プロローグ(7)

  七


 斎藤は立ち上がると同時にマスクを荒々しく取り去り、電光石火の速さでストローをつまんで、体を仰向けによじりながら、摘美鈴のテーブルの近くの床に滑り込んだ。ズザザーッと音が聞こえてもおかしくない体勢で斎藤はストローを口に咥える。摘美鈴は恐怖で声も上げ得ず、腕を組んだまま上体をのけぞらせた。


――ああ、遅過ぎたか……。


 斎藤のストローはすでに、フラッフィーなる物体を真下から吹き上げることは不可能だった。フラッフィーはすでに床から十センチほどのところをゆっくり、降下していた。自分が起こしたかもしれない乱気流がたまたま影響していないのは幸か不幸か。


 仰向けになった自分の頭の上、つまり摘美鈴の足の方に向かって視界から消えていこうとするフラッフィー。斎藤はストローを咥えたまま、顎を上げてそれを追いかける。


――くそっ! 床に汚染されるよりは……。


 斎藤は、その場で自分の尻を持ち上げ、体重を頭で支えるブリッジをした。手で支えているストローの先とフラッフィーが一直線になる。


 その延長線上に、後ろにのけぞった状態でテーブルの縁から床を見下ろす摘美鈴の目があった。斎藤は摘美鈴など見えていない。また摘美鈴もフラッフィーなど見えていない。摘美鈴が見ているのは、ダークグレーのスーツに身を包んだ中年男が、目の前の床で頭支えブリッジして、摘美鈴の股間に向けて必死にストローを吹こうとしている姿だ。摘美鈴は状況が飲み込めず、口をぽかんと開けたまま、斎藤の行動をただ見守っている。


「プスーッ!」


 ストローから空気音が漏れた。斎藤はストローを口から外すと、思わず叫んだ。


「よしッ! ベストポジションだ」


 斎藤にしてみれば、このぎりぎりの状況で、絶妙な角度でフラッフィーを吹き上げ得たのだった。サッカー選手が、試合終了間際、ありえない角度から一か八かのシュートを打ちこむのに似ていた。ゴールは……ターゲット川井摘美鈴の「口」だ。最初からそこが目標なのだ。だが、起死回生のシュートがターゲットの口の中に入るためには、摘美鈴の口の開きかたは不十分だった。


「お客様! 大丈夫ですか?」


 手にしていたベテルギウス・チーズケーキの盆を、取るも取りあえず傍らの空いたテーブルに置いて、高橋店員が斎藤に駆け寄ろうとする。立ち上がり際に客が卒倒したのだと思い込んだのだろう。


 その高橋を、クラブが制した。


「行くな高橋ッ!」


 高橋は再びぎょっとしてその場に立ち尽くした。


 斎藤は上下逆さまのまま、神に祈るような目つきになって叫ぶ。


「もっとだ! 摘美鈴ちゃん、頼む、もっと大きく開けてくれ! 早く!」


 摘美鈴は見る間に恐怖で顔を青ざめさせ、両膝を固く閉じた。が、その直前、驚きで大きく息を吸い込んだのだ。


「ど、どうして私の名前を……?」


 斎藤は大きく目を見開き、希望の色を浮かべる。


「おおよしッ! 行ったか? 行ったのか? ダイヤ、現在地ッ!」

 すかさずダイヤが肉声で叫ぶ。


「座標、ゼロ、ゼロ、ゼロ。行きましたッ! 成功です!」

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