第三章 由紀(7)

  七


「ぷはぁ、旨い」


 彼らはちょうどビールを自分の喉に流し込んだばかりで、マスターがマサヨを呼んだ声に気付かなかったようだ。


 こちらを向いている方の男が、また私と目が合って、ジョッキを持ったまま驚いていた。きっと、「なんだ、この人」といぶかしんでいることだろう。そういう顔をしている。


 少しの間厨房に隠れたマサヨは、二人分のライスの皿を盆に載せて現れた。カウンターの裏を通ってテーブル席へ行こうとするところを、厨房からマスターが呼び止める。


「マサヨたん、これも持って行って」


 私は再び男性客のテーブルを振り返った。そして注意深く観察したが、少なくともこちらを向いている男の表情には特別な驚きらしきものはうかがえなかった。向こうを向いている男も特段、動作が凍った感じでもない。


――なんで……?


 心底がっかりした。間違いなく聞こえているはずなのに……。私は、思うように反応しない男たちが憎らしくなる。


――何なのよ!


 この店の入り口ドアの近く、レジ後ろにクロークハンガーがある。カーテンが開いていたので、さっきマサヨがハンガーにかけておいた、二人の男性のスーツの上着がふと目についた。金の襟章が光っていた。その襟章には見覚えがあった。


――えっ?


 思わずバーチェアからすべり下り、一人レジ近くまで一歩二歩、駆け寄って、それがKCJの社章であることを確認すると、私は二人の男に向き直る。


「ちょっ……あ、あなたたち、ET?」


「はあ?」


 こちらに背を向け座っていた男も上体をよじらせてこちらを見た。先ほどから幾度も目が合って、私のことをいぶかしんでいたに違いない男は、いよいよ不審さを表情に出す。


 向こうに座っていた方の男が訊いてきた。


「あの……KCJの方ですか」


 私は二人の男たちの顔を交互に睨むように眺めたが、それから一瞬目を閉じて「はあ」とため息を吐いて、質問には答えずに彼らから目を逸らし、席に戻った。酔いが完全に回っているのに、急に立ち歩いたりしたから、頭がくらくらした。私は再びカウンターに突っ伏す。


 無言の時間が経っていく。彼らの視線を背中に感じながら考える。


――そうか、この人たちが私の……。


 マスター・ジロー白須田が、ハンバーグの皿を両手に持って私のすぐそばまで来た。そこで皿をマサヨに手渡し、マサヨが二人のテーブルまで運んで行った。


「お待たせしました、ハンバーグ定食です」


 その時、マスターが私に囁く。


「確かに、ET、ことだまカンパニー幹部候補生の社章だね。ということは、ユキちゃんの……」


 私は少しだけ顔を上げて、自分の口の前で人差し指を立てて見せる。マスターは、ナイショだという私の意図を察してくれたようで、小さく頷いた。


「おお、旨そう、じゃあいただきます」


 ETの一人がそう声を上げた。よほど腹が減っていたのか、二人はしばらく無言でカチャカチャと料理を食べ続けた。


 BGMのジャズが店内を支配する。その間、私はカウンターに突っ伏して一人、悪夢の続きを見ていた。


「マスター、マティーニ」


 突っ伏したまま、空のグラスを前に押し出して呻くように言うと、マスターが心配そうに諫める。


「ユキちゃん、もう止めておいたら?」


 だらしなく丸めた背中からカウンターの天板にまで無秩序に広がった髪を右手でうっとおしげに掻き上げてキッとマスターを睨む。


「マティーニ!」


 マスターは困ったような表情で首をかしげた。


「今日は本当に荒れてるね」


「いいから、作って」


 マスターがシェイカーを振る間、後ろのテーブルでは、ようやく腹具合が落ち着いたETたちが会話を再開した。


「すみません、ビールお代わりお願いします」


 ETの一人がマスターに言った。


「かしこまりました」


 その時、マスターは小さく「マサヨたん」と言った。マスターの横に待機していたマサヨは頷いて行動を始めた。


 私は右の腕を少し持ち上げて、二の腕の下、ばらける髪の間からETたちの様子をうかがった。マスターの声は確かに小さ目だったが、それでも絶対、今の「マサヨたん」は耳に入ったはずだ。

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