、そして泣くほどショッキングな何かを祖父谷が雉島から聞かされたこと。どれひとつとっても、誰かに言うことで誰かが幸せになる情報とは思えない。


 ユキは京子に小さく、しかしはっきりと頷いた。


 京子は降りてきた祖父谷から受け取った一万円札をユキに手渡すと言った。


「ほな」


「お客さん、行きますよ」


「お願いします」


 後部座席の真ん中に座り直したユキが少し屈むように姿勢を変えると、バックミラーに後ろの光景が映り込む。京子に支えられるように寄り添われた祖父谷の姿が、小さく遠ざかっていった。




◆◆◆

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