第十章 鴨焼(3)


――待って……。


 潮流が速すぎて、バディを見失いかけていた。力強くフィンをストロークしているつもりなのだが、まったく追いつけない。スキューバ・ダイビングについては就職の内定をもらってから始めたばかりで、まだ間違いなく初心者レベルだった美耶はパニックになった。スクールの座学では、トラブルに際しても冷静に、呼吸を深くゆっくり保つようにと習ったが、実際自分がその状態に遭遇すると、その恐怖心は尋常ではない。焦りが自然と呼吸を早める。


――と、とりあえず浮上しないと……。


 浮力調整ジャケットの給気ボタンを目いっぱい押し込む。深度計を見ると確かに浮上している。


 早く、早く……と焦っていると、腕のダイブコンピューターが警報を発しているのに気付いた。


 ピーピーッ、ピーピーッ、ピーピーッ。


 浮上速度が速すぎたのだ。


――あ、そうか。止まらなきゃ……。


 そう思ったのが、理性的判断が頭をよぎった最後だった。息が苦しい。胸が痛い。今、上を向いているのか下を向いているのか。前後不覚に陥る中で、自分がどんな動作をしているのかも分からなくなっていった。


――苦しい。痛い。ああ……。


 すでにぼんやりしていた視界の明度が落ち、ブラックアウトしていく。もはや、鳴り続けているアラーム音だけが、環境と意識を結びつける唯一の存在になった。


 ただただ、息が苦しい。


 ハア、ハア、ハア……いッ……いーッ……


「いやあーッ!」


 目を大きく見開き、がばっと勢いよくベッドから上半身を起こした。


 汗で頭がびっしょり濡れている。

 

 息は……できる。肩で目いっぱい息を吸い、吐いている。


 見ると、お腹のところに自分の肩掛けバッグが転がっていて、中身の一部が飛び出して、腰の辺りに散乱していた。起き上がることで、もともと胸の辺りにあったバッグが転がって、中身が散らばったようだ。


 ピーピーッ、ピーピーッ。


 枕元に置いていたスマホのアラームが鳴っているのに今になって気付いた。アラームを止めてスケジュール画面を確認する。


「懇親会@いろは・十九時」


 慌てて時計表示に切り替えてみる。


 十八時三十四分!


「冗談でしょ!」

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