プロローグ(8)
八
斎藤はすごい速さでブリッジから起き上がり、すがるように自分のテーブルに手を伸ばして、立て膝になりながらタブレットを確認した。モードが切り替わっている! 画面には、横向きの人間の首から上の断面図が黒いシルエットで表示され、その口腔辺りに白い光が点滅している。
「き、奇跡だ……やった……!」
タブレットを両手で握って、斎藤はつぶやいた。
ダイヤが再び大声で斎藤に知らせる。
「インボディー・ナビゲーション開始! ターゲットの鼻腔から上がります。脳幹定置まで十五秒!」
斎藤は感動に打ち震えていた。心臓はまだバクバク脈打っている。
――俺って、すごいな。見たか今神。お前にはとてもできまいが。
斎藤は満足げに後ろを振り返った。怒りと恐怖に震える川井摘美鈴の姿がそこにあった。彼女は電話をかけている。
「警察ですか? 変態ストーカーがいます」
すると、向こうのテーブルからスーツ姿の男が現れた。スペードだ。
「こいつか、ストーカー野郎は」
高橋の名を叫んだカップルの男の方も寄ってきた。クラブだ。
「お前のせいで高橋がいつまでたってもケーキ持ってこねえじゃねえか!」
あっけにとられている斎藤を二人は怒りの表情で見下ろした。
「駅長室に連れて行きましょう」
「そうだな、警察が来るまで駅長室だな」
斎藤は両腕を二人の男たちにつかまれ、立ち上がるよう促される。
「痛ッ……」
川井摘美鈴は一瞬顔をゆがめて、スマホを少し顔から離した。
「え? いえ大丈夫です、刺されていません。一瞬頭痛がしただけです。犯人は、取り押さえられています。……はい、駅構内のカフェです」
そのとき、ダイヤが叫んだ。
「定置完了! インプラント・オペレーション、オール・ダン!」
斎藤の右腕を取り押さえている男の一人が斎藤をせかす。
「ほら、歩け!」
「痛てて! スペード、腕、絞めすぎ」
「つべこべ言うな! 早く歩け、変態野郎!」
斎藤は恨めしそうにスペードを見上げて、せかされるままに歩き始める。その斎藤の荷物は、奥のテーブルにいたハートがそっと回収していった。
ミッション完了を宣言したダイヤが、自分とクラブの荷物を持って、すでに席を立ち去ったのにクラブは気づいた。彼は斎藤の左腕を抱えたまま、自分のテーブルの横を通り過ぎるときに、ズボンのポケットをまさぐって、探り当てた五千円札をテーブルに置いて言った。
「高橋ッ! 五人分だ。釣りはとっとけ」
他の客が見守る中、スペードと一緒に斎藤を抱えて店を出て行ったクラブに、ハートが後ろから駆け寄って耳打ちしている。
「えっ? ダイヤが最初に払ってた? この店、先に払うシステムだったの?」
間の抜けた声を発して、クラブは未練がましく自分の五千円を振り返った。
ハートが「迷惑料、迷惑料!」としきりに言って慰めている。「早く逃げるぞ」と言うスペードが斎藤を引っ張って歩調を緩めないので、クラブは泣く泣く上司に八つ当たりした。
「この変態野郎!」
◆◆◆
(1)"It's not my cup of tea."「私の好みではない」という意味のイディオム(慣用句)で、コーヒーが好きではない場合も、"It's not my cup of tea."となる。
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