第一章 万三郎(1)
一
「む、お見えになる」
部長は、本革張りのひじ掛け椅子からおもむろに立ち上がったので、俺は部長と向き合って座っていたソファーから弾かれたように起立し、気をつけをする。ほぼ同時に、隣に座っていた若い男も起立した。
新渡戸部長は、数歩歩いて応接セットのエリアから出ると、ある場所で立ち止まる。俺たちを見やって、ここに立てとばかり、足下を二回、無言で指さした。そして、自分はそこから少し離れて、ドアの方に顏を向けて立つ。
俺と隣の男は、指示された場所にいそいそと移動して、ドアに向かって並んで立った。そして二人示し合わせたようにスーツの襟を正し、乱れがないか前髪を撫で、うつむいてコホンと咳払いをした。
深みのあるワインレッドを基調とした、毛足の長い絨毯が、靴のソール部分をほぼ完全に覆い隠している。踏みしめた足の下の、安定感のあるわずかな弾力が、この絨毯の下地の厚みを物語っていた。
俺は、顏を上げ、背筋を伸ばしてあごを引く。隣の男もそれに倣う。わずかな衣擦れの音などは、毛足の長い絨毯の隙間にたちまち吸引されていき、ついにこの部屋は完全なる無音に至った。
静けさは、まるでゼラチンが急激に固まるように三人を包みこんでいる。部屋中に隙間なく満ちて、もはやどんな音を拡散させることをも拒んでいた。
俺は、ゼラチンが部屋の中どころか、体内にまでどんどん侵入してくる気がしていた。臓器が包まれていき、体腔の内圧が高まる。すると肺が膨らむのもままならず、呼吸が苦しくなる。心臓も、じわじわと握られていく圧力に抗うために鼓動が強く激しくなる。静寂は、明らかに俺の緊張を倍加させていた。隣の男は平気なのだろうか……。
それから十秒、あるいは、永遠が過ぎた。
ゴクリ……。音こそ拡散しなかったが、視界の隅で、隣の男の喉仏が一度大きく上下した。時が止まってしまっていたわけではないのだと気付くと同時に、奴もやはり、極度の緊張の中にいるのだと分かった。
それから、さらに十秒――。
カチャリ。
密室に隙間ができた。八メートルほど先のドアに向かって、溜まっていたゼラチンがゆっくりと流れ出した。急な減圧に、心臓の鼓動が勝ちすぎて、血圧が一気に高まったようだ。こんなの、心臓に良いはずがない。
人の背丈の倍ほどもあろうかという重厚な扉が静かに部屋の内側に開いて、若い女性が顔を出した。彼女は黙ってそのまま扉を押して開ききり、続いてもう一方の扉も内側に全開にして、自身は部屋に入ってすぐの、右扉の脇に立った。
ワインレッドの絨毯は、室内のみならず、扉の向こうで左右に延びる廊下に至るまでずっと敷き詰められている。開いた扉越しに見える廊下の壁の正面には、レンブラントかルーベンスか、よく分からないけれど、荘厳な額で縁どられた、大きな油絵が掛けられている。キャンヴァス表面に盛られた絵の具のタッチが生み出す細かな凹凸に、廊下の柔らかな照明が反射して、絵の白っぽい部分を眩しく輝かせている。俺は目を細めた。
そこへ、一人の男が、現れた。
男は、廊下の左側からゆったりと歩いて俺たちの視界に入り、扉の中央に至ってはじめて身体をこちらに向け、一瞬足を止めた。そして、背景の油絵の中心に描かれた、聖者が発する、きらびやかな後光の放射を背景にして、入室してきた。
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