第一章 万三郎(13)

  十三


 数秒のうちに、激しい頭痛に襲われた。


 こちらを凝視され、見えない紐で彼にがんじがらめに縛られているように感じるのは先ほどと同様だったが、先ほどは頭がズキズキするようなことはなかったのに。


 それでも、何か答えなければと思い、社長の黒眼の向こうに、じっと記憶をたどろうとする。


 嫌な汗が頭から額へと流れてくるのを感じた。


 社長の眼を見返したからわかったのだが、答えを待つ社長の眼は、俺の眼を見てはいなかった。社長は、俺の胸の辺りを注視していた。しかし、俺の額に汗が一筋流れたのに気付き、先刻同様、ようやく緊張の紐をわずかに緩め、俺の目を見て、笑わずして微笑んだ。


「ふっ、まあいい」


 頭痛はたちまち治まった。


 古都田社長の、恣意的な威圧感のコントロールによって、俺は良いように翻弄されている。そして隣をうかがうと、三浦杏児も右手をこめかみの辺りにやって首をかしげていた。彼も頭痛だったのか。


――やはり、この爺さんの本性は、よく分からない。


 その時、社長室のドアがノックされた。


「入りなさい」


「失礼します」


 入って来たのは、四十代後半とおぼしき、メタボリックな男だ。


 古都田社長は、男を近くに呼び寄せた。


「ああ、今神くん、ちょうど良かった。紹介する。本日入社のETだ。中浜万三郎くんと、三浦杏児くんだ」


 俺たちは慌ててこの男にお辞儀をする。


「中浜万三郎と言います」


「三浦杏児です」


 あごから首のラインが鈍角のこの男は、タオル地のハンカチをポケットから出してせわしく額の汗をぬぐいながら、俺たちの胸の社章を見てフフンと片方の唇を上げた。それから顔を上げて俺たちを交互に見る。


「なるほど。中浜くんに三浦くんだね、社長から聞いていました。素晴らしい英語の使い手とか。KCJ秘書室長兼営業調査部長の今神栗八いまがみ くりやです。よろしく」


「私の直属上司です」と、藁手内恵美が補足した。


「で、社長、いかがですか」


 今神室長は汗を拭いながら社長に向き直って尋ねる。


「うむ。機能しているようだ」


「そうですか、ではしばらくこの周波数で……」


 ネクタイが締まっているシャツの襟元を人差し指で引き上げて、首との隙間にタオルハンカチを当てている今神室長を視線から外しながら、社長は俺たちに言う。


「先ほども言ったが、ETは、選ばれし幹部候補生として、我がKCJの取締役、監査役など役員一同から大いに将来を嘱望されている存在だ。今神くんには、君たち三人の成長ぶりを役員諸氏に伝える仕事もしてもらう」


 万三郎は訊き返した。


「三人……?」


「ああ、そうか」


 社長は新渡戸部長と目交ぜした。


 新渡戸部長が説明する。


「ETは君たち二人だけではない……とだけ、今は言っておこう」


 社長が今神室長に向き直る。


「ところで、もうそんな時間か」


 今神室長が頷く。部下の藁手内恵美が、腕時計を見ながら答えた。


「そうですね、そろそろ石川さんを玄関でお迎えする時刻です」


「そうか」


 社長は、新渡戸部長に向き直る。


「新渡戸くん、では彼らをよろしく頼む」


「チンステヘ」


「そうだ。私からエドワード駅長へ伝えてある」


「かしこまりました」


「よし、三浦くん、中浜くん。新渡戸くんについて行きたまえ。KCJを代表して、君たちの奮闘を祈っている。今神くん、行こう」


 社長のその言葉に、藁手内恵美がすぐに扉を開けに向かって行き、新渡戸部長は手に持っていた書類ファイルを閉じた。


 エレベーターのボタンを押すためにか、先に部屋を出て行った今神室長に続いて、古都田社長は大股で社長室を出て行こうとしていた。


 俺は、意を決して、その背中に声をかけた。


「あの、社長!」


 社長は部屋を出たところでこちらを振り向く。


「社長、KCJって、何の略なのでしょうか」


 油絵の後光をピタリと後ろに従えつつ、社長は鋭い眼光を放つ。次第に謎めいた笑みを浮かべ、ゆっくり俺たちに言った。


「ことだま(K)・カンパニー(C)・ジャパン(J)」


 重厚な社長室の扉がゆっくりと閉じられていった。



 ◆◆◆



(1)"Young men are fitter to invent than to judge, fitter for execution than for counsel, fitter for new projects than for settled business."――Francis Bacon (1561-1626).

「若者というのは、判断することよりも考案することに適しており、また、協議よりも実行に適しており、また、安定した仕事よりも新しい企画に適している」――フランシス・べーコン(イギリスの随筆家・哲学者・政治家)


(2)「ヘミングウェイは言った。『人生は素晴らしい。戦う価値がある』……後の部分には賛成だ」

“William Somerset: Ernest Hemingway once wrote, ‘The world is a fine place and worth fighting for.’ I agree with the second part.” ――Se7un (1995)

 映画「セブン」のラストで、ヘミングウェイの小説『誰がために鐘は鳴る』の一節を引いて老刑事がつぶやくセリフ。


(3)「前へ、進め」は”Forward march!” という号令が一般的。


(4)最高の学習は、学び方、すなわち自分が変わる方法を学ぶことにある――ジョージ・レナード(アメリカの作家・教育家)

 "To learn is to change. Education is a process that changes the learner."――George B. Leonard(American writer, editor, and educator, 1923-2010)

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