第八章 善悪(13)


十三


「いつ入社した?」


 万三郎は唐突に訊かれ、言葉に詰まる。


「た、たぶん、四月一日……です」


 雉島は無言で視線を祖父谷に移す。


「たぶん、同じ日です」


 ユキは雉島に見られるとうつむいた。


「私は……分かりません」


 雉島は万三郎に視線を戻し、さらに問うた。


「四月一日より前にはどこで何していた」


 万三郎の目をまっすぐ見入ってくる。ぞっとするほど冷たく、暗い目だ。しばらくの沈黙の後、万三郎は思わず目を逸らした。


「お、覚えていません」


 万三郎が言い切ってなお、雉島は万三郎を目で追った。そして上目使いで睨むように祖父谷に視線を移す。


 祖父谷は口をもごもごさせた。


「私は……」


 さらにユキは下を向いたままだ。


 万三郎は例の頭痛にさいなまれていた。雉島は三人の襟元の、鴨の社章を交互に見つめる。そしてそれらが赤く光っているのを認めてフッと笑みを浮かべた。そして次の問いを祖父谷に発した。


「英語学習は、好きか?」


 雉島と目があった祖父谷は、気圧されまいとぐっと目に力を入れて雉島を見返す。


「はい、大好きです」


 雉島は祖父谷から目をそらすことなくニヤリと笑う。二秒ののち、ようやく視線をユキに移した。


「お前は?」


 ユキは顔を上げて、これも気丈に雉島を睨み返す。


「仕事です」


「ふっ、いい答えだ。嘘はついていないものな。じゃあ、お前は?」


 雉島の視線は万三郎に戻ってきた。万三郎は顔をしかめて額に手を当てたまま、顔を上げて、それでも答える。


「好きに、なって、きました」


「ほう。では好きになる前は?」


「……大嫌いでした」


 雉島は声に出して「はっは!」と笑った。


「正直でよろしい」


 雉島は万三郎に特に興味を抱いたようだ。車椅子を少し動かして、万三郎の正面に定置して、改めて万三郎を見上げる。


「名前は?」


「中浜、万三郎です」


「中浜。では、その大嫌いな英語を、どうしてお前は学ぶことに決めたのだ? 社長室で、古都田に何と言われた?」


 万三郎は雉島の、冷たく暗い目に視線をからめとられたまま、記憶をたどり、やがて答えた。


「『KCJで英語を学ぶことは、自分が変わることを学ぶということだ。考えるよりやってみろ、扉があるなら、とにかく開けてみろ。チャンスの階段は、扉の向こうにしかない』と、言われました」


 その途端、雉島は爆笑した。あまりの大声に三人はビクリとした。


 もちろん万三郎はなぜそんなにおかしいのか分からない。


 笑いが収まったのち、雉島は挑戦的な面構えになって万三郎に向かって言った。


「恐ろしく安っぽいセリフに煽られたものだな、お前も」

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